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第44話「それを必要以上に重視する事の是非は措いておくとして、人が美しいものに惹かれるのは当然であろう」

 美味い。斯くして、漸くその「ステーキ丼」を一口食した訳だが、別に料理評論家でもそれ気取りの素人でもない俺がそれに抱いた感想は、ただその一言で言い表せるものだった。いや、厳密には何とか堪えていた涙が再度溢れそうになる程度には、様々な思いが今もこの胸中には去来しているのだが、味という一点に関してのみを言えば、その一言以上に語る必要性は無い様に思えた。


 とはいえ、その溢れそうな涙を実際にそうさせない為には、先程から脳裏に浮かんでいる懐かしさだか感動だかを振り払う必要がある。そんな事を考えた俺は、仕方が無いという体で敢えてそれ以上を、則ちその料理の味わいについてある程度具体的に考えながらそれを食べ進める事にする。


 尤も、別に思考という物には本来何の制限もされていないのだから、そんな自身の信条……とまでは言わずとも、普段のやり方に反する事をする必要性などは無論存在しない。だが、事態はそれなりに急を要する上に、意識の何割かは味覚に乗っ取られている様なものである現状では、それに関係する思考が選ばれるのも仕方が無い事だった。


 という訳で、自称「最適な方法」である行儀の悪い食べ方を続けながらも、俺は自らの口内に感じられる味わいについてを、自身のそれに関係する知識を無駄に総動員しながら分析していく。そして、その分析を始めた時、先ずその対象に選ばれたのは当然ながらその丼の具となっているステーキについてだったが、その分析の本来の目的に反して、最初に気になったのは味わい以外の部分についてだった。


 いや、或る意味ではそれも味わいの一部と言えるのかもしれないが、兎に角俺が最初に気になったのは、しっかりとした歯応えがありながらも決して噛む事に苦労はしないその柔らかさだった。その肉に赤みが残っていた事からも既に推測は出来ていたが、やはり春菜の言に偽りは無く、それは紛れも無い高級な和牛のステーキだという事である。


 尤も、それはあくまで俺の経験に基づく推測、つまりそこまで火を念入りに通さなくても良いだけの品質があり、かつその肉の柔らかさから恐らくはそうであると考えただけの事なのだが、わざわざ春菜がそんな嘘を吐く必要が無いという事を合わせれば、この推測は正しい可能性が非常に高いと言えるだろう。


 ともあれ、そうして高級なステーキの柔らかさを実感した後は、当然今度こそ俺の思考の対象はその味についてへと遷移していく。そして、俺は個人的に食物の味には大きく分けて二種類の要素、則ち素材自体の持つ旨味等の味わいと、塩等の調味料を初めとした人の手による意図的な味付けが存在していると認識している為に、自ずとその味わいについての分析もその二方面からの視点による物になっていく。


 尤も、無論実際にはそれらが複雑に混じり合った結果、一つの料理の味として完成する訳であり、俺もそんな事は重々承知しているのだが、こうしてそれについて分析をする場合には、その様に分けて考える方が都合が良いのである。それは俺の生業である文学についても同様であり、何なら世の全ての……とまでは言わずとも、殆どの仕事についても恐らくは同様の事が言えるだろう。


 ともあれ、こうしてその二方面からの分析をしてみた訳だが、結果分かった事はそう大したものではなかった。というのも、素材の方からの分析で分かった事は、まあ一言で言えば旨いという事だけであり、もう少し頑張ったとしても脂と赤身の割合が丁度良いという位で、先程出した結論……則ち、やはり良い肉なのだなあという事と何ら変わりのないものだった。


 そして、もう一方……則ち味付けについてはもう少しマシではあるが、こちらも精々塩と胡椒で下味が付けられている様だという事や、タレには醤油が含まれているという事、そして大蒜の風味がそれなりに利いているという事位しか分からなかった。


 しかし、その次の、というよりもその料理には薬味の青葱を除けばそれ以外にもう要素が残っていない為、自動的に最後の分析の対象となった物、則ちステーキの肉汁とタレに塗れたその白米に対しては、恐らくはどんな料理評論家でも不可能だろうと思える程度には、或る意味では非常に高度な分析をする事が出来ていた。


 とまあ、内心での事とはいえ俺にしては珍しい大言壮語を、しかも明らかに自身の専門外の事について吐いた訳だが、無論それには相応の理由があった。というのも、その白米の味には大した特徴がある訳ではなかったが、それは確かに俺がかつて散々常食していた物の味、則ちこの辺りで収穫されたコシヒカリの味だった。


 尤も、別に俺は今もそれを常食している訳ではない上に、そもそもこの丼の内部は白米のみの味を十全に確かめられる様な状態ではないので、それは盛大な恥ずかしい勘違いという可能性も十分にあるのだが、俺はその自身の推測に妙な程の確信を抱いていた。


 というのも、別にこの根拠自体も確実にそうだと言い切れる様な事ではないのだが、少なくとも、俺がこの近所で稲作農家を営んでいる中高年の男性であったとすれば、この歳まで地元に残っている良く見知った美人に対して、収穫を分け与える事に一切の抵抗を抱く事は無いだろう。

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