親ガチャと1953年新生児取り違え事件
9月7日頃から「親ガチャ」という言葉が広く話題になりましたが、9月30日頃には、「1953年新生児取り違え事件」が話題になりました。
取り違えが起こっていたことがわかったのは、60年後に行われたDNA検査によってでした。またこの事件では、関係者の苦心により、取り違えられた相手が特定されました。裕福な家庭に生まれた子と貧しい家庭に生まれたもう一人の子のたどった人生があまりにも対照的だったために、2013年当時、全国的に話題になりました。
存命の個人のプライバシーに関わることであるため、この事件の「社会的地位」についての側面ばかりが語られやすいのですが、より興味深いもう一つの側面は「人格的人間性」についてのものです。詳細な情報は散在しています。
一言で言うと、「1953年新生児取り違え事件」は、個人の「社会的地位」については環境要因の影響が強く、「人格的人間性」については遺伝要因の影響が強いことを示唆するものでした。
その両面の意味でも、あるいは片面の「社会的地位」の意味に限ったとしても、「1953年新生児取り違え事件」は、「親ガチャ」の実在を証明する材料として扱われています。偶発的な取り違えにさえ遭遇しなければ、一流大学を卒業して一流企業に勤めていただろう蓋然性のある人物が、実際には中卒のトラック運転手として人生をまっとうしました。中卒のトラック運転手に遭遇しても、いわゆるエリートが、「勉強が苦手だったのかな」と蔑むことはできないことになります。
「親ガチャ」という言葉が最近話題になった当初から、「1953年新生児取り違え事件」に言及している人はいました。
私は個人的には、「親ガチャ」についても、「1953年新生児取り違え事件」についても、何も思いません。
少なくとも1953年当時において、新生児がわずかな確率で取り違えられることは、実務上やむをえない面もあったのではないでしょうか。取り違えられたそれぞれの家庭の経済状況にいくらかの格差があったことも、自然なことでしょう。そのことが進学や就職や所得へ人生を通して影響しつづけることも、自然なことだと思います。取り違えられて貧しい家庭で暮らすことになった人がいる一方で、取り違えられて裕福な家庭で暮らすことになった人もいるわけです。片側にのみ共感して展開した議論は、必ずしもフェアではないと思います。
しかし現実には、「1953年新生児取り違え事件」は、驚きをもって迎えられています。
そして、「親ガチャ」についても、「親ガチャ」の存在を主張する人々は努力を怠っているにすぎない、という思想に強烈に執着する人が少なくありません。
「1953年新生児取り違え事件」は、驚きをもって迎えられています。
なぜなら、個人の「社会的地位」については環境要因の影響が強く、「人格的人間性」については遺伝要因の影響が強い、という考え方が、世間の多くの人々の直観的な信念と異なっていたからです。
つまり人々は、中卒のトラック運転手を見れば、「勉強が苦手だったのかな」と少し思うし、正直で献身的な優しい人を見れば、「両親に大切にされて育ったのかな」と少し思うものです。
ひいては人々は、自分よりも社会的地位の低い人を見れば本人のせいだろうと思うし、自分よりも人格的人間性の高い人を見れば環境のせいだろうと思います。
その両面はともに、自分を肯定するための認知バイアスとして合理的に説明できます。
自分よりも社会的地位の低い人を見た時に、本人に原因を帰する認知バイアスは、とても大きな社会問題です。
その社会問題は実際に、「親ガチャ」という概念を中心に議論されています。
なぜ問題かというと、環境の悪かった人の尊厳と幸福が不当に盗まれる結果になるからです。例えば若い頃の学歴によって知的階層を測られてしまう社会では、再チャレンジの余地はありませんし、逆に生まれさえ良ければ既得権益に守られてピンハネで贅沢に暮らせます。努力する意欲をそぐ、夢を持てない社会になってしまいます。
一方、自分よりも人格的人間性の高い人を見た時に、環境に原因を帰する認知バイアスも、とても大きな社会問題だと思います。
優しい人と遭遇した時に、「苦労知らずのお人好し」として解釈することは、巨大な利益をもたらします。
なぜなら、相手が共通の利益のために献身的にコストを支払っていたとしても、相手よりも苦労してきた自分は、同じコストを支払わなくてよい倫理的な正当性を手に入れることができるからです。結局、どんなに低い人格的人間性で生きることもなし崩し的に正当化できてしまいますし、どんなに高い人格的人間性を備えた人に出会っても、敬意や感謝の感情を持つ必要がなくなります。
善良な人物が、恵まれて育った人物にすぎないのであれば、その人を袋叩きにすることすら自我に許せてしまうのです。
なぜ、個人の「社会的地位」については環境要因の影響が強く、「人格的人間性」については遺伝要因の影響が強いのでしょうか?
社会的地位について環境要因が強いことは、自然に説明できるでしょう。
つまりは、機会平等は実現されていないということです。
社会的地位について環境要因が強い事実を認知することに、戸惑いや拒絶が起こるのは、機会平等が実現されているかのように誇張することで不当に利益を得ている人々が実際にいるからです。
つまりは、「親ガチャ」の存在を懸命に否定する人々は、「親ガチャ」によって理不尽に苦しめられている人々の幸福を盗んでいる直接の加害者です。問題の原因をそもそも作り出した人々です。
近代以前の歴史的な社会は、甚だしい格差社会ではありましたが、機会平等が実現されているとは誰も思っていないという意味ではフェアでした。
一方、人格的人間性について遺伝要因が強いのは、なぜでしょうか?
「1953年新生児取り違え事件」において、人格的人間性に関する遺伝要因の強さは、あまりにも強烈です。
それはあまりにも強烈であって、世の中のほとんどの人の直観的な社会理解を遥か遠く隔たっています。
その結論は、近代思想にとっては極めて不都合なものです。
というのも、お金持ちのほうが性格がいいのです。
お金持ちのほうが性格がいい、と言うと、多くの常識的な反応は、そりゃそうだろう苦労せずに愛されて育ってきたのだから、というものです。
しかし、現代的なDNA検査によって初めて明らかになった「1953年新生児取り違え事件」は、そのような反応が認知バイアスによる虚構にすぎないことを証明しました。
お金持ちのほうが性格がいいのは、苦労せずに愛されて育ったからではないのです。客観的な事実は、お金持ちのほうが性格がいい遺伝子だから性格がいいのです。
現代の大衆のアイデンティティは、こんな現実を現実として認めることには、とうてい耐えられないのです。ですから、「1953年新生児取り違え事件」は、話題になるたびにいくらかの驚きをもって迎えられます。
一流大学に通い、一流企業に就職し、裕福な生活をしている人々には、そうでない人々よりも優れた人格的人間性を遺伝的に備えているという強い傾向があると見るほかありません。
「1953年新生児取り違え事件」は、単なる例外として投げ捨てていいものではないからです。
その原因としてありうるのは、世代間の格差の保存でしょう。つまり、地位の高い人の血統は地位の高いところに世襲され、地位の低い人の血統は地位の低いところに世襲され、川の両側で水の色は異なっているのです。
そして、地位の高い仕事に適応するためには、他者に共感したり約束を守ったりする社会的なモラルが自然選択される一方で、地位の低い仕事に適応するためには、過度の優しさはむしろ不都合であって、反射的に競争的になり他者の痛みに無関心になれる自己中心性が自然選択されてきたのです。
逆に言えば、歴史的な社会においては、人格的人間性に優れた血を上層に流し、人格的人間性に劣った血を下層に流すような圧力も存在していたと言えます。
性格のいい人ほど偉くなれる傾向のある社会が、歴史的には実現されていたのだと思います。しかし、今もこれからもそうだと断ずる理由は何もないでしょう。何しろ、近代思想においては、人格的人間性について遺伝要因が強く存在する事実は、事実上の禁忌として隠蔽されてしまったからです。
「1953年新生児取り違え事件」は、繰り返し見てきたように、二面的です。
「親ガチャ」が確かに存在するとしても、どちらの子供が、「親ガチャ」に当たったのでしょうか?
常識的に素朴に見れば、裕福な家庭に生まれることが、親ガチャの当たりでしょう。
しかし現実には、裕福な家庭に生まれても、言わば「遺伝子ガチャ」の結果によっては、人格的人間性の低さのゆえに周囲になじめず、人格的人間性の低さをあげつらわれ、紛争を招き、DNA検査まで受けることになるのです。
また、遺伝子ガチャによって善良な人格を備えたとしても、社会階層の低い立場に置かれたならば、そのような利他的に配慮する性格は、状況に適応して幸福に生きていくために、むしろマイナスに作用すると考えられます。
遺伝子ガチャこそを「親ガチャ」と呼ぶことにするなら、育つ家の経済状況はむしろ「環境ガチャ」と呼べるでしょう。
そこにおいて、「親ガチャ」にも「環境ガチャ」にも当たるならば、富裕な社会階層において周囲から愛される性格を備え、最も幸福に生きられるに違いありません。
しかし、「環境ガチャ」に外れたらどうでしょうか? 低い社会階層に適応して生きていくためには、相応に自己中心的な人格であったほうが幸福のために最適だと考えられます。つまり、「親ガチャ」にある程度は外れたほうが当たりです。
結局、「親ガチャ」のどんな結果が「当たり」であるかは、「環境ガチャ」によって与えられる社会的地位によって異なることになります。
「環境ガチャ」を外して「親ガチャ」が善良であれば、勤務先の上司からは勤務態度が真面目だと好評を受けるかもしれません。
しかし与えられえた立場で最大限に努力し、知性や人格を賞賛されたとしても、現代の社会では中卒のトラック運転手として人生を終えることになります。「環境ガチャ」を外してしまったせいで、自分より知的にも人格的にもずっと劣る人々から、知的にも人格的にもずっと劣ると見なされ、ずっと少ない所得で暮らして人生を終えることになります。
ですから、学歴や就職による結果から、努力をしてこなかっただとか、知的素質が低いと断ずる思想は、現実離れしていて理不尽であり、あまりにも非情です。また、実在する才能を社会のために活かすためにも、不合理でしょう。
自分よりも社会的地位の低い人を見れば本人のせいだろうと思うし、自分よりも人格的人間性の高い人を見れば環境のせいだろうと思う認知バイアスが近代社会には存在します。
それはそれぞれ、必ず是正されねばならない社会問題です。
言い換えれば、個人の「社会的地位」については環境要因の影響が強く、「人格的人間性」については遺伝要因の影響が強い事実が、世間のすべての人々に良識として共有される必要があります。
そしてその時には、「親ガチャ」の存在も、「1953年新生児取り違え事件」の結末も、自然なこととして受け止められ、驚かれることはなくなることでしょう。
しかし、その道のりは、まだ始まったばかりです。
「親ガチャ」の存在をかたくなに認めず、自己責任論や努力主義に固執する人々が、それによって得ている物質的または精神的な利益を手放すことは、近い将来にわたってありえないでしょう。
ましてや、人格的人間性について先天的な因子が強く実在し、それが歴史的な社会階層への適応と相関してきた事実を、市民革命をテーゼとする近代思想が受け入れることはまずありえないでしょう。
他人の不幸は自業自得であり、自分が得た幸福は自分自身の努力の結果であって、自分に残忍な自己中心性があるとすれば、それは味わってきた苦労ゆえの恥じる必要のないやむをえない結果にすぎない、という認知は、人間という社会的動物の脳にとって、あまりにも甘い果実だということになります。
その認知バイアスが正しく理解されるほど、公正で幸福な社会が実現されます。
ですから、「親ガチャ」、および「1953年新生児取り違え事件」が最近話題になったことは、世の中のためにとてもいいことだと思います。