第14話「一瞬の解放感の為には道中は辛酸を舐めてたって良いのだ、という様な話を聴いた事がある」
ともあれ、遅ればせながらも自らの身体のその様な状態に気付いた今、次に取るべき行動は自動的に定まっていた。幸いにも、過去の自分はこの事を見通していた……という訳ではないが、それに必要な物は既にこの家に運び込まれていた事に脳内で感謝をしつつ、玄関に残されたままの荷物の許へと向かう。
そうして辿り着いた後、意気揚々とそれを開封したのは良かったのだが、そこで俺は自身が重要な事を失念していた事に漸く気付く。そこには数日分の着替えにはなる量の衣類や、既に本来の姿を失いつつある年季の入ったタオル等が入ってはいたが、石鹸やボディタオル等は別の荷物に含まれている様でその中には見当たらなかった。
結局は車まで荷物を取りに行くしかないのか。それに気付いた瞬間、その様な事を考えて落胆の溜め息を吐くが、その瞬間にまた新たな事に気付いた俺はその考えを一度保留にしてその場に立ち上がると、いや、まだ諦めるには早い、なんて無駄に格好の良い事を考えながら、その気付いた事を確認する為に風呂場へと歩き出す。
やがて、という程でもない時間を経て目的地の前に辿り着くと、意を決してその古さ故にやや安全への配慮が不足している扉を開け放つ。だが、洗面所の灯りが点いている為に完全な暗闇ではないとはいえ当然ながらその空間は薄暗く、その内部の様子を窺うのに適した状態とは言えなかった。しかし、その自らの失態に羞恥を抱きつつも気を取り直して風呂の電灯のスイッチを入れると、直ぐにその全貌が明らかになる。
そしてその次の瞬間、俺は自らの予想が当たっていた事に、より厳密にはその予想を当たりにせしめたその場の状態に妙な程の喜びを覚え、両の拳を握り締めて渾身のガッツポーズを取っていた。則ち、既に棚に残されたインスタントラーメンや冷蔵庫のお茶の時点で薄々と予想は付いていたのだが、風呂場には石鹸やシャンプー等がしっかりと残されており、少なくとも今日の時点では車に荷物を取りに行く必要が無くなった事に喜びを覚えたのである。
それが、もといそれらが単に転居の際に面倒を嫌ったのか、或いは二十年振りの帰郷となる息子への配慮によるものなのかは定かではないが、何れにせよそのどれもに助けられた事は確かなので、頭の中で一応は感謝を告げておく事にする。だが、その行為の是非は兎も角としても、その一連の思考により少し冷静になった事でまた新たな事に気付いた俺は、同じくまたとなる羞恥を感じていた。
それは先程と同様に自身の不手際に対するものであり、それを抱えているが故に感じる暑さという罰を受けながら、その不手際の清算の為に来た道を引き返す。則ち、先の予想が当たっているか否かにかかわらず、どうせ着替えやタオルの類は洗面所に運んで置く必要があったのであり、それを怠ったが故に無駄にもう一往復をする羽目になったのであった。
尤も、予想が外れていた場合にはどの道車に荷物を取りに行く必要がある為、その後に石鹸等と同時に運べば良い話ではあったのだが、予想が付いていたのであればそれに順じた行動を取るべきであり、そもそも実際にこうして無駄な往復をしているのだから、やはりこの失態は恥以外の何物でもなかった。
だが、何はともあれ面倒な作業を一つ省けた事は確かであり、これでいよいよ風呂に入れるという事になると、自身の身体の状態が清潔とは言えない事もあり少しずつテンションが上がって来る。無事にタオルと着替えを持って風呂場の前へと戻った時にはそれは更に顕著となり、手早く全ての衣類を脱ぎ捨てると、タオルを片手に勢い良くその扉をくぐり抜ける。
「つめた!?」
その結果、今は懐かしきタイルの床を踏んだ足に伝わる感触に、思わずそう大声で叫んでしまう。その様子は正面の鏡に鮮明に映し出されており、この短期間で三度目となる羞恥を覚えるが、上昇したテンションの前ではそれも直ぐに楽しさへと変換される。無論、そこにはその床も含むかつて過ごした空間への懐かしさや、漸く汚れた身体とおさらば出来る事による解放感の影響もあるのだろうが、その様な細かい事などは最早どうでも良かった。
タオルを湯船の蓋の上へと放り投げてシャワーヘッドを右手に持つと、そのタイルの床と同様に懐かしさを感じる、蛇口のお湯と水でそれぞれ別れたハンドルの赤い方を左手で捻り、勢い良く出始めた水が身体に掛からない様にしながらお湯へと変化するのを待つ。だが、待てど暮らせどその時が訪れる事は無かった。
「あ、忘れてた」
そのまま暫しの時を無駄に過ごしていたが、やがて漸く給湯のスイッチを入れていなかった事に気付くと、照れ笑いを浮かべながらそう言って、壁面に設置されたそのスイッチを左親指で無駄に勢い良く押下する。ガスの元栓から占められていてはお手上げだったが、幸いにも直ぐに燃焼を意味するマークがその小さな液晶に点灯し、やがてシャワーから放出され続けている水の温度も上がり始める。
床に広がったそれが足に当たる感覚と、その場に立ち昇り始めた白い湯気からその事を察し、右手を動かしてシャワーを思い切り頭から被る。その瞬間、頭皮に伝わるそのお湯の温かさと強い勢いによる心地良い感触に、一日の疲れが一気に和らいだ様な気がした俺は同時に思っていた。ああ、やっと帰って来たのだと。




