第36話「世界で最も格好付けるべき相手は自分だぜ」
だが、そうして転居という人生の一大イベントを含む激動の一日の疲れを漸く癒し始めたのも束の間、やがて俺の浅い眠りはあまりにもあっさりと破られた。いや、無論現段階では本当に束の間の事なのかは定かではないのだが、意識が覚醒した瞬間に感じる瞼や身体の重み、そしてその状況に置かれた時にのみ感じられる特有の頭痛は、少なくとも十分な睡眠を取れてはいない事を示していた。
しかし、それらの感覚は決して愉快な物ではなかったが、今この瞬間に於いてはそれらよりも余程俺の意識を占めている物が存在していた。それは俺のただでさえ浅い眠りを短時間で終わらせた原因そのものであり、その音は既に白い光がその向こうから透けている障子の向こう、則ちこの和室と外界を隔てている窓の更に外側から聞こえて来ていた。
その発生源、つまり俺を叩き起こした元凶の姿は障子を開ける前の現時点で既に影となって透けて見えているが、それをわざわざ確認するまでもなく、その騒音……もとい浪漫のある歌声は嫌と言う程に聞き覚えのある物だった。
則ち、俺のただでさえ浅い眠りを頭痛がする程の短時間、今スマートフォンで確認した時刻は午前七時過ぎなので、長く見ても四時間には満たない内に覚まさせた下手人……もとい下手虫とは、多くの人にとっても馴染みの深いあの茶色の姿をした人気者、アブラゼミの雄の成虫その人……虫だった。
なお、正直に言えば、以前の俺であればこの時点でその自身の眠りを妨害した蝉に対してぶち切れていた可能性は否定出来ないのだが、今のすっかり丸くなった……と自分では思っている俺は溜め息を一つ吐くと、全てを諦めて設定していたスマートフォンのアラームを解除する。
とはいえ、睡眠が不足しているのは事実であるし、それ故の先述の体調不良が解消された訳でもないので、無論本当はもう一度眠りに就きたいのは山々ではあるのだが、流石にこの騒音は昨夜の蛙の鳴き声とは訳が、というか距離が違っていた。
則ち、その為には我が寝室の窓の外で絶賛ライブ開催中の方にお引き取り願う必要があるのだが、立場上俺にはそれをする事は出来なかった。いや、無論実際にする事が出来ない訳ではなく、恐らく障子か窓を開けた時点で脅かしたりせずとも容易にその蝉を追い払う事は出来るだろうし、仮にそうした所で誰かがそれを見ている訳でもない。そして、仮に見られていたとしても無論世間的な立場が悪くなるわけでもないのだが、それでも俺はその蝉を追い払う訳にはいかなかった。
それは俺のかつての、というか昨日の言葉故の事だが、とはいえ俺も本心からその蝉の魂のライブを邪魔する事を申し訳無いと思っている訳ではないし、そもそもそれを行う本来の目的を考えれば、こんな場所で熱唱しているのは相手にとっても良い事ではないという事も理解している。
だがそれでも、仮にも自身で浪漫溢れるだの何だのと口にした行為を自ら邪魔するという事は、俺にとっては非常に格好悪い事である、という事になっている為、たとえこの様に安眠を妨害されたとしても、その行為を尊重しない訳にはいかないのであった。
という訳で、本当は未だ眠っていたいと主に身体が訴えているにもかかわらず、それが叶わない事を理解している俺は思い切り伸びをすると、大きな欠伸を一つしてから身体を起こす。ただそれだけの動作にすら少々の苦労を覚えるが、まあ睡眠が十分であるか否かにかかわらず、寝起きであればこんなものだろう……と思う事にする。
なお、まったくの余談ではあるが、こうして寝ている状態から身体を起こす際、俺は腹筋の力だけでは自然にそうする事が出来ない。いや、流石に貧弱過ぎないかと思われるだろうが、一応足をちょっと上げたりすれば可能だし、一時はそれなりに鍛えようとしていた事があったのだが、その時でも足を何らかの方法で支えないと所謂腹筋運動を行う事も出来なかったので、恐らくは身体の重量バランスが普通の人間とは異なっているのだろう。
要するに、俺は日本人男性の平均よりもそれなりには背が高い方なのだが、それは座高が高いだけという悲しい話であるのだが、これ以上この話を続ける事は止めておこう。誰にでも出来る事と出来ない事がある、というだけの話である。
などと、体調とは裏腹に寝起きでも絶好調な下らない思考を一通り楽しんだ後、いい加減に窓の外の騒音、もとい浪漫溢れる歌声にも耐えかねた俺が漸くその場で立ち上がった時だった。その騒音の中でもはっきりと耳に届く電子音、則ち玄関のチャイムの……より厳密にはそれと連動したリビングの機械の音が、この年季の入った戸建ての恐らくは隅々にまで響き渡る。
「……誰だよ、こんな時間に」
無論、その突然の出来事には大いに驚いた、というよりも正直ビビっていたのだが、それを誤魔化す様にわざとそう不満げに口にする。尤も、冷静に考えればその相手が誰かという事は予想が付きそうなものなのだが、数年振りにはなろう自宅への来客を知らせるチャイムをよりによって起床直後に耳にして尚、冷静な思考が出来る程に俺の精神は強靭に出来てはいなかった。




