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Replica  作者: 根岸重玄
競技大会編
145/286

奇跡の終焉

 2036年7月6日 午後3時59分


 《潰滅(ついめつ)》の巨躯(きょく)が一歩踏み出すたびに、空間が震える。

 だが、その進行は確かに(にぶ)っていた。

 完全没入は解除され、今なお《行き止まり(デッドエンド)》の減速領域の中にある。

 通常であれば、すでに身動き一つままならないはずだった。

 それでも《潰滅(ついめつ)》がなお動けるのは――

 『信仰屋』の“奇跡”が彼を助けていたからだった。

 絶対に命中するはずだった《王宮勅令》の直撃を、《潰滅(ついめつ)》はありえないことに聞かなかったことにした。

 《行き止まり(デッドエンド)》の停止領域による足止めも、直前で奇跡的な軌道(きどう)による回避でいなされた。


「くそっ、どこまで介入されてやがる……!」


 《行き止まり(デッドエンド)》が悪態(あくたい)を吐く横で、天乃(あまの)は冷静に現象を観察していた。

 攻撃が外れる理由が、物理や因果ではないことは明らかだった。

 奇跡という名の“上位現象”。

 それを打ち破るには、上位に匹敵する“別の否定”が必要になる――


 そして、次の瞬間。

 声が届いた。


「喰らい尽くせ、《幸運潰し(ラックイーター)》!」


 澄んだ声。けれど、言葉の中には確かな憎悪と決意が宿っていた。

 神野(こうの)結愛(ゆめ)――

 その小柄な少女が、手を広げて立っていた。

 彼女の隣には、特務課の水無月(みなづき)雹霞(ひょうか)

 その姿は護衛のようでもあり、後見人のようでもあった。

 そして、空気が変わる。

 不可視のなにか――

 まるで世界を覆う薄膜のような“幸運”の層が、ごっそりと削り取られていく。


「……ッ!」


 《潰滅(ついめつ)》の足が止まる。

 次の瞬間、彼の動きが鈍るのではなく、完全に自然の法則に従い始めたのだ。


「……なんと、彼女が……」


『信仰屋』の声が、初めてわずかに揺れた。


「この私の《信仰》の権能を……打ち消すとは……なんと禍々(まがまが)しい」

「好き勝手言わないで」


 神野(こうの)は静かに言い返した。

 その目は、かつての弱々しさを完全に脱ぎ捨てた鋭い光を(たた)えていた。


「やっと……やっと役に立てる時が来たんだよ。

 あなたたちのちっぽけな“幸運”なんて、ボクがなかったことにしてあげる。

 ボクの人生は……この時のためにあったのかもしれない」


 その言葉は、かつて「幸運が起こらない」せいで全てを失った少女の“逆転劇”そのものだった。

 そして――


「さぁ、大盤振る舞いだよ

 好きなだけ奇跡を食い散らかせ、ボクの《幸運潰し(ラックイーター)》!」


 空気が反転した。

 信仰屋の権能によって潰滅(ついめつ)の周囲に漂っていた“奇跡”の因果が、崩壊していく。

 砕けるように、ひとつ、またひとつと“起こるはずだった幸運”が剥ぎ取られていく。


「……馬鹿な……神の奇跡が……否定された……?」


 信仰屋が、一歩、後ずさる。

 その時の彼の目には、神野(こうの)ではなく、まるで――

 神そのものを恐れているような、畏敬(いけい)の色が浮かんでいた。


 2036年7月6日 午後4時2分


 《幸運潰し(ラックイーター)》の発動により、奇跡は一つ、また一つと霧散(むさん)していく。

 《潰滅(ついめつ)》はなお立っていた。だが、その身体を覆う“奇跡”は明らかに剥がれ落ちていた。

 彼の動きは徐々に重くなり、ついには膝をついた。

 それでも彼は、歯を食いしばって起き上がる。

 その瞳には、ただ一つ――「信仰の意志」が宿っていた。


「我は……神の(しもべ)……。この身、この力、神への奉仕(ほうし)のためにある……」


 そのとき、声がした。


「その神って、誰のことだ?」


 淡々と問いかけたのは、天乃(あまの)だった。

 《潰滅(ついめつ)》は目を細めた。


「何を……馬鹿なことを。神は神に決まっている……」

「本当にそうか?」


 天乃(あまの)はさらに一歩、踏み込むように問いを重ねる。


「お前は、奇跡を受けた。何度も。生き延び、攻撃を無効化し、術式を破壊した。全部、『信仰屋』の“権能”によって起きたことだ」


 《潰滅(ついめつ)》の眉がひく、と動いた。


「それは……教主が神の代理だから……」

「代理? じゃあ聞く。お前の“信仰”は神に向けたものか? それとも……『信仰屋』に向けたものか?」


 沈黙。

 天乃(あまの)は静かに続ける。


「お前の“祈り”は、誰に向けていた?

 あの奇跡の瞬間――お前は“神”を思い浮かべていたか? それとも、“教主様”を?」


 空気が変わる。

 《潰滅(ついめつ)》の思考が、ほんの一瞬だけ迷った。

 それはまるで“世界観”の礎が、音を立てて崩れていくような感覚。


「……そんなはずは……」

「お前は、“神”を信じていたんじゃない。

 お前が信じていたのは、『信仰屋』――つまり、“人”だったんだよ」


 ぐらり、と潰滅(ついめつ)の身体が傾ぐ。

 それは物理的な揺らぎではない。

 信仰の根幹が崩れた者特有の“霊的錯乱”だった。


「まさか……我の……信仰が……教主に……?」

「それが事実だ」


 天乃(あまの)の言葉に、《行き止まり(デッドエンド)》が続ける。


「だったらよぉ……お前はもう“聖魔教の信徒”じゃねぇんだよ」


 《潰滅(ついめつ)》の肩が大きく揺れる。


「違う……我は……神を……」

「その“神”は、そこに立ってる人間だ」


 『信仰屋』が、微笑を浮かべたまま口を閉ざす。

 彼はそれを否定しない。

 否定できない。

 なぜなら――それは真実だったから。

 《潰滅(ついめつ)》は、がくりと膝をついた。

 それは敗北の姿ではなかった。

 改宗の瞬間だった。

 《潰滅(ついめつ)》は膝をついたまま、顔を上げた。

 その瞳には、迷いがあった――だが、揺るぎなき信念もあった。


「……たしかに。我が“信仰”は、神そのものにではなく……教主よ、あなたに向けられていた」


 それは、敗北宣言ではなかった。

 ただ、事実を認めたのだ。

 天乃(あまの)がわずかに警戒を強める。

 次の瞬間、《潰滅(ついめつ)》はその場に立ち上がる。

 傷ついた身体、重く鈍った動作――それでも、ゆっくりと。


「ですが、我は……それでも、信じます。教主よ。あなたは……我の“神”であると」


 『信仰屋』は、どこか哀しげに目を細めた。


「お前のその純粋さは、いささか眩しすぎるな。だが……私にはもう“奇跡”は与えられん。信仰の果てに残るのが、ただの無力では……滑稽にも程がある」

「それでも……我は、あなたの意志に従います」


 《潰滅(ついめつ)》は、その巨体をふたたび構えた。

 もう奇跡は使えない。

 《信仰》による恩恵も消えた。

 それでも――立った。


「この身が鈍かろうと、倒れようと、教主の“駒”として、我は最後まで役目を全うします」


 《行き止まり(デッドエンド)》の眉がわずかに動く。

 その顔に、かすかに――哀しみにも似た色が宿る。


「……見上げた信念だがな。もう、お前は“戦える状態じゃねぇ”んだよ」


 その言葉とともに、行き止まり(デッドエンド)の停止領域がふたたび展開された。

 《潰滅(ついめつ)》は、抗わない。

 抗えない。

 減速領域の中で動くことさえままならない身体で、ただ静かに受け入れる。


「……教主よ……ありがとうございました……」


 最後の言葉を残して、《潰滅(ついめつ)》は完全に停止した。

 空気が凍るような沈黙の中、誰もが動けずにいた。

 そして、静かに『信仰屋』が口を開いた。


「……駒を失ったか。……いや、これは自業自得だな。

 信仰とは、利用するものではなく、ただ求めるものだった……それを忘れていた」


 彼はふっと笑い――それはどこか、諦めと疲労の入り混じった表情だった。


「これ以上は、私の役目ではない。……では、さらばだ。いつかまた“信仰”を求めたくなったら、いつでも来てくれたまえ」


 それだけを言い残し、『信仰屋』はその場から姿を消した。

 まるで、最初から――そこには誰もいなかったかのように。

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