第16話「作品に作者の思想を反映させるのは悪い事ではないが、作品に作者の思想を表記するのは最早芸術ではない」
ともあれ、そうして冷房とは違う自然の風による涼しさと、欧米人には単なる環境音としか認識出来ないと聞く虫や蛙の声を楽しんで風流人を気取っていたのは良かったのだが、当然ながらその時間も長くは続かなかった。いや、その様な実利的な意義が薄い行為としては十分な長さの時間を過ごしたとは思うが、現在の自身が置かれている状況を考えれば、その時間をそれ以上続ける事が難しい事は明白だった。
則ち、涼しさを感じる程には低い気温の中を風呂上がりの濡れた身体で長時間過ごしていた結果、やがて寒さを感じ始めた俺はそっと窓を閉めると、一度は後にした風呂場の方へともう一度歩き始める。とはいえ、別に冷えてしまった身体をもう一度温めようという訳ではなく、これは最早羞恥を覚える事も無くなった自身の不手際の責任を取る為の行動である。
という訳で、先の風流な時間によって身体に付着していた概ねの水気を飛ばす事に成功した俺は、道中でコップをテーブルに置きつつ洗面所、もとい脱衣場に辿り着くと、巻いていたタオルを腰から外して残された水気を大雑把に拭き取り、その場に放置されたままの衣類の内の未着用の方へと着替えるのだった。
なお、不手際なのは着替えを此処に忘れていた事ではなく、そもそもこの場所に着替えを持って来ていた事の方である。何故ならば、実際につい先程そうしていた様に、俺は普段から風呂上がりにはバスタオルのみの状態で部屋まで移動し、そこで服を着るというルーティーンを持っている為である。では何故此処に着替えを運んで来てしまったのかと言えば、そこは単純に転居という人生で何度は味わわない行為の影響だろう。
何はともあれ、こうして夕食と風呂を済ませた上で、既にパソコンのセッティングも完了しているという事は、遂に完全に自由な時間が訪れたという事になる。尤も、一般的な学生や勤め人のそれとは異なり、本来はこの後も大抵はその自由の多くを仕事に費やす事になるのだが、転居という人生の一大イベントをこなした今日に関してはその限りではない。
その事に気付いた瞬間、ふつふつと湧いて来るその実感によるテンションの上昇を抑えながら、何とか平静を装ってパソコンの置かれたテーブルの前へと歩き出す。外部からは好きに生きている様に見えるかもしれないが、作家の様な自由業だからこそ、今この時の様に完全に仕事から解放された時間というものは貴重なのだ。
尤も、毎日の更新という自ら定めたルールの分はこの後に書く必要がある上に、気力やアイデアの欠如を理由に結局はその様になる日も多々あるのだが、やはり結果的にそうなるという自由と最初から決まっているそれでは、心構えの違いの為か過ごし方や感じ方も異なるものなのである。
ともあれ、道中でお茶とコップを回収した俺は食堂へと辿り着くと、先程から稼働し続けているパソコンの付近にそれらを置いてその前の椅子へと腰掛ける。そして先ずはマウスを操作して某動画投稿サイトを開くと、そのお勧め欄に表示された動画の一つを適当に選び再生する。下らない広告が流れた後、同じく見様によっては下らないとも思える機械音声を用いた動画の本編が流れ出した事を確認し、先程充電器に繋いでおいたスマートフォンを手に取る。
先程の仕込みが功を奏した事に満足げな笑みを浮かべてから、半分を超える程度には充電の容量を取り戻したそれを充電器から引き抜くと、再生が始まった動画を背景に数年前から続けているアニメ調のオープンワールドのロールプレイングゲームのアプリを起動する。概ねテレビゲームの進化と共に成長して来た世代としては、この手のゲームは是非とも日本の会社に作って欲しかったものなのだが、まあ致し方ない話か。
昨今流行り出した所謂ソーシャルゲームの類であれば、ちょっとしたイラストと音声のいくつかを製作するだけで、傑作のゲームソフトを売る何倍もの金がその比にはならない程の低コストで儲かるのだから、誰も力を込めた傑作を作ろうなどとは思わないのは至極当然の話であり、それが資本主義というものである。
尤も、それは黎明期の頃の話であり、今となってはソーシャルゲームの市場も飽和している為にそこまで簡単な話ではないのだが、それでも掛かるコストと儲けの比重を考えれば、大作に力を注ぐという手段は未だ取り辛いのだろうという事は市場を見ても何となく察する事が出来る。無論、全ての会社がそうであるという訳ではなく、実際に年にいくつかのペースでは大作も世に出されてはいるのだが、私の趣味や能力に合う物が出る頻度が昔よりも明らかに下がっているのは確かである。
などと外野から偉そうに語ってはみたものの、無論これはあくまでも素人の視点による一種の妄想に過ぎない。また、仮にそれが真実であったとしても、それは我々小説家……もといラノベ作家の界隈とて例外ではない。市場には最早芸術としての文学とはかけ離れた、流行の要素をいくつか散りばめただけの粗製濫造の作品が溢れ返り、その中に僅かにある高い芸術性を持つ作品を埋もれさせてしまっている。
とはいえ、そもそもそういった物は芸術性を求める純文学ではなく娯楽としての小説の派生であるのだから、必ずしも芸術性が高くある必要は無いのだが、流石にイラストの良し悪しと宣伝の成否で作品の評価が決まってしまう様な現状については、俺も思う所が無いという訳ではない。尤も、斯く言う俺もその粗製濫造をしている側なのだが、この資本主義の社会で生きていく為にはそれもまた仕方が無い話だろう。




