『2』
ショートカットからぴょこん、と一本だけ伸びたアホ毛は今日も彼女が元気な証。
幼いながらも整った顔立ちとクリっとした瞳から向けられるまなざしは、パルクールを用いて逃避する事すら許さずに棒立ちとなったままの俺の心を射抜いていく。
確かに急激なクールダウンは激しい運動を終えたばかりの肉体には良くないとはいえ、このまま凛音の顔を見つめたままだと俺の体温は沸騰してしまうかもしれない――。
そう判断して慌てて目線を下に逸らせば、今度はコイツが嫌でも異性であるという事実を突きつけてくる女子の制服と、やや小柄ながらも程よく引き締まった腰つきとそこそこの胸の膨らみが、俺の情緒をぐちゃぐちゃに破壊しようとしていた。
さきほどまでの躍動ぶりが嘘のように動かなくなってしまった自分の身体。
そんな己の異変を悟られないように表情だけは平然としようと取り繕うが、そんな俺の思考に構うことなく凛音が近づいてきたかと思うと、ズイッと顔を近づけながら明らかに作ったと分かるお怒り顔で俺へと詰め寄る。
「パルクールの練習をするのは良いけど、そんだけ身体を動かすんならしっかりお昼を食べなきゃダメっていつも言ってるでしょ!……おまけに、また五十谷君と狐塚君の二人を巻き込んでるし!」
そう言いながら目線を狸吉と紺染に移してから、「ごめんね~!」と謝る凛音。
対する二人は先ほどまでのテンションから一転して、「……ウッス」とか「あ、ハイ……」としどろもどろになりながら答えていた。
注意が他に向いている隙に、そそくさとこの場を立ち去ろうとした俺だったが……まぁ、眼前にまで近づかれている以上、それは不可能な話。
再度俺は、凛音に詰め寄られる形となっていた。
「こらっ!人が話している最中なのに、一体どこに行くつもりなの!?――せっかく、アタシが哲也の分まで作った弁当持ってきてあげたんだから……いつも通り、一緒に食べよ?」
あざといほどの上目遣いとともに、持参してきた俺への弁当を差し出してくる凛音。
それに対して俺は――。
「……あぁ、分かった」
自分に出来る限りのせいいっぱいの虚勢で、凛音に対してぶっきらぼうな口調で答える。
そんな俺の内心などまるで見透かしたかの如く、満面の笑みを浮かべながら
「うん!わかればヨシ!!」
と、答えてから自分の弁当を広げて適当な場所に腰かける凛音。
対する俺は何を言うでもなくコイツの横に座り、差し出された弁当に手をつけ始める。
激情に打ち震える狸吉と紺染を尻目に、凛音が作ってくれた弁当を二人並んで一緒に食べる。
それが、ここ最近の俺の日課となっていた。
「……ん、今日はフグの天ぷらか。凛音が作ってくれるメニューの中だと、あのハーブ風味?な唐揚げと同じくらい好きかもしれんわ、俺」
「~~~ッ!……ふっふ~ん!そうでしょ、そうでしょ!!そう言われると、朝早くから頑張って仕上げた甲斐があるってもんよ!もっと褒めときんしゃい♪」
「あ、でもそっちのサイズの方が明らかデカくてズルいな。俺のと交換してくれよ」
「ん~、どうしよっかな~?……次からは、昼休みになったらすぐに逃げたりせずに、大人しくアタシとこうしてお昼食べてくれるなら、交換は出来ないけど、コレをアタシと哲也で半分こしてあげても良い気分なんだけどな~?」
そう言いながら、チラリとこちらに視線を向けてくる凛音。
それを受けて、俺は激しく動揺しかけたが――すぐに苦笑交じりに答える。
「あぁ、分かってる。……俺はもう、逃げたりなんかしない」
そんな俺の様子を見て、一瞬きょとんとした表情を浮かべたものの、すぐに凛音はにこやかな笑みを浮かべる。
「うん!何か知らないけど、今日の哲也は素直になって大変よろしい!……いつもだったら『あぁ、助かる……』くらいでぶっきらぼうに済ますくせに、今日はメニューに関しても手放しで褒めたりしてくるし……まさか、アタシの弁当を食べる前に他の学食とかに浮気したんじゃないでしょうね~?」
そんな零音の何気ない問いかけ。
いつもの俺の調子だったら、凛音が言った通り
『んな訳あるか。そんなモン食ったあとでさらにフグ天なんて腹に入れてたら、どんだけパルクールでカロリー消費したところでデブまっしぐらだろ。……てゆうか、前から思ってたけどお前の料理、いくら美味いとはいえいくらなんでも油もの多すぎなんだよ』
くらいの憎まれ口を叩いていたかもしれない。
だが、さっきのコイツへの返答で本当の意味で"覚悟”を決めた俺は違う。
俺は、凛音を見据えながら答える。
「そんなわけないだろ。この高校に入った時から、俺が口にするのは凛音の弁当って決めてるんだ。――だから、いつも作ってくれてありがとな」
そんな俺の返答を受けて、一瞬虚をつかれた表情をしていた凛音だったが、すぐに恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、自身の弁当に箸をつけ始める。
「まったく、本当にいきなり一体どうしちゃったんだか……コ、コホン!とにかく、素直にお礼を言えたうえに、練習で激しい運動をこなしたばかりの哲也君には、約束通りフグの天ぷら半分こ贈呈しちゃいま~す♡」
"半分こ”と言いながら、少し大きめに分けた方を俺の弁当へと渡してくる凛音。
「まさか、本当にくれるとは……いや、これはマジで感謝するわ。凛音」
「……うっさい。そう思うなら、たまには材料費払え……バカ」
そう呟きながら、照れたように顔を横へと背ける凛音。
この短期間でコロコロと変わる凛音の表情を見ているうちに俺は、幼い頃に見たある光景を思い出していた。
幼い頃、近所の公園で凛音と遊んでいる時に、飛ばし合ったシャボン玉。
光の当たり具合によって多彩な色合いを見せて宙を優雅に舞うその在り方が、いつしか俺にとっての凛音という存在と重なるようになっていた。
……だからこそ、望んで手を伸ばしてしまえば、シャボン玉のように一瞬で弾けてしまうかもしれない――
気持ちが先走って踏み込んだアクションを起こせば、今ある俺達の"幼馴染み”という関係やこんな何気ない時間すらもが、あっけなく終わりを迎えるかもしれない。
……だが、そんな考えに支配されるのも、昼休みになるたびにコイツから逃げるように体育館裏に行く日々にこれまでだ。
一人思案をふけっている間に、顔を逸らしていたはずの凛音がこちらへと視線を戻しながら、今度はにこやかに語り掛けてきた。
「そういえば哲也、この前『体育館裏ばかりだとそろそろ限界が来てるから、新しいパルクールの練習場所を探すのに、今度の土曜日付き合って欲しい』って言ってたけど、候補地って決まりそう?アタシも自分なりにいくつか調べてみたんだけど、パルクールをやってないからどこらへんが適してるのか全く分かんなくてさ……」
そう言いながら、最後は少し苦笑を浮かべる凛音。
本来自分には興味のない事象のはずなのに、休日俺に付き合ってくれるだけでなく、事前にリサーチまでしてくれる甲斐甲斐しい"幼馴染み”という存在。
――だが、そんな凛音との大切なはずの関係をシャボン玉に触れるかの如く、俺は約束の日に壊しつくそうと心に決めていた。
そんな俺の内心など知る由もなく、凛音は無邪気な笑顔とともに出かけるときに他に寄りたい場所などを語り続けていく。
今度の土曜日。
仮初の穏やかな時間とは裏腹に、刻々と運命の日が近づこうとしていた――。