《境界書換》
2036年6月7日午後5時26分
相庭の魔力が、黒く蠢く波のように広がっていく。それはまるで、空間そのものを蝕むかのようだった。
《辰上の亡霊》の魔力――それは、“贖罪”の名を冠した呪い。
飲み込まれることは、ただの消滅ではない。
かつての罪と共に、自我を喰われるということだ。
天乃の《魔眼》がその過程を捉える。魔力の色は、禍々しい黒紫。
相庭の元々持っていた柔らかな蒼の魔力が、完全に塗り潰されようとしていた。
(何か、拙い気がする。同化しきる前に何とか――)
その時、ふいに頭を過ったのは、三俣のあの言葉だった。
“その時が来たとき、君は自分が何者なのかを改めて考えてほしい。”
(今か……!? ここが、“その時”か!!)
天乃は目を閉じ、自分の奥底に問いかける。
(オレは記憶を失った高校生。特別な眼を持っただけの存在。
――違う。そうじゃ、ないだろ。
“改めて考えろ”とは、違う視点から自分を見ろということだ。
表層面のステータスなんかに意味はない。
要は、どんなオレで在りたいか、ここで決めろということだ。
そうとも、今のオレは無力だ。
だが、もう無力なままのオレではいられない。
答えは――決まった)
「オレが望むのは、戦わないオレだ」
その想いが確かに核となった瞬間、《魔眼》の輝きが変わった。
淡い光が、虹色の粒子を帯びて広がっていく。
天乃の視界では、空間が歪み、色が反転する。
《魔眼》が、“世界”に干渉する。
力に力で抗うのではなく、力の定義そのものを塗り替える。
「“勝てない戦いは勝たない”
――それに対するオレの解釈は、勝負すら勝負ではなくしてしまうことだ。
真っ当な戦いで勝てないのなら真っ当な戦いでなくしてしまえばいい。
勝利を得ずして目的を達成する。
それがオレの至るべき境地だ。
オレは、勝ち負けすら否定する。
勝ちも負けもない場所に相手を連れていく」
天乃の周囲に広がった魔力は、地下室の全てを包み込んだ。
相庭を蝕もうとしていた『亡霊』の魔力が、見る見る間に分離していく。
「だから、寄越せよ、『世界』――そんなオレに相応しい『覚醒』をッ!!!」
その瞬間、空間に“反響”が走る。
「――《境界書換》」
天乃は、静かに、それでいて世界を震わせるように宣言する。
「オレはこの魔術をそう名付けた」
2036年6月7日午後5時26分
「……何、この感覚」
建物の2階を探索していた水無月風華はぴたりと足を止めた。脊髄を直撃するような悪寒――いや、熱のような衝撃とでもいうべきか。空気の密度が変わったようにすら感じる。
五感では説明できない何かが起きていると本能が告げていた。
「嬢ちゃん、『覚醒者』が現れたようや」
同時に『虚空の旋律』が声を出す。
「『覚醒者』って何?」
「要は、世界を滅ぼす『超越者』を滅ぼす機構のことや」
「『超越者』――『討伐令』対象者か。
だったら、基本的にはいいことなのよね」
「せやね」
普段以上に素っ気ない反応に毒気を抜かれた水無月であったが、『虚空の旋律』の次の言葉にはさすがに反応せざるを得ない。
「ちなみに、反応は地下やで」
「地下? この建物に地下なんてあるの!?」
「さっき階段の踊り場で下に降りる通路あったやろ。嬢ちゃん、ガン無視しとったけど」
「……それ、先に言いなさいよ、このバカ本!」
舌打ちしながら、水無月は来た道を駆け戻った。
階段の手すりを勢いよく滑り降りると、『虚空の旋律』の指示に従って脇道へ――その先にある書庫のような部屋の奥、ずれた棚の背後に、重たい鉄扉の地下階段が隠されていた。
「まるで隠してるみたい……」
水無月は一瞬だけ逡巡したが、すぐに息を吸って、踏み出す。
「……行くしかないか」
何かが、この下で起きている。
それが、天乃の“覚醒”であることを、今の彼女はまだ知らない――




