歪みとの邂逅
2036年7月2日 午後4時31分
学生寮――狗飼朱音の個室。
気怠い午後の空気の中、狗飼はクッションを抱えてソファに埋もれていた。
「入っていいよー」
その呼びかけに応じて、ドアが静かに開く。
メイド服に身を包んだ天空が、無表情のまま入室する。
「ご報告に参りました、お嬢様」
「はーい、ありがとね、天空」
狗飼はのんびりと手を振り、ソファに座り直す。
天空は、内心で小さく溜息を吐きかけたが、表には一切出さなかった。
お嬢様の命令は絶対だ。
たとえ、それがどれほど個人的な情熱に基づくものであっても、だ。
「で? まこちゃんとまりちゃんの件、どうだった?」
「緋澄眞琴、遊上真理――両名の2035年5月初旬の行動記録、及び天乃慎との関係について、調査完了しております」
天空はタブレットを恭しく差し出す。
狗飼は嬉しそうに受け取り、画面をパラパラとめくる。
「わたくしの天空はほんとに優秀だな~。助かるわ~」
軽口を叩きながらも、狗飼の目は真剣だった。
「で、あーくんと、関わりはあった?」
「はい。緋澄眞琴、遊上真理――
いずれも、対象:天乃慎との直接的な接点を持っていました」
「そっか。やっぱりね」
狗飼はふふっと微笑んだ。
「ふぅちゃん、あのとき――
ほんのちょっとだけ、あーくんに恋してたんだよね」
狗飼の声は軽やかだったが、そこに込められた思いは真剣だった。
「だから、わたくし、決めたんだ。
ふぅちゃんの初恋、絶対に叶えてあげようって」
天空は静かに頷きながらも、
(……相変わらずですね、お嬢様。)
と、心の中で小さく呟いていた。
「けど……あーくん、いなくなっちゃったもんねぇ」
狗飼は、寂しそうに笑う。
「でもでも、今。あーくん、戻ってきた。
これはもう、神様が『やれ』って言ってるようなもんでしょ!」
「……推し活、再開ということですね」
天空は淡々と告げた。
諦めとも受け取れるその声音に、狗飼は元気よく頷く。
「そうそう! わたくし、やる気満々!」
ぴょんっと立ち上がった狗飼に、天空は静かに続けた。
「それでは、詳細を――すべては、2035年5月初旬。
初夏の夕方から始まります」
2035年5月3日 午後4時31分
――空気が湿っていた。
浅木第六学区、裏通りの一角。
放棄されたビルの地下、埃臭い空間に、僅かに光が灯っている。
遊上真理は、無言で作業に没頭していた。
古びたスタンドアロンのサーバー――外部ネットワークと完全に切り離された機器に、直接コードを繋ぎ、膝上の小型端末からダイレクトに侵入を試みている。
「……あと少し」
指先は高速でキーを叩き、目はログデータを追う。
クラッキングは順調だ。
このままいけば、あと数分で目標のデータを抜き取れる。
背後には、懐古主義者の護衛が二人。
魔術による警戒結界を展開し、周囲を監視している。
だが――
静寂を破る、微かな足音。
「っ、誰だ――」
護衛が声を上げる間もなく、
闇の中から現れた黒髪の少年が、無駄な動きなく踏み込んだ。
その動きは、一瞬。
拳が、護衛の鳩尾を正確に撃ち抜き、
もう一人の護衛も、次の瞬間には膝をついていた。
遊上は、反射的に顔を上げる。
そこにいたのは――
黒髪の少年。
鋭く冴えた黒い瞳。
どこにも迷いのない、戦士の顔。
(誰――)
思考するよりも早く、危機感が弾けた。
「……ターゲット確認。機密データを回収する」
黒髪の少年――天乃慎が、そう呟いた。
その背後の闇には、もう一つ気配があった。
直接姿は見えない。
だが確かに、別方向から退路を塞ぐ存在――天乃鵲が動いている。
(包囲――!?)
遊上は、咄嗟にコードを引き抜き、サーバーから端末を抱えて飛び退く。
「逃げろ!」
護衛の断末魔の声を聞くよりも早く、真理はビルの裏口へ駆け出していた。
重い鉄扉を蹴り開け、狭い路地へ飛び出す。
走る。走る。
心臓が暴れ、喉が焼ける。
(まずい、まずい、まずい――!)
データは抜けた。
だからこそ、絶対に捕まるわけにはいかない。
だが――
足音が、すぐ後ろから迫ってくる。
(速い――)
遊上の全力疾走すら、易々と追い詰めてくる気配。
無理だ、距離が縮まっていく。
そして。
「逃げても無駄だ」
背後から、冷ややかな声。
次の瞬間、手首を掴まれた。
「きゃ――!」
反射的に抵抗するが、圧倒的な力の差。
あっという間に、地面へ押し倒される。
見上げた先に、あの黒髪の少年がいた。
その目は、遊上を値踏みするように静かに細められている。
「離せっ……!」
遊上は必死にもがいた。
だが、手首を掴んだ天乃の力は揺るがない。
無理に振りほどこうとすれば、骨が軋みそうだった。
「落ち着け」
天乃は低い声で言った。
殺気はない。
ただ、冷たいだけの声。
「別に、おまえを殺すつもりはない」
「……は?」
息を切らしながら、遊上は睨み上げる。
「じゃあ、何? 捕まえて、どこかに引き渡す気?」
「そういう命令も、受けてない」
天乃はあくまで淡々と言った。
「ターゲットの情報は抜き取らせない。
逃げられたなら、回収する。
それだけだ」
「……そんな、勝手な……!」
遊上は悔しさに唇を噛んだ。
必死に抜き取ったデータ、リスクを冒してまで手に入れた情報。
それを、こんな形で奪われたくはなかった。
だが――
天乃の視線が、ほんの僅かに逸れた。
(……今だ!)
遊上は反射的に、膝を蹴り上げた。
不意を突かれた天乃の身体が、僅かにバランスを崩す。
その隙に、遊上は腕を振りほどき、再び裏路地へと駆け出した。
後ろから、追う足音は――なかった。
(……あれ?)
恐る恐る振り返ることもできず、ただ走り続ける。
だが、遊上は背中越しに感じた。
――追ってきていない。
(どうして……)
疑問は残ったが、逃げ延びることが最優先だった。
遊上はそのまま、夜の闇へと姿を消した。
天乃慎は、小さなため息を吐いた。
足元には、地面に叩きつけられた小型端末が転がっている。
「……これでいい」
天乃は低く呟き、
無造作に足を振り上げると、端末を踏み砕いた。
バキバキ、と乾いた音を立てて、
端末は無残に破壊され、データも回復不能となった。
天乃は、それを一瞥しただけで身を翻す。
「任務完了」
その背後から、のんびりとした足取りで歩み寄る影がある。
天乃鵲だった。
「……逃がしてよかったのかい?」
鵲は緩い調子で尋ねる。
「問題ない」
天乃はあっさりと言い捨てる。
「情報は消した。
子ども一人に、手を汚す理由はない」
その言葉に、鵲はふっと肩を揺らして笑った。
「子ども一人って……君と同い年くらいに見えたけどねぇ」
軽く、からかうような声音だった。
天乃は返事をせず、静かに歩き出す。
鵲も肩をすくめながら、その背を追った。




