完全体
2036年6月7日午後5時29分
その詠唱とともに、相庭の足元にある《王の法》の領域が拡大をしようとする。それは、天乃の引いた《境界》に阻まれるはずだった。
だが、次の瞬間、《王の法》の領域が相庭の身体に沿って上り始める。
そして、まるで王座へと至る戴冠の儀式のように、相庭の全身をその《王の法》による領域が包み込んでいく。
「くはは、くはははははははッ――
良い。実に良いぞ。あぁ、初めからこうすべきであった。
一臣如きにに主導権を渡すなど、王たる俺にあるまじき失態だ」
「お前が、『亡霊』かッ!」
「ふん、不敬な――だが、許そう。気分が良い故な。
貴様のおかげで一臣の制御が弱り、こうして俺が顕現するに至ったのだからな」
「『亡霊』?」
話について行けない水無月だけが首を傾げている。
「ふん、そう言うな、翡翠。よもや俺のことを忘れたわけではあるまい?」
「知らないし、翡翠じゃないけど」
水無月のにべもない返事にも『亡霊』は揺るがない。
「いや、待て。そうか。今は一臣の身体であったな。
では、改めて名乗ろう。我が名は辰上――辰上理皇だ」
その名を告げられても、水無月の反応は淡白だった。
ただ首を軽く捻り、心当たりがないことを示すだけである。
「……おい、なんか言ってるけど、心当たりは?」
「ないってば。
なんか自信満々で言ってるけど、アタシはほんとに知らないから」
辰上は無言のまま、水無月に向かって一歩――静かに、だが確実に距離を詰める。
「我、汝に停止を命ず」
水無月の口から、即座に《王宮勅令》による命令が放たれた。
だが、辰上は嘲笑を浮かべて返す。
「……ふん。王たるこの俺に命令とは、翡翠。
どういうつもりだ?」
「どうもこうもない。アタシは水無月風華。
“翡翠”なんて名前、身に覚えはないわ」
「くはははは……なるほど、そういう“遊び”か。
付き合ってやらんでもないが――俺は、冗談が苦手だ」
そう言って、辰上はさらに一歩、水無月に近づく。
「……嘘っ!? なんで!?」
「“何故”とは異なことを。
王たる俺に命令できる者など、この世に存在するわけなかろう」
その瞬間、割って入ったのは――魔導書『虚空の旋律』の声だった。
「――アホ抜かせ。ボケとんのか?」
「……なんだ、貴様は?」
「相変わらずやな。辰上ってのは、どいつもこいつも頭が沸いとる。
現実が見えてへんやろ?」
「ほぉ、……続けてみろ」
「ええか? ここはアンさんの生きとった時代とちゃう。
つまりな――アンさんの知り合いやった奴なんて、もう存在せえへんのや」
「……では、そこの女は、本当に翡翠ではないと?」
「そういうこっちゃ。
アンさんはただの先祖返りやあらへん。――転生体や。
実在した、過去の人物のな」
「ふん……俄かには信じがたいな。
だが、仮にそうだとしても、俺のやることは変わらんわけだが」
「やろうな。
転生した理由も残っとらん転生体なんぞ、消すに限るわ」
「よかろう。俺は『超越者』として、世界を支配する。
止めて見せるがいい」
そう言うと、辰上は右腕をゆっくりと持ち上げた。
魔力が震えるように空間を軋ませ、《王の法》を再び起動させようとする――
「無駄だ。それでも臣民がいないことには変わりない。
基本となる《王の法》が起動しない以上、何をすることもできないはずだ」
天乃の声は冷静だった。
《王の法》が成立するためには、“国”としての構成要素――主権・領土・国民が必要だ。
だが今、その“臣民”は――誰一人存在していない。
しかし、その指摘を受けてなお、辰上は笑った。
「くははははは、異なことを。“臣民”なら居るではないか」
――一瞬の沈黙。
そして、天乃の脳裏に、恐るべき可能性が閃く。
「――そうか、相庭一臣ッ!!」
天乃の声に混じるのは、焦りではない。
理解してしまった者の確信である。
辰上理皇と相庭一臣、その二者が別人格であるならば――辰上が“王”として君臨し、その身体に残された相庭一臣の精神は、“臣民”として計上されてしまう。
これは、《王の法》が要求する三要素――主権・領域・臣民――のすべてを、ただ一つの身体によって満たしてしまうという魔術的詭弁である。
そして、さらに深刻なのは――《境界書換》による干渉が、届かないという事実だった。
《王の法》の領域は、もはや空間に広がるものではない。
それは、相庭の身体そのものを鎧のように包み込み、まるで皮膚そのものが“法”に変じたかのように、完全に内側へと収束している。
――つまり、分けるべき『境界』が存在しない。
書き換えるべき『空白』が、どこにもない。
これは、《境界書換》の射程が及ばない“内在化された支配”――「王」が「臣民」を自らの肉体に取り込んだ状態である。
そして、辰上は高らかに笑う。
「――これこそが、《王の法》の完全体だ」




