奇跡の終焉
2036年7月6日 午後3時59分
《潰滅》の巨躯が一歩踏み出すたびに、空間が震える。
だが、その進行は確かに鈍っていた。
完全没入は解除され、今なお《行き止まり》の減速領域の中にある。
通常であれば、すでに身動き一つままならないはずだった。
それでも《潰滅》がなお動けるのは――
『信仰屋』の“奇跡”が彼を助けていたからだった。
絶対に命中するはずだった《王宮勅令》の直撃を、《潰滅》はありえないことに聞かなかったことにした。
《行き止まり》の停止領域による足止めも、直前で奇跡的な軌道による回避でいなされた。
「くそっ、どこまで介入されてやがる……!」
《行き止まり》が悪態を吐く横で、天乃は冷静に現象を観察していた。
攻撃が外れる理由が、物理や因果ではないことは明らかだった。
奇跡という名の“上位現象”。
それを打ち破るには、上位に匹敵する“別の否定”が必要になる――
そして、次の瞬間。
声が届いた。
「喰らい尽くせ、《幸運潰し》!」
澄んだ声。けれど、言葉の中には確かな憎悪と決意が宿っていた。
神野結愛――
その小柄な少女が、手を広げて立っていた。
彼女の隣には、特務課の水無月雹霞。
その姿は護衛のようでもあり、後見人のようでもあった。
そして、空気が変わる。
不可視のなにか――
まるで世界を覆う薄膜のような“幸運”の層が、ごっそりと削り取られていく。
「……ッ!」
《潰滅》の足が止まる。
次の瞬間、彼の動きが鈍るのではなく、完全に自然の法則に従い始めたのだ。
「……なんと、彼女が……」
『信仰屋』の声が、初めてわずかに揺れた。
「この私の《信仰》の権能を……打ち消すとは……なんと禍々しい」
「好き勝手言わないで」
神野は静かに言い返した。
その目は、かつての弱々しさを完全に脱ぎ捨てた鋭い光を湛えていた。
「やっと……やっと役に立てる時が来たんだよ。
あなたたちのちっぽけな“幸運”なんて、ボクがなかったことにしてあげる。
ボクの人生は……この時のためにあったのかもしれない」
その言葉は、かつて「幸運が起こらない」せいで全てを失った少女の“逆転劇”そのものだった。
そして――
「さぁ、大盤振る舞いだよ
好きなだけ奇跡を食い散らかせ、ボクの《幸運潰し》!」
空気が反転した。
信仰屋の権能によって潰滅の周囲に漂っていた“奇跡”の因果が、崩壊していく。
砕けるように、ひとつ、またひとつと“起こるはずだった幸運”が剥ぎ取られていく。
「……馬鹿な……神の奇跡が……否定された……?」
信仰屋が、一歩、後ずさる。
その時の彼の目には、神野ではなく、まるで――
神そのものを恐れているような、畏敬の色が浮かんでいた。
2036年7月6日 午後4時2分
《幸運潰し》の発動により、奇跡は一つ、また一つと霧散していく。
《潰滅》はなお立っていた。だが、その身体を覆う“奇跡”は明らかに剥がれ落ちていた。
彼の動きは徐々に重くなり、ついには膝をついた。
それでも彼は、歯を食いしばって起き上がる。
その瞳には、ただ一つ――「信仰の意志」が宿っていた。
「我は……神の僕……。この身、この力、神への奉仕のためにある……」
そのとき、声がした。
「その神って、誰のことだ?」
淡々と問いかけたのは、天乃だった。
《潰滅》は目を細めた。
「何を……馬鹿なことを。神は神に決まっている……」
「本当にそうか?」
天乃はさらに一歩、踏み込むように問いを重ねる。
「お前は、奇跡を受けた。何度も。生き延び、攻撃を無効化し、術式を破壊した。全部、『信仰屋』の“権能”によって起きたことだ」
《潰滅》の眉がひく、と動いた。
「それは……教主が神の代理だから……」
「代理? じゃあ聞く。お前の“信仰”は神に向けたものか? それとも……『信仰屋』に向けたものか?」
沈黙。
天乃は静かに続ける。
「お前の“祈り”は、誰に向けていた?
あの奇跡の瞬間――お前は“神”を思い浮かべていたか? それとも、“教主様”を?」
空気が変わる。
《潰滅》の思考が、ほんの一瞬だけ迷った。
それはまるで“世界観”の礎が、音を立てて崩れていくような感覚。
「……そんなはずは……」
「お前は、“神”を信じていたんじゃない。
お前が信じていたのは、『信仰屋』――つまり、“人”だったんだよ」
ぐらり、と潰滅の身体が傾ぐ。
それは物理的な揺らぎではない。
信仰の根幹が崩れた者特有の“霊的錯乱”だった。
「まさか……我の……信仰が……教主に……?」
「それが事実だ」
天乃の言葉に、《行き止まり》が続ける。
「だったらよぉ……お前はもう“聖魔教の信徒”じゃねぇんだよ」
《潰滅》の肩が大きく揺れる。
「違う……我は……神を……」
「その“神”は、そこに立ってる人間だ」
『信仰屋』が、微笑を浮かべたまま口を閉ざす。
彼はそれを否定しない。
否定できない。
なぜなら――それは真実だったから。
《潰滅》は、がくりと膝をついた。
それは敗北の姿ではなかった。
改宗の瞬間だった。
《潰滅》は膝をついたまま、顔を上げた。
その瞳には、迷いがあった――だが、揺るぎなき信念もあった。
「……たしかに。我が“信仰”は、神そのものにではなく……教主よ、あなたに向けられていた」
それは、敗北宣言ではなかった。
ただ、事実を認めたのだ。
天乃がわずかに警戒を強める。
次の瞬間、《潰滅》はその場に立ち上がる。
傷ついた身体、重く鈍った動作――それでも、ゆっくりと。
「ですが、我は……それでも、信じます。教主よ。あなたは……我の“神”であると」
『信仰屋』は、どこか哀しげに目を細めた。
「お前のその純粋さは、いささか眩しすぎるな。だが……私にはもう“奇跡”は与えられん。信仰の果てに残るのが、ただの無力では……滑稽にも程がある」
「それでも……我は、あなたの意志に従います」
《潰滅》は、その巨体をふたたび構えた。
もう奇跡は使えない。
《信仰》による恩恵も消えた。
それでも――立った。
「この身が鈍かろうと、倒れようと、教主の“駒”として、我は最後まで役目を全うします」
《行き止まり》の眉がわずかに動く。
その顔に、かすかに――哀しみにも似た色が宿る。
「……見上げた信念だがな。もう、お前は“戦える状態じゃねぇ”んだよ」
その言葉とともに、行き止まりの停止領域がふたたび展開された。
《潰滅》は、抗わない。
抗えない。
減速領域の中で動くことさえままならない身体で、ただ静かに受け入れる。
「……教主よ……ありがとうございました……」
最後の言葉を残して、《潰滅》は完全に停止した。
空気が凍るような沈黙の中、誰もが動けずにいた。
そして、静かに『信仰屋』が口を開いた。
「……駒を失ったか。……いや、これは自業自得だな。
信仰とは、利用するものではなく、ただ求めるものだった……それを忘れていた」
彼はふっと笑い――それはどこか、諦めと疲労の入り混じった表情だった。
「これ以上は、私の役目ではない。……では、さらばだ。いつかまた“信仰”を求めたくなったら、いつでも来てくれたまえ」
それだけを言い残し、『信仰屋』はその場から姿を消した。
まるで、最初から――そこには誰もいなかったかのように。




