その腕は誰のもの
2036年7月7日午前10時31分
御堂と十河が去っていく背中を見送り、天乃はようやく肩の力を抜いた。これ以上、誤解を生むやり取りを続ければ、どんな面倒が起きるか分かったものではない。現に今の時点でも、充分に胃が痛い。
だが、隣にいる小夜は、そんな空気など意に介さず――むしろ楽しんでいるとさえ思える様子で、当たり前のように天乃の腕に再びしがみついていた。ぴたりと肌を寄せ、彼の歩調に合わせて小さく鼻歌を口ずさむ姿は、どこか無邪気で、そして底知れなかった。
「……流石に、知り合いに見られると、いらぬ誤解を生むのでできればやめてほしいなぁなんて」
なるべくやんわりと苦言を呈してみたものの――
「嫌です♪」
一言、甘ったるい声で即答。まるでそれが当然だとでも言わんばかりの微笑みを浮かべ、小夜は腕を放そうともしない。
(まいったな……)
もはや半ば諦めの境地に達しつつ、天乃は足を進めた。とはいえ、ここは商業区のど真ん中。休日ということもあり、通りには多くの人が行き交っている。そんな中、見目麗しい少女と腕を組んで歩くというのは、視線を集めない方が難しかった。
それでも天乃が心の中で僅かに期待していたのは――
(まぁ、そうそう知り合いにばかり出会うまい)
――という、あまりにも脆く儚い希望だった。
しかし、現実はいつだって容赦がない。
「やっほー、慎ちゃん♪」
弾けるような声が、斜め後ろから飛んできた。嫌な予感とともに振り返れば、そこにいたのは見知った顔……否、二つの同じの顔だった。
緋澄眞琴と遊上真理。双子の姉妹にして、天乃の同級生。だが今日に限っては、視覚的な意味でとてつもなく厄介だった。というのも、ふたりは――まったく同じ私服を着ていたのだ。
白地に黒のドット柄ワンピース。赤いカーディガン。足元には、リボンの付いた黒いローファー。完璧に揃えられた双子コーデは、街中でも一際目立つ。そして、そこに並んで立たれた日には――外見からの判別はまず不可能だった。魔眼の持ち主でなければ。
天乃の眼――《魔術師殺し》は、その視覚を偽る術を許さない。外見、声、挙動がいかに完璧でも、その存在の本質――魔力の色までは欺けない。たとえ完全に同じ服を着せても、彼には“どちらが誰か”が一目で分かる。
「英莉ちーとお買い物デート?」
にこやかに軽口を叩いてきたのは、言動上は遊上真理。しかし、その中身は明らかに緋澄眞琴だった。
一方、実際の遊上は無言を貫き、隣に佇んでいた。その沈黙すらも、台本の一部なのだろう。姉妹揃って演技過剰すぎる。
「まぁ、そういうことじゃの」
と、小夜が英莉のフリをして応じる。口調も、無表情も、仕草も、完璧だった。魔導書に憑く異形の存在である英莉の模倣だからこそできる芸当である。たとえ本人を模倣しても、どこか奇妙に「自然」すぎるのだ。
(……説明するより、黙ってたほうがマシか)
英莉と小夜の関係をまともに説明したところで、余計に話がこじれるだけだ。天乃はため息を飲み込み、苦笑いだけで済ませた。
その間にも、小夜は腕を放す気配を見せない。むしろ、さらに身体を密着させてきて、天乃の肩に自分の頬をそっと預けるようにする――まるで、何かを主張するかのように。
「へー、そうなんだ。それにしても、英莉ちーって、普段はそんな見た目なの?」
緋澄が探るような口ぶりで問いかけてきた。小夜の姿――十代半ばの少女という外見は、確かに普段の英莉とは似ても似つかない。疑念を持つのは当然だ。
「いや、そんなことはない。今日はたまたまだ」
天乃はできるだけ平然と答えた。
「へー。腕組んでるのもたまたま?」
「そうだな、なんか今日はそんな気分らしくて」
「そうじゃの。気分の問題じゃ。何か問題あるかの?」
相変わらず堂々とした態度の小夜。その声音には挑発の色すら滲んでいるように感じられた。
緋澄は無言で天乃を見つめた。その視線の奥には、何かを探るような光があった。笑顔は柔らかいままだが、その内側には別の感情が潜んでいる。
「問題はないけど――」
そう呟いてから、彼女は隣に立つ“緋澄”に視線を投げる。
……え? それ私が言うの? といった表情で、一瞬だけ遊上の顔が引きつる。だがすぐに演技を切り替え、毅然とした声で口を開いた。
「少し、はしたないと思うわ、天乃慎」
あくまで姉のふりを崩さず、ぴしゃりと釘を刺してきた。が、小夜は――むしろ満面の笑みでそれを迎える。
「そうかのぉ? これくらい普通じゃろ」
天乃は、思考が一瞬停止するのを感じた。会話のテンポが異常だ。しかも、全部が的確に面倒くさい。
緋澄の目が、ゆっくりと細まった。笑顔は変わらない。変わらないのに、その裏にある感情が――確かに煮えたぎっていた。
遊上が、そっと姉の袖を引く。その仕草でようやく、緋澄は表情を少しだけ和らげた。
「そうなんだ。私たちはこれから用事があるから、そろそろ行くね」
それだけ言い残し、彼女は遊上の手を引いて歩き出す。その背中は、まるで引き際を間違えまいとする軍人のように固かった。
ふと、その背中を見送りながら、天乃が呟く。
「……なんだったんだ? 今の」
小夜が、隣で微動だにせず静かに佇んでいる。かと思えば。
――無言のまま、静かにガッツポーズを決めていた。
それはもう、誇らしげに。