第21話「と或る感情に名前を付けるには、結局その背景から類推するしかない事もある」
しかし、当然の事ではあるのだが、そうしてより鮮明に照らし出されたその光景がそれ以前と変わる事は無く、やはりその空間はかつて見慣れたそれとは大きく異なっていた。則ち、かつてその空間の象徴であった巨大なベッドがその場所から消失しており、かと言って他に何かが置かれている訳でもなくぽっかりと空いたその空間には、何処か物寂しげな印象を受けずにはいられなかった。
或いは、その感覚は喪失感というものなのかもしれないが、結局は胸の辺りに切なげな痛みが走るだけのその感覚の正体などというものは、それを感じた際の場面等の外部情報から推測する以外には、それを知る術など無いのだろう。
ともあれ、ごく偶に味わうだけであれば決して悪いものではないその感覚も、今日の俺は既にげっぷが出る程に味わい尽くしているので、そのベッドの消失についてはこれ以上考える事は止めにしてその周囲の様子を確かめていく。
「おっ、これは残ってたのか。懐かしいな」
そしてその結果、直ぐに視界に入ったそれに対しての感想をわざと口に出してそう呟くと、俺はその懐かしい物体、則ちロフトに上る為の梯子の元に歩み寄る。尤も、ベッドは兎も角備え付けの品であるその梯子が消える事などある筈も無いのだが、未だ胸に少し残っているその感覚を振り切る為にも、強引にでも意識を別の物へと移したかった。
その甲斐もあり、当時はその様な洒落た呼び名がある事など知らずにいたその空間へと意識が移った結果、その秘密基地的な場所はクソガキ時分の俺にとっては非常に心躍る物だった事を思い出すと、ふと湧き上がる衝動に従ってそれに手を掛ける。
「よっと……って、埃が凄いな。まあ良いか、別に死ぬ訳じゃねえし」
そしてそれを上ろうと板の部分へと足を掛けた瞬間、足の裏に感じる埃の感触に思わずそう呟くが、続けてそう口にすると、その言葉通り埃に構わずに更に上っていく。無論、既に風呂を済ませた状態である為に、その動作で舞い上がる埃には流石に一定の嫌悪感を覚えずにはいられなかったのだが、それにも勝るその懐かしい空間に向かいたいという衝動に突き動かされる様に、俺の身体はただ上を目指していた。
やがて、という程の時間を掛ける事も無くその最上部まで辿り着くと、そのまま目的地であるロフトの床へと足を、そこからの落下を防ぐ為の手摺へと手を掛けてそちらへと身を移す。なお、こうして梯子からロフトに移るのに余計な動作が必要な事からも分かる通り、今となってはこの移動法、則ちロフトの入り口に対して垂直の方向に掛けられた梯子を上り、そこからロフトへと移るという方法は間違っているという事が分かっているのだが、つい当時の癖でそのままの方法を用いてしまったのだった。
というのも、本来は梯子をロフトの入り口へと直接掛けて上るのだろうが、先述の通りかつてはこの場所には巨大なベッドが存在していたので、その為のスペースが確保出来なかった為に、その梯子を掛けて保管しておく部分に掛かったままの梯子を上り下りしていたのである。
尤も、それは今にして思えば危険な方法であり、子供の体重だからこそ成り立っていたに過ぎない様な気もするが、今回もこうして無事にロフトに辿り着く事は出来たのだから良しとしておこう。自身のこの痩せ方に、今この時程に感謝した事は初めてだ。
だが、何はともあれこうして目的地へと辿り着いたのは良いものの、その場所の埃の溜まり具合は梯子のそれの比ではなかった。その様な場所に足を踏み入れた事で更に激しく舞い上がる埃に思わず咳込むと、その手摺の上から外部へと顔を出して何とかそれから逃れる。
しかし、その様な目に遭っただけでなく、梯子の登攀という運動により僅かに汗を掻いていた事もあり、その動作に伴って全身が埃に塗れても尚、俺は此処に来た事を後悔はしなかった。いや、厳密には流石に多少の後悔はあるものの、この最早埃以外には何も存在しない空間を確認したというだけの事に、何故か妙な程の満足感を覚えていた。
とはいえ、その様な空間にいつまでも身を置いていても肺に埃が溜まるだけであり、一定の満足を覚えた俺は大人しくその場を去る事にすると、先程と逆の工程を経て梯子へと戻る事を試みる。だが、実際にそういった診断を受けた訳ではないとはいえ、高所恐怖症を自覚している俺にとってはその行為は中々に恐怖を感じるものであり、かつて実際には言う程この場所には来なかった事とその理由を思い出す。要するに、中々足を踏み入れられない場所だからこそ、憧れに近いワクワクを抱いていたという訳だったのだろう。
だが、流石に大人になった今ではそこで足を止める事も無く、最早舞い上がる埃の事も気にも留めずに一気に梯子の下端まで降りていく。しかし、上る時にも思った事だが、かつては随分と長い物に感じられていたその行程も今となってはあまりにも短い物であり、時の流れの残酷さを感じずにはいられなかった。
また、かつてはその梯子の途中からベッドへと飛び降りる事が出来た為、どれだけ高い内にそう出来るかでちょっとした度胸試しの様な事をしたものだった事を思い出し、最早それも不可能になった事を思うとその感覚、則ち懐古郷愁感慨感傷の何れか、或いはそのどれにも当てはまらない何かが更に胸を締め付けるが、一仕事を終えた今の俺の胸中にはそれを遥かに上回る或る衝動が湧き上がっていた。則ち、兎に角もう一度風呂に入りたかった。




