終焉をもたらす者、そして止める者たち
2036年7月6日 午後3時51分
空気が重たく、ねじれている。
地面は沈黙し、観客など一人もいないような異常な静寂が支配していた。
完全没入――すなわち《潰滅の巨人》。
その異常な状態を打ち破った天乃は、ようやく“現象”ではなく“存在”としての《潰滅》を引きずり出すことに成功した。
その瞬間、《潰滅》は天乃を見た。
「貴様……」
その声には、確かな敵意と、恐れが混ざっていた。
完全没入を解除された――それが彼にとっての「敗北」に等しい体験だった。
認識が変わる。優先順位が変わる。
彼の頭の中で、最大脅威――《天乃慎》と認定された。
――だが。
「チッ……忘れたか?」
目の前に立つ男がいた。
《行き止まり》。
《潰滅》の意識が天乃へと移ろうとした、その刹那。
《行き止まり》の減速領域が再び全力で機能し始めた。
完全没入によって切り離されていた「減速の呪い」が、再び《潰滅》の肉体を蝕む。
ただでさえ、あの巨体を動かすには莫大なエネルギーが必要なのだ。
しかも、魔力の流れを潰すような領域がまとわりついている。
「動き……が、鈍る……!」
その判断の一瞬の遅れ。
ただそれだけで、戦局は決まった。
「我、汝に跪坐を命ず!」
水無月の詠唱が響いた。
空間が音とともに振動する。
潰滅の膝が、折れた。
ズゥゥゥンッ!
地響きとともに、大地が揺れる。
その巨体が、武装――あの巨大な戦鎚を――手放した。
「っ……!?」
潰滅の目に、焦燥と、そして――恐れが浮かぶ。
「……それだ」
《行き止まり》の目が細められる。
(奴の最初の詠唱……"我が戦鎚を見るがいい"……"我が戦鎚の薙ぐ先は無窮の大地と化すであろう"……。あれが、奴の“起動条件”だとしたら――!)
直感が、確信に変わる。
《行き止まり》は、即座に魔力を練り上げた。
「触れたら終わりだぜ――止まりな、《潰滅》ッ!」
魔術が展開する。
《停止領域》。
対象の動き、熱、衝動――すべてを“停止”させる異常空間が広がる。
《潰滅》は、あの戦鎚を拾おうと、腕を動かそうとした。
だが、その動きが、止まった。
完全に――止まったのだ。
「……あぁ……っ」
視線だけが、動く。
圧倒的な暴力の化身。自らを“滅ぼす者”と称した存在が、今、沈黙の牢獄に囚われた。
「これで……勝ちだ」
《行き止まり》の声音は、あくまで静かだった。
だが、その声音には確かな誇りがあった。
――止めたのだ。
滅ぼすことを運命づけられた巨人を。
ただ「止めたい」と願ったその手で。
2036年7月6日午後3時56分
《潰滅》の巨体が停止した静寂を破ったのは――拍手だった。
「……拍手?」
天乃が眉をひそめたその先、僧衣の男が、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべて手を叩いていた。
「素晴らしい。まさか完全没入が、他の完全没入以外の方法で破られるとは思わなかった。いやはや……これはまさに、奇跡だ」
声に怒りも高揚もない。ただただ称賛を紡ぐような、本物の信徒の声色だった。
「……誰だよ、テメェ……」
《行き止まり》が険しい目を向ける。
が、次の瞬間、天乃の背筋を冷たいものが走った。
気配が、なかった。
「いつからいた……?」
誰も気づかなかった。
視界にも、魔力の流れにも、足音にも気配がなかった。
“気づいたときには、そこにいた”
「私は、『信仰屋』――神の代弁者である」
その名は、聖魔教の“教主”にして最大の異能保持者。
実在が曖昧な存在。
神と人との境界に立つ者――“神を演じる者”。
僧衣の男は静かに、そして確かに名乗った。
そして、「恥を忍んで頼みたい」と彼は頭を垂れた。
「そこの《潰滅》を、解放してもらえないかね?」
「……あぁ?」
《行き止まり》が片眉を吊り上げる。
「無理に決まってんだろ、これから尋問が残ってんだからよぉ」
「おぉ……神よ、我に試練を与えるか」
嘆くように顔を覆う『信仰屋』。
「頭沸いてんのか、テメェ……」
《行き止まり》の苛立ちは明らかだ。
だが――天乃は、直観的にまずいと感じていた。
体がわずかに震える。
この男は、何かが根本的に違う。
そして――
「我が権能たる《信仰》よ、敬虔なる信徒を救い給え!」
『信仰屋』の声が空に響いた。
瞬間、空気が震えた。
空間が――歪む。
「なっ――!?」
行き止まりの停止領域が、奇跡のように“抜けられた”。
《潰滅》が、動く。
巨躯が立ち上がる。
神の奇跡に応じるように、不可避の現象が再び始まる。
「……当然、タダでなどとは言わない」
穏やかな声で、だが確かに宣言する。
「君たちの命と引き換えにね」
にこやかに微笑む“教主”の顔は、まさしく“神”を演じる者の顔だった。
「教主よ、助かりました」
《潰滅》――マグヌス・ヴェルメロは膝をついたまま、神に跪くがごとく頭を垂れる。
巨体とは裏腹に、その声音には確かな敬意と帰依があった。
「いや、これは私の落ち度だ」
僧衣の男――『信仰屋』は穏やかに応じた。
その微笑みには自責の色すら浮かばない。ただ、ゆるやかに神を語る者としての静けさがあった。
「まさか、敵側の“駒”がこんなところにいたとは。
しかも、覚醒者だとはね」
その視線は、天乃を射抜くように向けられていた。
「駒……ですか」
《潰滅》が静かに繰り返す。
「――天乃慎。『殺し屋』の舞台で見たよ。
あの時は気づかなかったが……いやはや、覚醒者に至るとは」
『信仰屋』の口調は軽い。だがその中に宿る知識の深さと、確信に満ちた眼差しが、異質さを際立たせる。
「それは――」
天乃が口を開きかけたが、『信仰屋』はその続きを遮るように話す。
「舐めてはいけない。彼ら――覚醒者とは、理論上、超越者すら単騎で打倒し得る存在だ。
祈りなき神をも、心ひとつで覆す異端の光だ」
《潰滅》がそれを聞き、かすかに笑みを浮かべる。「はっ」と短く呼吸を吐いた。
一方、《行き止まり》は『信仰屋』を睨みつけていた。
「わけわかんねぇ……俺の停止領域を奇跡的に抜け出すだと?」
「わからんかね?」
信仰屋はゆっくりと首を傾ける。
「信仰が足りていないのではないか? 祈りを欠かしているのではないか? 君自身、振り返るべきことがあるのではないか?」
その問いかけはどこまでも静かで――しかし、人の心を捻じ曲げるような重さを持っていた。
「……うるせぇよ」
《行き止まり》は吐き捨てる。
「要はもう一度止めりゃあ済む話だ」
指先に、停止領域の魔力が集中していく。
視界が、空間が、再び“止まる”色に染まり始める。
だが、信仰屋は微笑を崩さず言った。
「そうだね。簡単だ。神の奇跡は、それすら打ち破るがね」
その言葉と同時に、空気が変わった。
祈りという形を持たない力が、『信仰屋』を中心に満ち始める。
信仰――それは力の源泉ではない。
それは、「奇跡を起こすに足る理由」として世界が認めてしまうもの。
神ではなく、神を信じる“物語”そのものが、力となって立ち上がろうとしていた。
天乃は直感した。
(――まずい。あれは、理屈では止まらない)
《行き止まり》が再び“止めよう”とするなら、今度こそ止まらない何かに踏み潰される可能性すらある。