辰上との闘い
2036年6月7日午後5時33分
土壇場で起死回生の奇策を見事に成功させた辰上は両手を掲げる。
すると、暗闇を裂くように三つの術式が同時に再現される。
「術式再現――《影縫》《裂空槍》《呪縛環》」
影の糸が天乃を縫い付けんと蠢き、風の槍が凄まじい勢いで襲いかかり、呪縛の環が地面に展開して天乃を捕えようとする。
(これは、英莉の言っていた術式再現かッ!
《王の法》がなくても奴には攻撃手段が存在している。
オレにあるのはお世辞にも戦闘向きとは言えない能力だけだ。
どうする?)
「“我、汝に回避を命じる”」
「水無月ッ!?」
水無月の言葉に反応し、天乃は強化された跳躍で影の糸をかわし、瞬時に身を翻すことで紙一重で風の槍を避ける。
そして、踏み切り一閃――着地地点に仕掛けられていた呪縛の環の外へと飛び出す。
「“我、汝に殴打を命じる”」
水無月の言葉を受け、天乃はそのまま突進し、徒手空拳で辰上の胸元を打ち砕かんと拳を振り抜く。
しかし――拳はまるで鋼のように変質した皮膚に弾かれた。
「術式再現――《鉄壁》」
(いっつ、物理も通じないのかよっ)
「くははははは、どうした、それで終わりか、『覚醒者』ッ!」
「な、わけあるかよ!!」
絶望的な状況にもかかわらず、天乃に諦めるという文字はない。
それこそが『覚醒者』に至る条件なのだから。
辰上に弾かれた勢いそのままに天乃は踵を返し、水無月のもとに引き返す。
そして、天乃の瞳が辰上の内奥にいる“臣民”――相庭一臣へと向く。
「水無月、相庭に《王宮勅令》を使えるか?」
それに対し水無月は首を振る。
「無理よ。アタシの命令は声が届かない相手には通じない。
《王の法》の内部にいる意識のない人間に届くはずがないわ」
(く、だめか……いや、待てよ。
音ってのは結局のところ空気の振動なんだから――)
天乃は咄嗟に目を見開き、指先を何もない空間へと伸ばす。
「なら、《境界書換》で音の境界を書き換える」
「どういうこと、アンタ魔術師じゃなかったんじゃないの?」
「さっきなったんだよ、『覚醒者』とやらにな」
「超越者への対抗機構だっけ?」
「そうだよ。
とにかく、詳しく話している時間はない。
やっちまえ、水無月ッ!!」
魔力が指先に宿り、目には見えない音の障壁が波紋を描いて変質する。
本来音が遮られるはずの“壁”は、命令を通す“膜”へと書き換えられる。
その光景を目撃した水無月は声を発する。
「“――我、汝に覚醒を命ず”」
水無月の言葉が、確かに相庭の奥底へと届いた。
内部で震える声が響く。
「――俺は……?」
「一臣!? そのまま眠っておればよいものを」
「そうか、『辰上の亡霊』に囚われて」
「ええい、邪魔をするな!」
「――断る。俺は王政に反旗を翻す。
もはや俺は貴様の臣民ではないぞ、辰上!!」
相庭の声が地下室に轟いた瞬間、辰上を包んでいた《王の法》が音を立ててひび割れ、堰を切ったように崩壊し始める。そして、地面を抉るように走った亀裂が、一瞬にして術式の枠組みを粉砕した。
「な、何……だと……!?」
完全体と化した《王の法》の鎧は、内部からの決別の声を受け止めきれず、鋼鉄のように硬かった皮膚もろとも砕けて剥がれ落ちる。
「うおおぉぉぉおおお。
砕けるッ!? この俺が? 王たるこの俺がぁあああ!!」
《王の法》が砕けた。
辰上の支配が剥がれ落ちるように、その魔力は空中で細かく砕け散り、支配していた空間すらも形を保てず、崩れた。
中央に倒れたのは、相庭一臣。
目を閉じたまま、静かに呼吸をしている。
だが――
「……なんだ?」
天乃の魔眼は、それを見逃さなかった。
砕けた魔力の残響が空間を満たす中、ただ一人、天乃慎は目を細めた。
空間にはもう敵意も圧もない。それでも彼の魔眼には見えていた。
――空中を漂う、一本の“線”。
(魔力の流れ……違う、これは……抜け道……?)
まるで蜘蛛の糸のように繊細なそれは、相庭一臣の肉体から離れ、なおも別の場所へと伸びていた。
(……逃げようとしている?)
その先にいるのは――相庭宗次郎である。
そのことを天乃は知る由もないが、“直観”が告げていた。あの“線”は、別の器へと辰上の意識を移すための逃走路である。
(……今なら、消せる)
指先に魔力が集まり、天乃は“線”へと手を伸ばそうとした。
その瞬間、脳裏に響いたのは、かつて三俣が言った言葉だった。
『――助けるべき人間を、間違わないでくれ』
天乃の手が止まる。
(……誰を、助ける?)
“線”を焼き切れば、辰上は一臣の体内に取り残される。
――それは一臣の望み通り。彼は自らを犠牲にし、辰上と共に消える覚悟だった。
今回の計画も、それに基づいていた。ある意味で、自業自得だ。
しかし、“線”を残せば、辰上は宗次郎へと逃れる。
――宗次郎はただの子供だった。辰上に選ばれ、器とされ、討伐令の対象にされた“だけ”の存在、いわば被害者である。
彼は何も悪くない。けれど、そこに辰上が乗り移れば――彼は再び化け物とされ、命を奪われるだろう。
(……どうする。相庭か、見知らぬ誰かか。
どっちを、助ける? これはそういう問題だ)
崩壊した《王の法》の残滓の中、天乃はただ、自分に問い続けた。
(相庭を、見殺しにするのか?
それとも――誰かに、理不尽を押しつけるのか?)
……選べ。
……どちらが、本当に“救われるべき人間”なのか。
目を閉じる。
手を伸ばす。
指先が、“線”に触れる。
「んなもん、決まってる。どっちも救えずに、何が『覚醒者』だ。」
彼の中で燃えるように揺らいでいた二択は、もう選択肢ではなかった。
彼は“どちらか”ではなく、“どちらも”を選んだ。
だから叫ぶ。自身の能力に、自身の存在に。
「やってくれんだろ? 《境界書換》!」
全身から放たれる蒼光が、空間の理そのものを揺るがす。
天乃の視界に、“二本に分かれた境界線”が浮かび上がる。
一方は相庭一臣に、もう一方は相庭宗次郎に繋がる――
辰上の“意識の糸”である。
(切れば、相庭に残る。残せば、誰かが喰われる。
なら――境界を、分ける!)
天乃の魔眼が発光し、彼の指先が境界に触れる。
「《境界書換》――認識の統合を拒絶せよ。
魂と魂の狭間に、隔絶の隔たりを設けろ。
繋がるな。重なるな。混じり合うな。
――辰上、お前はどこにも逃げられないッ!!」
“線”が二本に裂かれる。
伸びていた糸は引き裂かれ、分断された“中間”に、新たな空間が挿入される。
“誰の器にもなれない空白”――魂の臨界点に生まれた、ただの“無”。
そこに封じられたのは、辰上の“意識の残響”。
「ぐっ……あ、ああああああああああああ!!!」
空間が悲鳴を上げる。
逃げ場を失った意識が、存在の境界そのものに食い破られ、押し潰される。
この世界のどこにも帰属できなくなった“理皇”は、次第に――崩れ、消え去った。
静けさが戻る。
天乃の肩が、ふっと落ちた。
「……やった、のか?」
疲労で崩れかけていた身体を支えながら、彼は振り返る。
部屋の中央には、静かに眠る一臣の姿。
水無月が、ゆっくりと笑った。
「おつかれ、天乃」




