第28話「どれ程説明に難儀する感情や感覚も、或る一語のみで容易に表現する事が可能である」
それから暫し経ち、設定した時刻が訪れた事を知らせる無機質なアラーム音が俺の鼓膜を震わせると、やがて脳に届いたその情報が漸く手にした俺の休息を無情にも途切れさせる。俺はぼやけた、だが直近の睡眠時間の割には鮮明な意識の中でそれを止めると、横になったまま大きな欠伸を一つする。
「んんー」
そして、最早その音を正しく日本語で表記する事は不可能な声を出しながら大きく伸びをすると、流石に未だ疲れの残る身体を引き摺る様にして起き上がる。無論、正直に言えば未だ寝てはいたかったのだが、自身がはっきりと決めた事だけは基本的に守るという事は俺の数少ない長所だと思っているので、それを保つ為にも何とかしてその欲求を打ち負かし、取り敢えずは二度寝をしない状況を作ったのだった。
だが、流石に起きて直ぐに仕事に向かうだけの気力は未だ湧いてはいない為、そのまま布団の上で胡坐を掻いたままもう一度大きな欠伸をした俺は、暫しそのままの状態でぼうっとしている事にする。とはいえ、これは決して怠けているとか嫌な事を後回しにしているという訳ではなく、例えば何かしらの競技をする前には必ず準備運動が必要である様に、良い仕事をする為に必要な良い準備の一つである。
などという屁理屈で自身を納得させつつ、恐らく全人類の八割程度は共通して感じているであろう自身の仕事への倦怠感に浸っていると、ふと懐かしい匂いが俺の鼻腔をくすぐる。いや、厳密にはもっと前、それこそ此処にタオルを取りに来た時からもう何度もそれを感じてはいた筈なのだが、何故か今になってそれが妙に気になった。
則ち、それは久し振り……それこそ前回此処に帰省した時以来に嗅いだ畳の匂いであり、随分と古くなっている為に相応にその匂いも薄まってはいるが、その何とも言えない匂いは同じく何とも言えない感覚をこの胸中に生じさせていた。
仮にも物書きを生業にしているにもかかわらず、未だこの世には……もといこの俺自身の中にさえ十分に言葉で表す事が出来ない物が多々あるという事実には、自身の作家としての能力の不足を感じずにはいられないが、同時にそれは能力の優劣の話ではなく言葉自体の限界の様な気もしないでもなかった。
というのも、この様な匂いや精神的な感覚に限らず、この世には数えきれない程の事象や物事が存在しているが、どう考えても言語の合計数がそれよりも圧倒的に少ない事は確かである。無論、それを補う為に我々は様々な言語を組み合わせているのだが、それでも元の言語の量からして表現にも限界というものは存在するだろう。
いや、その表現に使用する語や文字の数に制限を設けなければ、どの様な事象や物事も説明する事は出来るのかもしれないが、例えば先程俺が感じた匂いを表現するのに百字以上も使用していたら、最早誰もそれを読んだり聴いたりしようとは思わなくなるだろう。
尤も、この様な事を長々と説明せずとも、実を言えばこれまでの話の中で俺は言語の限界というものを既に非常に簡潔に証明している。則ち、先程俺が伸びをした際に口から発した言葉……もとい音声が、日本語の表音文字である平仮名や片仮名ではどう頑張っても表記出来ないという時点で、そもそも言語には最初から限界がある事は明らかなのである。
などと、相変わらず言い訳だけは上等な自身に若干の嫌気が差して来る事を感じながらも、作家としての能力の不足を改めて自覚した俺はスマートフォンを手に取ると、それを補うには時間を費やすしかない為にそのまま静かに立ち上がる。そして、紐を引く事で豆電球のみに照らされていた和室を完全に消灯すると、スマートフォンの画面の僅かな灯りを頼りに殆ど真っ暗な屋内を進んでいく。
無論、臆病が服を着て歩いている様な存在である俺にとっては、それは少なからず恐怖を感じる行為ではあったが、先程各部屋を消灯していった際にもパソコンはそのままにして置いたお陰で目的地の位置自体は明瞭である上に、そもそもそこまでは歩数にして十歩程度の距離なので、それも流石に耐えられないという程のものではなかった。
ともあれ、目的地である食堂に辿り着いた俺はその場所の灯りを点すと、そう言えば放置したままだったお茶を、同じく放置されていたコップへとそのまま注ぐ。無論、目には見えずとも埃等が空気中に舞っている事を知らぬ訳ではないのだが、たかが数時間放置していた事により生じる健康上のリスクと今から流しでコップを水洗いする面倒さを秤に掛ければ、自身の健康という一つの視点のみからの判断であっても、後者を選ぶ理由は存在しなかった。
「……流石に温いな」
仮眠とはいえ睡眠を取った事で乾燥した口内と喉を潤す為にそれを一息で飲んだ後、コップをテーブルに置きながらそう呟く。尤も、幸いな事に俺は常温の飲み物を口にする事を苦にはしない為、別に温くなっている事に何か問題がある訳ではないのだが、つい何となくその感想を口にしてしまったのだった。




