第35話「世の一切には必ず何らかの物語がある。その全てを見出す程の時間は無いというだけで」
しかし、翌日に出勤や登校を控えていた頃ならば兎も角、食えていると言えるかも怪しいとはいえ仮にも作家という自由業になった事の利点とも言えるだろうか、今の俺には別に決まった時間に起きる必要性がある訳でもない。故に、どうやら直ぐには眠れそうにはないという事が分かっていても、無論何も困らないという訳ではないのだが、その事に殊更に焦りを感じたり怒りを覚えたりもしなかった。
尤も、当然ながら何らかの締切が近い時等はその限りではないのだが、幸か不幸かは各人の価値観に任せるとして、今の俺には暫くはそういった状況になる予定は存在しなかった。無論、それは将来を見据えるのであれば歓迎される事実ではない事は確かだが、あくまで俺の価値観にその判断を任せるのであれば、少なくとも今この瞬間に於いての事ではあるが、この現状は決して悪いものとは思えなかった。
というのも、そもそも締切に終われる程に稼業が盛況であったならば帰郷を果たしていたのかは兎も角としても、こうして懐かしき我が家にて、同じく懐かしき蛙の人生……もとい蛙生を懸けた歌声を耳にしていながら、それを単なる騒音と感じて眠れない事に焦燥感を覚えるという事が果たして幸福な事かと言えば、少なくとも自信を持って肯定をする事は出来なかった。
尤も、酸っぱい葡萄の寓話に頼るまでもなく、これはあくまでも現状の自身を肯定したいという感情が滲み出た思考である。則ち、もし仮に俺が作家として大成功を……とまでは言わずともそれなりに成功を収めていたとしたら、その経済的な余裕がそのまま精神的なそれにも繋がっており、今の俺よりも余程この状況を楽しめているかもしれないのだが、先の思考ではそういった可能性は最初から否定されていたのだった。
だが、別に現状の自身を肯定したいという思いは誰しもが持つ物であり、そもそも未来の事であれば兎も角、例えば俺が上京せずにいたらどうなっていたかを考える事がそうである様に、既にそうはならなかった事を仮定して考える事には大した意味は無い。故に、俺は別にその先の思考を否定する気にもならずに、ただ窓越しに聞こえる「単なる騒音」に浸っていた。
とはいえ、こうして風情に浸っている事は決して悪い経験ではないが、様々な娯楽に触れる事が容易となった現代に於いては、ただそうしているだけでは些か退屈である事も確かである。それ故に、という訳なのかは自身でも定かではないが、やがて俺の意識は自然と或る思考を為し始める。
それは作家であるが故……とまでは言わないが、少なからずその素養があるが故の思考……則ち、絶え間なく聞こえて来るその浪漫に溢れた歌声から、俺は自然とそれに込められた物語を想像、もとい妄想し始めていた。
同じ田んぼで生まれた幾千……は流石に居ないか。まあ幾百から千にも至るオタマジャクシの中、偶々いつも一緒に過ごしていた二匹のオタマジャクシが居た。いや、無論他のオタマジャクシらと共に居る事も多々あったのだが、その組み合わせがどの様に入れ替わろうとも、その二匹が離れる事は無かった。
しかし、時に語らい、時には同じ食料を互いに分け合いながら過ごしていた二匹であったが、自然という物は時に残酷なものである。いや、厳密には自然とはただそうあるだけなのだが、その二匹にとって、或いはそれを観察する者にとっては、時にその様に感じられる事もあるのであった。
則ち、或る台風の夜でもアメリカザリガニの襲来でも何でも良いのだが、何らかの自然的な現象の影響により、或る時その二匹のオタマジャクシは不幸にも離れてしまう。いや、その一方が何らかの理由、例えばその歌声を世界に響かせる事を夢に見て、とかの方が良いだろうか? まあ兎に角、何らかの原因により、いつも一緒に居たその二匹のオタマジャクシは離れ離れになってしまった訳だ。
そして時が経ち、やがて成長して大人になった蛙はその田んぼの付近へと帰郷し、その片割れだけを求めて毎夜声を嗄らしている……うむ、何とも浪漫に溢れる話だ。尤も、オタマジャクシの時分には鳴き声を発する事は出来なかったのだから、その片割れが首尾よくその声を耳にしたとしても気付くのかという話ではあるのだが、そんな事を言い出したらそもそも蛙に知能を求める事自体がファンタジーも良い所である。
ともあれ、そんな感じの物語が背景にあると思えば、この眠りを妨げる騒音も寧ろ愛おしく感じられて来るというものであり、こうして眠れないでいる事も大した問題ではないと思えて来る。なお、言うまでもなくこの話は俺自身の境遇を投影したものなのだが、この蛙達にも無事に再会を果たして欲しいものだ。無論、既に他の蛙の卵を産んでいました、などという事にもならなければ尚良しである。
などと、その妄想から自虐的な思考へと飛び火した所で、俺はあくまでも満足したという体でその思考を打ち切る。というよりも、何だかんだ言ってもこの身体には睡眠が不足しているという事なのか、気付けば明瞭な思考をする事は困難になって来ており、やがて俺の意識は闇の中へと溶けていった。




