虚空に残された宿題
2036年7月7日 午後6時32分
天乃と英莉が去った後の会議室、そこには『仲介屋』と鵲だけが残っていた。
つい先ほどまで複製世界の命運すら左右しかねない空気が漂っていたはずなのに、二人きりになった会議室は奇妙な静寂に包まれている。
無機質な白い壁面に反射した照明が、机の上に硬質な光を落とす。
「さて、やっぱり天乃くんには違和感を覚えられちゃったね」
鵲はそう言って軽く笑う。
その声音は軽いが、笑みに隠された意図を『仲介屋』は読み取ろうともしない。
「構わん。オレと同じ”直観持ち”を誤魔化すことができるとは到底思っていない」
『仲介屋』はそれでも構わないと淡々と回答する。
表情に揺らぎはなく、むしろ先ほどまでの緊張すら既に処理済みといった態度だ。
「でも、流石に答えには辿り着けなかったみたいだね。君こそが複製世界における百目鬼暁斗だという事実には」
「どうかな。その点についても疑問は持ったのではないか? 単にどうでもよかったから言葉に出さなかっただけで」
鵲は片眉を上げる。
『仲介屋』の淡々とした言いぶりは、彼が本気でその可能性を否定していないことを匂わせた。
「どうでもいい?」
「オレに限って言えばどちらが本物だ複製だなどという葛藤など抱かないということだ」
「あっはは、相変わらず君たちは合理の獣だなぁ」
鵲は肩をすくめ、大げさに笑う。
その反応もまた、演技なのか素なのか判別しづらい。
「どうでもいい」
『仲介屋』は短く言い捨てるように返した。
そこには少しの迷いも揺らぎもない。
「でも、いいのかい? 風華ちゃんは誤解したと思うよ?」
「構わん。これはオレの自己満足のためにやっていることだ。風華のことは関係ない」
鵲は深くため息をつき、呆れの色を浮かべた。
「損な性格だね」
「どういう意味だ」
「覚えてるかな? 僕が権能を使って君と風華ちゃんを出合わせたこと」
「勿論だ」
無機質だった『仲介屋』の声音が、わずかに硬さを帯びた。
それは彼にしては珍しい感情の揺れだった。
「このとき、君に必要なものを風華ちゃんが与えたという話はしたね?」
「そうだったか」
「それに気付けるかは君次第だという話もしたはずだよ?」
「……覚えている」
鵲の視線が『仲介屋』を刺すように射抜く。
だが『仲介屋』は目を逸らさない。ただ答えを持っていないだけだ。
「どうだい? その答えは君の中にあるかい?」
「さぁな。相変わらず、オマエの言いたいことはわからん」
「だから、損な性格だというんだよ」
鵲は笑いながら会議室を後にしようとする。
足音が規則的に床を叩き、出口のほうへ遠ざかっていく。
だが、最後に立ち止まり、後ろを振り向く。
「じゃあ、僕の仕事は概ね終わった。これからしばらく浅木には来ない予定だけど、何か言っておくことはあるかい?」
「『虚空の旋律』の件だが、どこまでがオマエの仕込みだ?」
鵲の笑みが一瞬だけ止まり、その奥に慎重な光が宿る。
「どこまでとは?」
「惚けるな。アレが辰上森羅の作成した教本――『万象の調べ』を基に作成された魔導書であることは突き止めている。
風華が辰上の縁者であることを知らなければ到底渡す理由がないものだ」
「そうだね。確かに、僕は風華ちゃんが物心つく前に水無月右京が引き取った辰上の縁者であることを知っていた。
当然、その事実は水無月右京も知ってたけどね。
僕の関与は正真正銘、風華ちゃんに『虚空の旋律』を渡すところまでだよ。
それ以降は関与しようがないだろう?」
「オレが訊いているのはどこまで予測していたかということだ」
「嫌にしつこいね」
「そうか? オマエが疑問に真っ直ぐ回答しないってことはそれなりに後ろ暗いところがあるということだろ?」
間髪入れぬ返し。
鵲は一瞬目を細め、そして楽しそうに肩を震わせた。
「あっはは、当然、全部予測していたよ。彼女が魔導書に依存することも、対価に内面世界を差しだすことも、なんなら彼女がこっそりあの本を今でも持ち続けていることも、全部予測済みさ」
それは軽い調子で語られるには重すぎる真実だった。
「――そうか。狙いは何だ?」
『仲介屋』はついに核心を問う。
空気が一瞬だけ強く張りつめた。
「疑問に答えが返ってくるとは限らないって教えてなかったっけ?」
「真面目に答える気がないのは分かった」
『仲介屋』はそこで追及をやめる。
目的を果たせない以上、これ以上の問いは無意味だと判断したのだ。
「これは僕から君への最後の宿題としておこう」
「オレ自身で理解する必要があると?」
「まぁね」
鵲の返答は緩やかだが、その意味は重い。
「相変わらず、オマエのやることは訳が分からん」
そう述べると、『仲介屋』はその空間を割り、その場から消え去る。
音も光も残さず、ただ存在だけがそこから抜け落ちるように。
鵲はその様子を確認すると、薄い笑みを浮かべ、会議室を後にするのであった。
彼の足取りは静かだが、確かな愉悦を含んでいた。




