第10話「言うは易くはないし、何なら思う事すら然りである」
つまり、その娘が俺の良く知る若菜と同じ姓を名乗っていたという事は、少なくとも現時点で若菜が誰かと婚姻状態には無い可能性が高いという事は既に読み取れていた筈であり、則ち先の俺の配慮は全くの的外れも良い所であったという事である。尤も、あくまでもその可能性が高いというだけであり、婿入りや事実婚という様な可能性も無論存在しないという訳ではないのだが、一般的な割合や本人の性格、そして先の両親からの罵倒の件を考えても、実際にその推測が正しいのだろうとは思えた。
とはいえ、だからと言ってそれで即座に恋愛に繋げる程には、俺は単純な脳の構造はしていないつもりであり、それは相手……つまり若菜についても同様だろう。無論、既に高校生と思しき娘が存在しているという時点で、かつて俺が抱いていたイメージと現実はかけ離れていると言えばそうなのだが、少なくともその様な浅ましさは先程の様子からも感じられなかった……とは思うので、まあ単純に二十年振りに帰郷した幼馴染に挨拶に来ただけだった、という事なのだろう。
そして、だからこそ俺のよそよそしい態度に傷付いた……とまでは言わずとも、まあ一定の落胆を覚えた結果、ああしてそそくさと帰宅するに到り、それを知った両親が俺に罵詈雑言を浴びせた、というのが先程の一連の出来事の顛末であると俺は結論付ける。無論、他者の心情など正確に把握出来る訳も無いのだが、概ね間違っていないだろうとは思える程度には、その説を裏付ける根拠には困らなかった。
しかし、こうして振り返ってみると、先程の両親の言葉はあまりにも尤もなものであり、仮にも暴言を吐かれた事は事実であるにもかかわらず、とても怒りを抱こうという気にすらならない。尤も、振り返るまでも無く言われた当初から不思議と怒りを覚えずはいたのだが、今にして思えば、恐らくだが俺の無意識は当初から苗字の件に気付いており、漸くそれに俺自身の意識が追い付いたという事なのだろう。
とはいえ、先の情報に俺が最初から気付いていたとしても、二十年振りに再会する幼馴染……しかもそれなりの美人を相手に昔の様な態度を取れたかはまた別の話にはなるのだが、何れにせよそれを試す機会を既に失った事だけは確かだった。無論、流石に今後も若菜と顔を合わせる機会位はあるだろうが、少なくとも二十年振りの再会は既に済ませてしまった上に、こうして様々な情報を後から得てしまった今となっては、先述の仮定を満たす事は不可能となっていた。
ともあれ、思案の甲斐もあって重要な情報、則ち少なくとも現在は若菜が誰かと婚姻状態にはないという事と、やはりというか何というか、自身の先程の言動が失敗であった事に改めて気付いた訳であるが、この俺にしては非常に珍しい事に、この胸中……もとい脳内を占めているのは後悔ばかりではなかった。
無論、それが一切存在しないという訳ではなかったが、それよりも優先してその場を占有しているのは未来の事、つまり次に若菜と会った時にどう接するべきかという事についての思考だった。尤も、先程の様子ではその機会が易々と訪れるかは何とも言えない所ではあるのだが、現状ではどうしてもそれ以外の事を考える気にはならなかった。
しかし、思えば先程の再会の時点で既にそう考えていた事ではあるのだが、一度丁寧な言葉遣いでの対応をしてしまった手前、それを急に翻して馴れ馴れしく接するという事には最初からそうするよりも余程高いハードルを越える必要がある。それ故に、その思考に答えが出た所でそれを実行する自信は無いのだが、少なくとも今回の様に幼馴染を落胆させる事は俺の本意ではないので、まあ何とかそれを越えられる様な努力位はしようとは思うのだった。
幸い、先の両親の言動の内容は兎も角としても、事の顛末を知った俺の両親が俺に対して何らかのアクションを取るであろう事は若菜にも予想は付いていると思われる為に、俺が急に態度を改めたとしてもそれが理由だと納得して貰える可能性はあるので、もしかしたら両親はそこまでを読んでの行動だったのかもしれないが、何の条件も無い状態よりはやりやすいのは確かである。
何はともあれ、こうして珍しく前向きな決意をしたのは良いのだが、それでも問題は山積み……とは言わないまでもそれなりに残っていた。無論、その一つは既に述べた様に、その決意を発揮する機会が訪れるかは先方次第であるという事だが、同じく先述した様にそれが皆無とは思えないので、まあそちらについては気長に待てば良いだろう。
だが、もう一つの問題はそうはいかなかった。というよりも、それは可及的速やかに解決すべきものであるのだが、俺は自身の感情をコントロールする術を持ってはいなかった。則ち、その問題とは未だ荷解きをする気力が無いという事であり、未だ本日分の原稿の作業の一切を行ってはいないという現状に於いてそれは甚だに不都合な事ではあるのだが、一連の出来事とその考察に費やした俺の気力が戻って来る気配はどうにも感じる事は出来なかった。




