第1幕 私のいつも通りの朝
今日も無機質な部屋にガンガンと頭に響く電子音に朝五時に起こされる。
本日も仕事のために起き上がる、渡部志保だった。
「あーうるさぃ……まだ眠たいよぉ」
眉をしかめながら布団からもぞりと顔を出し元凶である物体を睨みつける、鼓膜を叩かんばかりの音の原因はベットの近くにある机の上に置かれた丸いアナログ時計。布団から右腕を伸ばすように出して、けたたましく響く時計のベルを平手で止め起き上がる。
上半身だけ起こして一息吐いた後、ベットから降りてふらふらと立ち上がった。
今日は土曜日、明日になれば日曜日でやっと休み。
ブラック企業だと友人は言っていたが果たして本当にブラック企業なのだろうか? 土曜出勤はあるが日曜日まで働くわけではないのだから違うと思うのは自分だけなのだろうかと悟りを開きながらあくびをする。
「ふぁ、あ……」
女子らしさのない部屋の中をゆっくりと歩いてリビングに繋がっているドアノブに触れる。
あまりの眠たさに思考がなかなかクリアにならないのに苛立ちを覚えた。
「ねむっ!! まだ17時間ぐらい寝てたいわぁ。あ、でも今日仕事だし、ああ、社畜の席はいつだってパソコンデスクの前よ。あ、接客ならお客様の前か」
一人コントみたいな虚しい独り言を言いながら志保はドアを開け、開いた瞬間にカランとネームプレートが揺れる音を聞きながらそのままドアを閉めずリビングへと向かった。
「今日も仕事頑張れよぉ志保ちゃーん~……ああ、眠い! あー……肩痛いなぁ、もう」
自分のことを鼓舞しながら昨日の作業の疲れが肩に現れているのを感じる。
軽く腕を振って、肩の凝り加減を確認する。
新人の子たちが何度かミスをしたせいでさらに残業する羽目になってなんとかやり終えたら朝の二時になっていた。面白い深夜番組を見ることは叶わず、そのまますぐに就寝する羽目になった悲しい話というわけだ。残念だねと笑ってくれる優しい先輩に甘えてみようかとも思ったが、その先輩を狙っている女子からの視線が痛かったので、泣く泣く諦めて大変になるというジレンマ、ああ辛い。
「あー……昨日美緒が言ってたアニメ予約したっけ? タイトルはー……なんだっけかな? ま、いいか。ラインで聞けばいいだけだし」
思い出せないアニメのタイトルに悩んでいる暇はあまりないため、寝室よりも広いと感じるリビングに足を踏み入れそのままキッチンへ行く。最初にすべき行動は飲み物の確保だ。
キッチン内の東の方向にある白い棚に置かれたインスタントコーヒーの瓶の中身をスプーンでカップに二回ぐらい入れ、ついでに砂糖を三回入れてポットのお湯を加える。カップを棚の上に置いて次の準備をするために志保は冷蔵庫の中身を物色した。
中には常備されたカロメーメイトチョコ味とブドウ味のこんにゃくゼリーが下の段に詰められている。その二つ上の棚に、朝から疲れている私の心を喜ばせる素敵な品があった。
「あ、あったあった! 一昨日忘れず買っておいてよかったよ、よしよし、まだちゃーんと二枚ある! これなら明日買い物に行ってパン買えばいいだけ! あーしんど! でも働きますよ! なぜなら、社畜ですから!」
一昨日の夜にスーパーで売っていた食パンの一枚をオーブントースターに放り込み、洗面台の方へ歩く。洗面台は真ん中と左右が鏡になっている扉を開けて、その中から歯ブラシをとる。
右側の一番下の棚から柄が淡いピンク色の歯ブラシを取り出して、歯磨き粉を歯ブラシにかける。歯が磨かれていく音を5分くらい聞いた後、コップに入れた水を口に含んで洗面台に吐き出す。
そして次に洗顔石鹸で顔全体を塗りざぶざぶとぬるい水で顔を洗い終えると、化粧水、美容液、乳液の順番で塗り終わらせる。すると、チン! と軽快な音が聞こえたではないか。
気づいたのはタオルで顔を拭いている時だった。
お、焦げてないかな。まだ大丈夫だよね。大丈夫じゃなかったら死ぬからな、私の仕事が!!
「待ってー!! いますぐ行くよー! 待ってろ私の食パンちゃーん!!」
パンが焦げてないか心配になりタオルを洗面台の縁に置いたままオーブントースターのところまで速足で移動する。オーブントースターの中を覗くとパンがこんがりと美味しそうに焼けていた。
いつも通りに焼けただけなのにいつもよりも歓喜に身が震えるのはきっと昨日徹夜したせいもあるからだ。
「おおー! 流石オーブントースター仕事が違いますなぁ! って、時間見計らってたら普通にできて当たり前なんだけど、だけど流石オーブントースター! 私にはできないことを簡単にやってくれる、君がいるから我が家の食卓は潤うのよ! わりとマジで!!」
グーと小さく腹の音が鳴いたのに内心照れて乱暴に頭を掻く。
「……あーダメだ! さっきから夜中のテンションだよマジで」
朝からテンションがおかしいようなそうでもないような感覚を味わいながら、食パンをどうするか考える。いますぐにでも食べてしまいたいぐらいだがこのままでは味気ない……この食パンと言うキャンバスにバターという下描きとジャムという絵の具を塗りつけてやろう、そう決心した私の行動は速い。
鼻歌交じりに準備に取り掛かり、最初に茶色の食器棚から食パン用の皿を用意する。
皿を手に取り、コップが置かれてある白い棚に仲良く二つ並べて冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫の近くの方まで歩き半分まで使われたプラスチックの器に入ったバターとガラス瓶に入ったイチゴジャムを取り出す。
キッチンからすぐのリビングに入り、テーブルに二つを置く。
「ふーんふーん」
オーブントースターで焼かれたパンを取り出して白い棚に置いておいた皿に入れ、コップを片手に持ち皿にリビングにあるテーブルに置く。椅子に座り、バターナイフでパンにバターを塗った後、スプーンでジャムを掬い丁寧に塗りたくった。それが完成した後、今日のメニューを眺める。
今日のメニューは砂糖入りコーヒーとバターとジャムが塗られた食パンというメニュー。
忙しい時はカロメとかこんにゃくゼリーで済ませてしまう私だが、徹夜があった次の朝はパンを食べるという自分ルールに基づき作った。いつもよりも今日は早めに起きたのもあるが、少しでも徹夜した後は栄養を取っていないと仕事中疲れてしまうためでもある。
まずは食パンを真ん中からパクッと一口食べる。
「あ~……朝のパンも悪くないわぁ……! ああ、でもカロメとこんにゃくゼリーの生活は欠かせないけど」
バターを塗ったことで香ばしさが向上し、甘くあり濃厚な酸味があるイチゴジャムとの最高の組み合わせとちょうどよい温度になったコーヒーの苦さが合わさって新たなハーモニーが口いっぱいに広がっていく。イチゴジャムの甘さとコーヒーの苦さで目がはっきり覚めていく私の中で朝の朝食で一番の組み合わせはこの組み合わせだと自負している。
このコンビは非情に仲がいいと私自身自信を持って言っているがとある友人は「ホットミルクでしょ?」という発言をしていて、私とその友人との間に確かな亀裂が生じていた。
大体食べ終えると、リビングに掛けられた黒いデジタル時計は5時32分になっている。
椅子から立ち上がり食べ終えた皿を食洗器に突っ込んでそのまま置いていく。
「うーん、美緒からライン来てるか確認しないとなぁ……いつもいつも、納緒は朝に強いんだよなぁ」
泣き言のような口調でよたりながらも、ペタペタと足を進めて自室の扉まで歩く。
扉を開き見えるのは四角い白い机とアンティークな本棚がある。
その横隣には窓からの日差しに当てられた押入れがあった、着替えは大体ここにある。デジタル時計と一緒に置かれている充電器に繋がった黒いスマホを手に取りスマホを開くとラインに1という数字が出ていた。
「たまに忘れたりしてるから、怒られないよね」
志保はスマホの画面を無視して、押入れの方に目を向ける。
ああ今日も仕事だ仕事、と着替えの手を緩めずに身支度を整える。
「あー……今日接客なければいいんだけどなぁ、あるのかなぁ、ないのかなぁ? まあ、なるようになれよね! ファイトー! いっぱーつ!! 暗ーくなってる自分に魔法の言葉を一つ、今日も明日も明後日も変えることができるのは私だけ! はい、レッツゴー!!」
いつも空元気のテンションで仕事を乗り切る、いつも通り、今日も明日も明後日もいつも通り。
常時営業スマイルは大事、社会人として当たり前だけれど常に笑顔と言うのがこれまた難しい。
だがどこかにほころびが生じて一瞬でも笑みを作ることを忘れてしまうのではないだろうかなんてそんな不安はやる気で吹き飛ばす、それが社会人なのだ。するすると服を脱ぎ、すぐに黒のジャケットとタイトスカートに白のシャツといういつも通りの制服に着替えていく。
緑色のカーテンをバッと開け、朝日の容赦のない日差しを浴びる。
今日も空元気の営業スマイルで、何とか今日と言う日を乗り切って行こう。
「さて、今日も行ってきますか!」
仕事用の鞄を持っていくことも忘れずにそう生き込んで、私は窓から見える太陽に向かって宣言した。