希望狂いの果てに
2036年7月6日 午後4時5分
「……まって、まって……」
狗飼は蚊帳の外の片隅で、唇を噛んでいた。
闘いは終息に向かいつつある。
《潰滅》は止まりつつある――だが、彼女の中ではまだ何かが終わっていなかった。
「……まだ終わっちゃダメ……わたくし……まだ……何もしてない……!」
拳を握る。
心が熱い。焦りじゃない、苛立ちじゃない。
これは――渇望だ。
「うーん、うーん……何か、ないの……? まだ何かできること……!」
自問する。
追い詰められた子どものように、しかし心は確かに――覚悟の淵に立っていた。
「……あれ? 待って……わたくし、なにバカなこと言ってるの?」
はっと息を呑んだ。
「魔術……使えるじゃん……! “できるようになれば”いいじゃん!!」
そう散々見てきたではないか――詠唱という名の、心象の開示。
魔術とは、心が形を持つこと。
「……わたくしは、ふぅちゃんのために……偏に、ふぅちゃんのためだけに……」
自分に問いかける。
何がしたいのか。
なぜ、ここにいるのか。
「――幸せになってほしい。輝く彼女が見たい」
願いは、それだけだった。
どうすればいいかわからない?
なら、わかるようになればいい。
どうしてもできない?
なら、できるようになるまで続ければいい。
「わたくしは、諦められないんだから!!」
叫びが、魂の奥から溢れ出した。
奇しくもそれは――天乃が至った領域と、同じ場所だった。
曰く、「勇者の素質」。
曰く、「不屈の亡者」。
曰く、「希望狂い」。
諦めるという選択肢が存在しない者だけが至れる領域。
彼女の“空っぽ”は、まさにこの時を待っていたのだ。
天に向かって、詠唱が口をついて出る。
それは、意志の奔流。魂の宣誓。
「“百の獣を従えど、我が空白は埋まらない”」
「“私は従えるために生まれてきたのではないのだから”」
「“奉仕する喜びを知る者が何を以て支配者となれようか”」
「“我が願いはただただ偏にあの光のために”」
「“故に、天に祈ろう、我が幻想の健在なることを”」
「“完全没入――《百獣覇群》”」
「そうだよ。誰もが“障害”として足りないなら――
わたくしが、なるしかないじゃない」
狗飼は、笑っていた。
それは無垢な笑みではない。
かといって、狂気に染まったものでもない。
ただ、どこまでも純粋に――歪んでいた。
「完全没入――《百獣覇群》」
その瞬間、空間が裂ける。
狗飼の身体から、黒い靄のような“獣影”が溢れ出す。
咆哮。踏み鳴らされる大地。
異形の霊獣たち――過去に狗飼家が契約してきた百を超える霊獣たちが、狗飼朱音の内なる世界から外へと流れ出す。
それこそが、狗飼の真なる魔術。
歴代狗飼家が代々継承し、秘匿してきた秘術。
あらゆる“主従”の霊的記憶を血脈に刻み込み、一代でそれら全てを支配下に置くという呪術的契約体系――
「そう、ようやくわかったの。わたくしってば……光に恋をしてたのよ」
狗飼の目が、どこまでも透き通っている。
そこに映るのはただ一人――水無月風華。
「わたくしは、ふぅちゃんの“幸せ”が見たいの。……でも、ただ幸せになるだけじゃ足りないのよ。
だって、ふぅちゃんが一番光っていたのは――苦しんでいたときだったから」
哀しい理屈だった。
けれど、それが狗飼朱音の“真実”だった。
「だからお願い。獣たち――穿って。彼女を。ボロボロにしてあげて。
きっと“あーくん”が助けてくれるから。
彼はヒーロー。ふぅちゃんの王子様。
なら、障害が必要でしょ?
――ドラマがなきゃ、恋にはならないのよ」
天は濁り、霊獣たちが咆哮する。
一頭、また一頭。
形なき霊が姿を取り、この世界を侵食していく。
「有象無象なんて蹴散らして。
ふたりきりの世界を、作ってあげて。
それが、わたくしの祈り」
狗飼はその場に座り込む。
満足そうに、目を閉じて――
夢に、溺れた。
「……ごめんね、天空。
約束、守れそうにないや……」
その背に、主を守るべきメイドの影が浮かぶ。
けれど、狗飼の意識はもう――あの幸福な幻想にしか向いていなかった。




