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第15話「人生とは無駄を楽しむ為のものである」

 そんな事を考えていた為か、シャワーから出て身体を伝うお湯の温かさに妙な程の安心感を覚えながら、一日の汚れと疲れを頭から洗い流していく。そうして身体を洗う段になった際、かつて誰が使用していたか不明なボディタオルを使用するか、或いは持ち込んだタオルを使うかで少々の間悩んだが、此処は前者を選ぶ事にする。


 無論、その事に全くの抵抗が無かったと言えば流石に嘘になるが、それは仮にも血の繋がった家族の使用した物である筈であり、何よりもタオルで身体を洗う感触がどうしても好きにはなれない上に、そもそもその場合は身体がしっかりと洗えている気がしない為に、より抵抗が少ない方を選んだのだった。


「いってえ。これ親父の奴か」


 だが、そうして身体を洗う為に使用したボディタオルは自前の物よりもかなり硬いタイプであり、俺は自身の肌に予想以上の痛みを感じる羽目になってしまい、思わずそう呟いた声が風呂場に反響する。しかし、それでもタオルで洗うよりは個人的にはマシなので、それを堪えながらなるべく優しく自身の身体を撫でていく。尤も、それならば結局は身体はしっかりとは洗えないのではないかという話になるのだが、まあ今日限りの事なので目を瞑っておく事にする。


 ともあれ、そうして頭髪から足の指に到るまでの全身を一通り洗い終えた訳だが、それでも俺は直ぐにその場を去る気にはならなかった。だが、この空間の半分を占める湯船に湯を溜めた覚えは無いので、無論そこに浸かろうという事ではない。俺はシャワーの湯を浴びながら深く息を吸い込むと、この場所に来たもう一つの目的を果たす事にする。


 則ち、その次の瞬間から此処では俺のリサイタルが開催され、その古さ故か妙にそうなり易い風呂場ではその美声が存分に反響する。それ故に、その音は最早外部にも響いているとさえ思える程だったが、そこまで近くには他の家が存在する訳でもない為、俺は特に声を抑えようとも思わなかった。


 尤も、それでもカラオケでの持ちネタの一つでもある、叫びを伴う様な楽曲を歌う事は流石に自重していたが、長年の壁の薄い賃貸での生活故に抑えられ続けていた衝動を漸く解放出来る機会が訪れた今、その歌声を相応の理由無く止める事は最早俺自身にも出来なかった。


 しかし、幸か不幸かは考え方次第だが、その相応の理由が生まれるにはそう長い時間を要する事は無かった為、その楽しい時間も長くは続かなかった。則ち、体温を超える温度のお湯を浴び続けながらその様な当社比で身体を酷使する行為を続けていれば、外気により自動的に冷却される真冬でもない限りは体調に異常を来すのは当然の帰結だった。


 という訳で、その行為によって掻いた汗を軽く流し、一度お湯で濯いだタオルを絞りそれで身体の水気を軽く取ると、相変わらず安全への配慮が足りない扉を開けて風呂場を後にする。というのも、その扉は風呂場側へと開く物なのだが、その下端の金属部分は割と鋭利な状態になっている為、その部分で身体を擦ってしまうと容易に怪我をしかねないのである。


 尤も、流石にそれ程に鈍い人間はそうは居ないという前提で作られた物なのだろうが、もしその扉に背を向けている状態で急に外部から扉を開けられた場合には、アキレス腱の辺りを思い切りガリガリと削られてしまいそうという事をかつて想像してしまって以来、未だにその扉には一定の脅威を感じずにはいられないのだった。


 ともあれ、そうして扉を開いた時点で一気に外気が風呂場へと流れ込み、身体を一通り清潔にした事もあり既に一定の爽快感を覚えていたが、完全に外に出るとそれは更に強くなる。だが、その時点で浴室との温度差は十分にあったものの、その場の止まった空気では爽快感は不十分に感じられた俺は、バスタオルでの身体を拭く行為もそこそこに、それを腰に巻いて台所の方へと歩き出す。


 その道中、冷蔵庫の前で立ち止まるとそこから取り出したお茶をコップに注ぐが、敢えてその場では飲まずにそれを持ったまま和室へと移動する。そして時代を感じる障子を開いて窓を開けると、気圧差によるものか直ぐに爽やかな風が俺の身体を吹き抜けていった。


 そして同時に、何者の物かも不明な何らかの虫の声と、何処か遠く、恐らくは付近の田んぼ辺りから聞こえて来る蛙の声が部屋へと入り込み、再度先程と同様の思いが俺の胸中に浮かび上がる。ああ、俺は帰って来たんだなあ、と。


 そして、その風による清涼感と、その様な思いを誘発させる懐かしい音声に、それだけでも帰って来て良かったという思いが湧き上ってくる。同時に思わず込み上げて来る物を誤魔化す様に、慌てて手に持ったコップの中身を飲み干すと、その仄かな苦味がその衝動を抑えてくれた。


 尤も、別に誰が見ている訳でもないのだから、その様な自身の感情による身体的な反応を無理に抑える必要は無いのだが、流石にこの様な半裸のおっさんがその姿を見せるのは絵面的に不味いだろう。なお、ただの一文で矛盾している様にも見えるかもれしれないが、人は常に最低でも一人の観客は背負っているものなのである。

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