第46話「後はしっかり眠れれば最高だという話」
しかし、いや「しかし」なのか「だから」なのかは諸説あるが、折角こうして漸く平静を取り戻したにもかかわらず、その直後にはまた新たな問題が俺の眼前に湧いて来ていた。則ち、無意識にそれを抑えていた様々な精神作用から解放された結果、昨日から続いている俺の身体の状態から考えれば当然の帰結として、そして食後には体内の血液が消化器官に集中するという事もあり、俺は睡魔と呼べる程の強烈な眠気に襲われていた。
尤も、別に作家という自由業である事の数少ない利点である、時間的な融通が利くという点を考えれば……という様な話をするまでもなく、そもそも予定では午前十時に起きる筈だったのだから、そんなに眠ければ眠れば良いという話なのだが、例によってそうする訳にはいかない理由が存在していた。
とはいえ、先程やや強引に交わされた約束は春菜の放課後の話なので、別にその為という訳ではない……というよりも、そもそもその様な外部との関係によるものではなく、もっと内的な、そして直接的な理由により、俺はこのまま布団へと向かう訳にはいかなかった。
則ち、別に「食後に直ぐに寝ると牛になる」という迷信、或いは寓話を信仰しているという訳ではないが、単純に食べた物が逆流する等の問題が発生する可能性を考えれば、この満腹状態のまま眠りに就く、というよりもその前段階である横になるという行為自体が、決して推奨されるものではなかった。
という訳で、予定よりも随分と早く起こされてしまった上に、それを補填する事も封じられてしまった訳だが、意外にも今の気分は決して悪いものではなかった。その理由は良く分からない、というよりもこの眠気の中では碌に考える事すら出来ないが、別にそこに解決しなければならない問題等が無いのであれば、物事の理由などという物は無理に特定する必要は無いだろう。
とはいえ、このまま横にならなければ逆流等は起こらないだろうが、ぼうっとしていれば容易に夢の中に入ってしまいそうな現状では、意識を保つ為には何かを考えていた方が良いだろう。そう考えた俺は、先ずは何について考えるのか、という事を考え始める。
だが、それから数秒、或いは数十秒後、気付けば俺は早くも眠りの中へと落ち掛けていた。一日の終わりに眠ろうとして布団に入っても中々寝付けないくせに、こうして眠りたくない時には喜び勇んで夢の中に入って行こうとする辺り、やはり俺の身体は俺を裏切る事が心底大好きであるようだ。
しかし、毎度の事で嫌気が差して来たのは事実だが、今回ばかりはそれも悪い事ばかりではなかった。というのも、怒りを抱くという事はつまり興奮しているという事であり、興奮とは当然ながら眠気とは相反する状態である為、その裏切りは結果として俺の眠気を和らげる事に貢献していた。そして、それによって若干の働きを取り戻した俺の頭脳が自身の仕事を果たした結果、それは至極尤もな結論を導き出す。
則ち、そんなに眠りたくないのであれば、思考だけではなく何かしらの行動をすべきである。という当然の結論に従い、俺はパソコンの電源スイッチへと手を伸ばすが、既の所でそれを思い止まる。というのも、それは専ら仕事と動画視聴に使われる物であるが、そのどちらの機能も現状での使用に適したものではなかった。
無論、昨夜にも実際に麻雀をしていた様に、それは他にもいくつもの機能を有してはいるのだが、この眠気により十全には頭が働かないという現状では、やはりそれらも現在の目的を果たす事に適しているとは言い難かった。
という訳で、俺は襲い来る睡魔に抗う為にも先ずは椅子から立ち上がると、次なる行動の候補を求めて和室の方へと歩き出す。それはこの眠気の中でも殆ど思考停止で行える時間潰し、則ち例のオープンワールドのロールプレイングゲームをプレイする為に、そう言えば起床時から放置していたスマートフォンを取りに行こうという行動だったが、その短い道中にも二度は大きな欠伸を催す程度には、俺の身体は睡眠の不足を懸命に訴えていた。
とはいえ、それは流石にスマートフォンの回収という簡単な仕事をこなせないという程ではなく、俺はすんなりとそれを回収する事に成功すると、少し考えてから再度食堂の方へと歩き出す。別にゲームのプレイだけであれば和室に居ても何の問題も無いのだが、仮にこれからどんな予定を立てていたとしても、布団の上に居る限りは気付けば睡眠を選択してしまうという可能性が常にある事を、俺はこれまでの経験から既に知っていた。
尤も、それは決して自慢げに語れる様な事ではないのだが、少なくともこの状況でそうなってしまう事を防げたという意味では、その愚かな経験も決して無駄ではなかったと言えるだろう。つまり、それが致命的なものであり、かつ人生で二度と遭遇しない様な事例でもない限りは、どの様な失敗でも必ず未来に活かせる時が来るのだから、あまり失敗を恐れ過ぎる必要は無いという事である。
などと、最早惚れ惚れする程に鮮やかな自己弁護をかましながら食堂へと戻る道中、俺は漸く或る事実に気付くと、思わず足を止めて後ろを振り返る。俺を浅い眠りから起こしたあの蝉は既に何処かへと飛び去ったのか、その方向にはただ静寂だけが漂っていた。




