第102話「過敏性精神炎」
「ああ、ごめん。勿論大丈夫だから、今車出しちゃうね」
それ故に、俺は自身の過ちを認めて素直に謝罪すると、続けてそう言ってから車を車庫から完全に脱出させ、やや大回りに右側へと曲がる。そして、丁度右側に見える位置にまで来ると同時に春菜が頭を軽く下げ、それにより空いたスペースを通って自転車を我が家の車庫へと収める。
いや、無論位置的にその後半については実際には見えてはいないのだが、流石にそれ以外の事をしている可能性は無いに等しいので、たとえ目にしていなくても事実として語っても構わないだろう。
それはさておき、自分の家に誰かが自転車を停めるという光景、もとい状況に、俺は何とも言えない謎の感情が湧いて来るのを感じていたが、その正体は自身でも良く分からなかった。ただ、少なくとも我が家に最も多く訪れたであろう若菜については、彼我の家の距離的にも大概は徒歩で来ていた為、考えてみればそれが中々に珍しい状況である事は確かだった。
「お待たせしました。それじゃあ、お邪魔しますね……って、どうかしましたか?」
などと、例によって無駄な思考に耽りぼうっとしていると、やがて自転車を停め終えた春菜が助手席のドアを開け、そう言いながら勢い良く乗り込んでくる。それは状況的に当然の行動であるのだが、勝手に不意を突かれた形になった俺はその音に身体をびくつかせて反応すると、やや身体を後ろに引かせながら音の方向を振り向いていた為に、春菜は続けて当然の疑問を口にする。
「……いや、ちょっとぼうっとしちゃってたんで、少し驚いただけだから大丈夫。それじゃあ、出発するからシートベルトよろしくね」
その驚きから姿勢を戻す為の少々の間を置いた後、俺は例によってその問いに正直に答えると、その自身の臆病さ故に感じた羞恥を誤魔化す様に言葉を続ける。尤も、その言葉自体はそれこそ当然のものではあるのだが、そう言っている俺自身が今更慌ててシートベルトを着用し始めたという時点で、その説得力は極めて低いと言わざるを得なかった。
「あ、はい。そういえば、私、助手席に乗るのって初めてです」
しかし、その言葉の内容の尤もさの方を優先して受け取ったのか、意外にも春菜はそう言って俺の指示に素直に従ってくれるが、それを見た俺がいざ出発をしようとシフトレバーに手を掛けた瞬間、何気なく続けられた言葉に俺は思わず吹き出しそうになってしまう。
「えっ、どうしたんですか突然!? 大丈夫ですか?」
何とかそれは堪えたものの、その影響により結局はゴホゴホとむせてしまった俺の奇行へのあまりにも当然の疑問を口にしながらも、母親に似て優しい春菜は俺の身を素直に案じてくれる。だが、この奇行の原因を考えれば嬉しさよりも申し訳無さの方が勝った為に、俺は左手を挙げて健在を誇示すると、二、三度の咳払いをして喉の調子を整える。
則ち、こうして助手席に女性を乗せたのは俺にとっても初めての事であり、その事実により生じる様々な思いを抑制する為にも、俺はその事実を努めて意識しない様にしていたのだが、その努力は春菜の言葉によりあまりにもあっさり無に帰してしまったのであった。
そして、春菜にとってもこれが初めての経験であるという事実がそれに追い打ちを掛ける格好になり、制御不能に陥った自身の脳が浮かべた思考に翻弄された結果、こうして俺は半分程の年齢の女の子にその身を案じられる羽目になった、という訳である。
とはいえ、無論だからと言ってそのきっかけとなった春菜を恨む様な事はしないが、自らの身体どころか脳にまで裏切られた形になった事については、独りであれば延々恨み言を口にし続けているであろうという程度には、色々と思う所が無い訳ではなかった。
「……いや、大丈夫。それじゃあ、いい加減に出発しようと思うけど、もし今ので心配になったなら今日は中止にしても責めたりはしないよ?」
そんな事を考えながらも、言葉を発せられる程度には喉の調子が整った俺は改めて健在を誇示すると、この体たらくを見て春菜が抱いているかもしれない不安について、仮にそうであっても今更言い出し辛いだろうと敢えて自分から確認する。
尤も、これまでの僅かな交流のみからでも、恐らくはこの問い掛けに肯定の答えが返される事は無いだろうとは思っているのだが、少なくとも逆の立場であれば俺は多少なり不安を抱くと思われる為、この確認をせずに車を出発させようとは思えなかった。
「いえ、勿論そんな事はしませんよ。だって、少なくとも高見澤さんは東京から此処までこの車で帰って来たんですよね? それなら、此処からスーパーまでの道のりくらいは安心でしょう。とはいえ、勿論油断は禁物ですので、くれぐれも安全運転でお願いします」
その俺のある意味では不要な確認に対し、やはり春菜の返答は俺の予想通りのものであったが、その後に続けられた言葉はその限りではなかった。自身の半分程度の年齢でありながら、自身よりも余程しっかりとしている事が明白なその少女に対し、俺は最早嫉妬を抱く事もせず、代わりに妙な程の深々とした感心を覚えていた。




