秋播く花が開く春まで
種を買いに行った。
あの人と出会ったこの町で、あの人の好きな鮮やかな黄色い花の種を。
※
フェザ魔法王国の港町ソルトコーヴには、緑豊かな公園がある。その公園の奥まった隅、木立の中に小さな花壇があった。咲いているのは、魔法で光る黄色い石で作られた花だ。その花壇は、子供の背丈ほどの高さをした四角い石の台座に乗っている。台座についたプレートには、ムスタル記念碑と書いてある。
その昔、外国の探検家ムスタルがこの国を訪れた時、最初に降り立ったのがここ港町ソルトコーヴだ。ムスタルこそが、この国に背の高い黄色い花ブラシカの種を齎した人物である。ブラシカは、この地の食糧難を救った植物でもある。
私はムスタル記念碑のあたりで、よく水魔法の訓練をしていた。濡れても困らない場所だ。それに、滅多に人が来ないからである。私の逆巻く赤毛と、眼窩の底に光る金色の瞳は、人々を威嚇するらしいのだ。上背もあり、厳つい眉と鷲鼻や大きな口と合わさって、初めて会う人は大方怖がる。
ある朝のこと。質素な麻の訓練着姿で、私はムスタル記念碑に向かった。いつものように公園の奥へ来てみれば、記念碑をスケッチしている少女がいた。怖がらせるし、スケッチが濡れると悪いので、私は立ち去ろうとした。ところが、背中を向けかけた私に少女は話しかけてきた。
「凄いですよね。綺麗で、美味しくて、種からは油もとれるなんて」
春の芽吹きが爽やかな枝々の影が、少女の帽子に揺らめいている。同色のフリルレースで縁取られた黄色いシャンタンのボンネットは、顔の半分を隠している。帽子についた黄緑色の太いオーガンジーのリボンが、細い顎の下で大きな蝶結びになっている。
その細身の少女は、明るい声をしていた。
顔を包む鍔から覗く、ふっくらとした桜色の唇がハキハキと動く。リボンに透ける白い喉が、春風に洗われていた。スラリとした身体には、ベージュの水玉模様が踊るお散歩ドレスがよく映える。
流行りのゆったりした袖は、袖口に幅広のレースを飾る。水玉は遠くから見ると無地に見えるほど細かく、袖と襟を縁取る花のレースはベージュだった。ちらりと覗く栗色の革靴は、爪先が広く歩きやすそうな仔山羊のようだ。
「こんなすごいお花をソルトコーヴに持ってきてくれた、ムスタルさんに感謝しなきゃね」
桜色の唇が柔らかく笑う。
私はその口元に視線を縫い付けられてしまった。背中に垂れる緩やかに編まれた灰茶の癖毛が微かに弾む。
無言の私を気にする様子もなく、少女はスケッチに戻ってゆく。左手に抱えた紙束に、小枝のような金属棒でムスタル記念碑を写してゆく。小鳥の声が梢を渡り、足元からはテントウ虫が飛び立った。
飽きることなく少女を眺めていると、やがて描き終えたのか彼女は紙をしまった。
「あの、宜しければ」
私はポケットから、木の皮で編まれた楕円形の小箱を取り出す。掌に乗る小箱には、黄色く染めた棕梠の葉でブラシカが刺繍されている。この小箱にはお菓子が入っている。薔薇色の岩塩に包まれたナッツと砂糖をまぶしたオレンジピールが混ざったお菓子である。ソルトコーヴの町で、近頃人気のお茶請けなのだ。老若男女に人気がある。
「まあ、こんないいもの、いただけません」
「私、刺繍に使う葉っぱを染める手伝いをしていて、売り物にならないものを時々貰うのです」
「ええ?どこがダメなのでしょう?」
「花が少し毛羽立ったり千切れたりしているでしょう?」
「あら、よく見ないと分かりませんわ」
このお菓子はちょっと良いお菓子なので、手土産にも喜ばれる。だから、多少の刺し損じでもお店には出さない方針なのだとか。
「こだわりがあるのですって」
「職人魂ですね」
少女は感心したように言う。
「中身も、小さすぎるものや欠けたもの、塩や砂糖がうまくかけられなかったものなんです」
「味に変わりはないでしょう?」
「ええ。ですから、宜しければ差し上げます」
「でも、」
少女は躊躇する。見ず知らずの人間から物を受け取るのは不安なのだろう。
「ブラシカを愛する貴女に、ぜひ受け取っていただきたい」
私はなるべく感じの良い声を出すように気をつけながら、そっと紙束の上に小箱を乗せた。少女が斜めに抱えていた紙束の上を、楕円の小箱が滑る。少女が慌てて抑える様子は、とても可愛らしかった。
思わずクスリと笑った私に釣られて、少女もフフっと笑いをこぼす。私の胸の中では、ブラシカの花が満開になった。
「ここには良く来られるのですか?」
連れ立ってムスタル記念碑を離れながら、私たちは雑談を始めた。
「いえ、今日港に着いたのです」
「おや、ここの言葉は訛りがきついのに、もう覚えたのですか!」
「両親がソルトコーヴの出身で、旅の絵描きだったのです」
「ご両親も絵を」
「ええ。2人はまだ旅をしております」
「では、お一人でここへ?」
私は少なからず驚いた。この少女は、見たところ自立するには少し早い。私よりやや年下だろう。顔が見えないので、案外声や体型が若いタイプなのかもしれないが。
「はい。両親の故郷に来てみたくて」
「ご両親と離れて」
「両親は、二度と来たくないって怒るんです」
「なぜ?」
「潮風が嫌いなんですよ」
大した理由ではなくてほっとした。
「2人とも?」
「2人とも。おかしいでしょう?」
「ははっ、そうですねえ」
「ねっ!」
少女は朗らかに笑った。私はその笑顔を見たいと思い、思わず屈んでしまった。ボンネットを縁取るブリムの下を覗こうとすると、少女は驚いて一歩下がる。
「あっ、すみません。あまりに可愛らしく笑うものだから」
私は体を起こして、無言になった少女をちらりと見下ろす。すると少女は急にグッと上を向いた。今度は私が目を見張る。少女は充分背が高いのだが、私は魔法使いにしてはかなりガッチリと体格が良い。目を合わせる為には、少女がよほど顎を上げなければならなかった。
「その、」
美しい海のような青緑色が、若葉の中でキラキラ光る。唐突に目の前へと現れたその幻想的なきらめきに、私は戸惑い口籠る。
「ふふっ、なんて気まずそうなお顔」
少女はきゃらきゃらと笑い出し、とうとう立ち止まってしまった。
「ごめんなさい。だってあなた、ふふ、おかしい」
「困ったなあ。許して下さいよ」
「怒ってないわよ、でも、ふふ、あなたこそ可愛いわ」
「ええぇ?」
「あははは」
私たちはまた、2人でひとしきり笑った。
「ねえ、美味しくて安い食堂はあるかしら」
「ご案内しますよ」
「あ、安心して?ちゃんと自分で払うから」
旅暮らしだけあって年のわりに世慣れている。
「わかりました。知らない人に奢られても怖いでしょ」
「まあ、そうですね、ふふ、まじめ」
「またそんなふうに笑って」
「だって、」
私たちはなんとなく近づく。心地よい風が花の香りを運んで来た。
「屋台はお好きですか?テーブルは無いのですが、池の前にあるベンチで食べられますよ」
「美味しいもの、あります?」
「キノコのスープ屋さんとハーブパン屋さんがお勧めです」
「それも美味しそうだけど、お魚が食べたいわ」
「スープ屋さんには、ツミレ汁もありますよ」
「まあ、ソルトコーヴのツミレ汁!」
「ご両親の味とは違うかもしれないですけど」
「いえ、両親は作ってくれませんでしたよ」
どうやら両親は、徹底的に故郷を嫌っていたようだ。ちょっと子供っぽくて微笑ましい。
「噂に聞いて、食べるのを楽しみにしてました」
噂で知ったのか。話題にさえしないとは。随分と単純明快なご両親である。芸術家気質と言うべきか。少女がのびのび育ったのも頷ける。
「お口に合うと良いのですが」
「あ、あそこですね?」
木立を出て池の方へと続くミモザの並木道を行けば、そぞろ歩く人々とすれ違う。足元にはニオイスミレが控えめな紫を見せていた。昼時には少し早い屋台を、私たちは肩を並べて覗いて歩く。肉や魚を焼く匂いや、野菜を揚げる香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「美味しそうな匂いですね」
少女は厳つい私を見上げてにっこり笑う。もう何度目だろう。私の眼は彼女の笑顔に釘付けだ。彼女は静かにはにかんだ。柔らかな絹のような頬に、うっすらと朱が差す。
「ああ、可愛い」
私はまた、思わず声に出してしまう。
「やあね、さっきから」
「すみません」
「ふふっ」
世慣れているとはいえ、擦れてはいない。なんて素敵なひとだろう。私は名前を呼びたくなった。そして、呼んで欲しくなった。
「私はフィデシオ。ソルトコーヴにある水魔法学校の学生です。染めのお手伝いはアルバイトです」
「船乗りになるのですか?」
自己紹介の思惑は外れたが、興味は持って貰えたようだ。
「いえ、公園で働きたいのです」
「公園で水の魔法というと、水やりに、お掃除に、あと何かしら?」
「池や噴水や水飲み場、消火栓の点検も仕事です。それにお手洗いの管理もします。あ、これからご飯なのにすみません」
「あら、良いですよ。まだ食べてませんし」
少女はまた、ふふふっと笑う。私の頬も緩む。
飲み物屋台でハーブソーダを買って、赤身魚の唐揚げにスープやパンも買う。ハーブに乾燥果物、オリーブやスパイスにチーズ。素朴な味のパンに練り込まれた具は様々だ。私と少女は、それぞれ数種類のパンを買ってしまった。
「食べきれなければ、宿に持ち帰ります」
「私は、つい食べ過ぎてしまいそうです」
持ちきれなくなったので、近くのベンチに買ったものを並べて座った。食べ物を挟んで差し向かい。池の水面を跳ねた光が、私たちに降り注ぐ。
「あの、お名前は、その、差し支えなければ」
私は食べ物を選ぶふりをして、俯きながら問うてみた。
「ヴィータ。よろしくね、フィデシオさん」
答えてくれた。
「フィードで良いですよ、年もあまり変わらなそうですし」
「あら、そう?」
「そう見えますけど」
「ふふ、多分そうね」
ヴィータの言葉が気さくになった。私の心は歌い出す。
「では、いただきましょう、ヴィータ」
彼女の名前は優しい響きを持っている。息と共に私の口を離れていってしまうのが惜しい。
「出逢いに」
「ブラシカの花に」
「そうね、ブラシカの花に」
ソーダ水の入った木の器を捧げて、私たちの視線が交わる。ヴィータの青緑色に私の金が鱗のように浮かぶ。ああ、君の心の波の上、私の初恋が運ばれてゆく。遠く、深く、ずっとずっと魂の元へ。
※
秋が来て、彼女は別の町へと旅立つ。両親と落ち合うのだと言う。旅立ちの前日、私は勇気を出して提案する。
「種を買いに行こう」
「種?」
「ブラシカの種だよ。一緒に播かない?」
「どこに?」
「鉢に。私の窓辺に置くよ」
するとヴィータは花のように笑った。
「そのブラシカが咲く頃に、必ず貴方の窓を観に来るわ」
「待ってるよ。この秋に播くブラシカの花が私の窓に溢れるまで、君を思って大切に育てるよ」
「きっと見るだけで元気になるような花が咲くわね」
ヴィータは確信を持って言う。
「フィードの魔法が作る水は、力強くて優しいもの」
私は胸がいっぱいになる。愛しい彼女をしっかり抱きしめて、優しくその髪を撫でる。ヴィータは私の目を覗き、甘やかに微笑む。彼女の唇は愛らしく誘う。枯れ葉がかさりと音を立て、私は彼女にひとつ、口づけを落とした。
お読みくださりありがとうございました