拳の速度、意思の重さ
2036年6月23日 深夜1時29分
重力が増したかのような圧が、天乃の四肢を蝕んでいく。
身体が鈍る。思考に遅延が生じる。世界が濁った油膜の向こうにあるかのように歪んで見えた。
《減速領域》――
それは「動きたい」という意思を“前提”として発動する。
対するは《行き止まり》の「止めたい」という絶対的な干渉。
意思の交差が契約となり、空間に作用する。
天乃はすぐに理解していた。
(……相性が良すぎる)
一見《停止領域》の劣化版に見えて、既に展開されていた《停止領域》と併用することで、効果は相乗効果を生む。
境界をいくら書き換えようとも、肝心の動作が鈍れば、回避は不可能となるのだから。
これまでは紙一重で避け続けてきた。
魔眼による予測、直観による反応、それらが極限の領域で機能していた。
しかし――
(この速度じゃ……もう避けられない)
防御も不能。反撃など、話にもならない。
ならば、と天乃は思考を転じる。
(減速の条件は、俺の“動きたい”という意志にある……なら、いっそ動かずにいれば?)
理屈としては成立していた。
だが、それを現実に置き換えると成立しない。
(……無理だ。止まったまま、あの攻撃を避けられるわけがない)
止まれば確実に打ち抜かれる。
動けば速度を奪われ、回避は不可能。
(……詰みだ)
視界のすべてが、閉塞感に包まれる。
逃げ場はない。選択肢もない。時間だけが、敵の側に流れていた。
それでも、天乃は目を逸らさなかった。
(……けど)
心の中に、答えが立ち上がる。
(結局、やることは変わらない)
《行き止まり》は、長距離攻撃を持たない。
選択肢は一つ。必ず接近し、殴ってくる。
ならば、それを――
(境界書換で、俺の拳は届く。なら――)
近接戦で打ち破るしかない。
技巧も魔術もない、原始の殴り合い。それが唯一残された勝機だった。
天乃は拳を構えた。
正面にいる《行き止まり》を、静かに睨む。
その意志を察したのか、《行き止まり》の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「やっぱりお前は面白ェよ。……ほとんど全ての局面で、最善手を選ぶんだからよ」
相手は《飛翔》を使わなかった。
代わりに、地を踏みしめながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
一歩。また一歩。
その歩みは静かだが、確実に天乃の神経を圧迫していた。
間合いが詰まる。
至近。
《行き止まり》が拳を引く。
肘元から噴き出す魔力が、爆発的な加速を拳に付与する。
移動ではなく、攻撃にすべてを振った魔力操作。破壊力だけを突き詰めた一撃。
(くる――)
魔眼が、完璧な軌道を視認する。
天乃は、引かない。
一歩、踏み込む。
その瞬間、領域が天乃の意思に反応した。
《減速領域》が作動。空間が意志に干渉し、強制的に動作を鈍らせる。
拳は出た。
だが――遅い。
あまりにも、遅すぎた。
結局のところ、威力とは速度だ。
速度を削がれた拳に、破壊力はない。
対する《行き止まり》は、その領域の干渉を受けない。
速度を保持したまま、全力で拳を振るえる。
攻撃、反撃、防御。
そのすべてを思うままに行使できるのは、彼だけだった。
その時点で、勝敗の趨勢は、明白だった。




