神命と王命
2036年7月6日午後3時8分
水無月は、《祝福者》を睨みつけていた。
先ほどまで聖句を封じ完全に優位に立っていたはずだが、歯車が狂ったのは次の命令を発したときであった。
「我、汝に伏臥を命ず」
「神に仕える我が身が、これ以上王の命に従うわけにはいきません」
ドミニカ=フィデース。《祝福者》の名を持つ聖魔教の司祭は、穏やかな顔を崩さぬまま、即答で命令を退けた。
自分の《王宮勅令》が、効かなかった。
思い出すのは、辰上とのやり取り。
『……ふん。王たるこの俺に命令とは、翡翠。
どういうつもりだ?』
《王宮勅令》――それは対象の“立場”に応じた命令を強制する術式だ。
だが、あまりにも強い“意志”を持つ者は、それすら跳ね返すことができる。
そして、ドミニカの信仰心は、まさにその領域にあった。
水無月は舌打ちする。
(……効かない。強すぎる意志には通じない。
アタシの切り札が通じない相手……!)
しかし、《祝福者》は一切の容赦を見せない。
「神はかく語りき――氷塊よ、降り注げ」
空が割れた。
上空から落ちてくるのは、まるで彗星のような直径3メートル級の氷塊。
一つでも直撃すれば、ただでは済まない。
だが――
「甘いっ!」
水無月は、軽やかに、そして立体的に跳ねた。
まるで空間にステップでも存在するかのような自由な三次元機動。
昨日の障害物競走で見せた応用力が、再び発揮される。
氷塊は一つも命中しなかった。
それでも、《祝福者》は追撃を緩めない。
「神はかく語りき――空気よ、拘束具と化せ」
今度は見えない“空気”が、水無月を包囲するように歪んでいく。
見えず、触れず、ただ身体の周囲の動きが縛られていく――
だがその瞬間、爆音が響いた。
「ッッ!?」
水無月の体操服――その正体である魔導書『虚空の旋律』が、周囲に魔力を爆発的に放出したのだ。
無数の干渉波が周囲の空気圧の魔術構造を一気に乱す。
拘束は、発動前に解除された。
「……ありがとう。だけど、マジでキツイ」
呼吸を整えながら、水無月は呟く。
強がってはいるが、消耗は明らかだった。
「ねえ、他に……何か打つ手は?」
答えは、すぐに返ってきた。
「あるでぇ、とっておきのがな。ホンマは教えたくなかったけど、今の嬢ちゃんには必要かもしれんわ」
水無月の瞳が細められる。
「……どんな手?」
焦燥と覚悟を込めて、水無月は問いかけた。
待ってましたとばかりに、彼女の体操服の“内側”――
魔導書《虚空の旋律》の本体たる漆黒の魔本が、音もなく姿を現す。
「なぁに、簡単や、嬢ちゃん」
ページが自動的に捲られていく。空白だった紙面に、魔力の筆跡が走る。
「今からここに嬢ちゃんの詠唱を書き出す。それを唱えるだけや」
「対価は何? どうせ、取るんでしょ」
目を細める水無月に、魔本はにやりと笑った気がした。
「もちろんや。ワイらの契約は等価交換やからな。……詠唱を授ける対価は、実に8年と3か月や」
水無月は一瞬だけ躊躇する――しかし、すぐに頷く。
「……いいわ。持っていきなさい。アタシの8年と3か月」
「毎度ありやで。後払いっちゅうことで、ほれ。これが嬢ちゃんの詠唱や。効果は――折り紙付きやで」
魔本のページに現れたのは、力強く、そして荘厳な“言葉”。
水無月は躊躇なくその詠唱を唱え始める。
まるで初めから知っていた言葉のように。
「“私は嘗て、人を統べ、国を治めるための言葉であった”」
「“しかし、私は最早、言葉に非ず”」
「“我が言葉は大衆に響き渡り、森羅万象――言霊纏う”」
「“故に、我が意をもって問おう、『誰そ彼也や』と”」
「“具現化せよ我が王威――《王宮勅令》”」
それは水無月の“言葉を届けたい”という願いと、誰もが心のどこかでもっている“声を聞き届けたい”という願いが交差することで成立する篏合魔術。
それは《祝福者》であっても例外ではない。彼女もまた信徒の声を聞き届けなければならない立場だからである。
この瞬間――水無月の言葉は、距離も、拒絶も、超越した。
そして、《祝福者》に向かって、命令を下す。
「我、汝に入眠を命ず」
《祝福者》ドミニカ=フィデースの身体が、一瞬揺れる。
「ありえない、ありえない……この私が、王命に従うなど――この屈辱、どうしてくれようか!!」
狂気を孕んだように叫ぶ彼女は、自らの装飾品を引きちぎると、それを――耳に突き刺した。
「!? まさか――!」
「これで、音は聞こえなくなった! 声なき命令など、通じるものか!!」
彼女の叫びが、赤い血と共に断ち切られる。
だが、その瞬間――水無月の声は、彼女の“中”から響いた。
「……馬鹿ね。これは耳に聞かせてるんじゃないの」
《祝福者》の目が見開かれる。
「魂に響かせてるのよ」
水無月は静かに、しかし厳かに最後の命令を下す。
「今度こそ――我、汝に安眠を命ず」
世界が、静かになった。
《祝福者》の身体が、まるで糸が切れたように、地面に崩れ落ちる。
意識は、そこで完全に断たれた。
水無月は、静かに吐息を漏らす。
「……あと、何年分……残ってるのかしらね」
『虚空の旋律』は何も答えず、ただ紙面を閉じた。
2036年7月6日 午後3時15分
狗飼は、グラウンドの奥から聞こえてきた衝撃音と魔力の震えに、ため息をひとつ漏らした。
「……なぁんだ。まだあーくんが来てないのに、終わっちゃった」
芝の上に腰掛け、傘をくるくると回しながら、狗飼は呟く。
「どうしようかなぁ。今回はふぅちゃんがピンチになって、あーくんが颯爽と助けて……って筋書きだったのにぃ……」
歯噛みしたくなる。実際、ほんの少し噛んでしまった。
――なのに。
「……ふぅちゃん、なんであの魔本で乗り切ってるのよ」
狗飼の視線は、虚空の一点に向けられていた。そこには何もない。ただ、“腑に落ちない”という感情だけが渦巻いている。
「ねぇ……わたくし、もしかして勘違いしてた?」
頬に指をあて、首を傾げる仕草はかわいらしいものだったが、その声色にはどこか澱んだものが滲んでいる。
「今まで、てっきりあの魔本は“ふぅちゃんに試練を課して”、それを彼女自身に乗り越えさせようとしてるって思ってたの。で、ふぅちゃんの成長に期待する……そんな演出家気取りの魔本かと思ってた」
だが――違う。
違った。
「“課した試練を、魔本の力で乗り越えさせるために、ふぅちゃんに試練を与えてる”……? それってさ――」
唇が震えた。言葉にするのが、ひどく嫌だったからだ。
「とんだマッチポンプじゃない。詐欺じゃない。悪徳商法極まりないじゃないの!!」
声が出た。芝に跳ねた叫びが、遠くで何かを振り向かせたかもしれない。
狗飼は立ち上がり、両手を腰に当てて吐き捨てる。
「ふぅちゃんってば、とんだ詐欺師に引っかかってるじゃない……! なにあれ! “8年と3か月が対価”? どういう意味よ、それって!」
足元を蹴り飛ばすように踏み鳴らす。
「寿命? 記憶? 何を持っていかれてるか知らないけど――ふぅちゃんから“そんな大切なもの”を勝手に奪うなんて、わたくし的にアウトです!!」
怒気は燃え盛るように静かで、熱かった。
「……これは、わたくしへの宣戦布告ですわね?」
狗飼は、にこりと笑った。その笑みは、怒りと闘志を内包する“決意の顔”だった。
「だったらいいわ。『虚空の旋律』、覚えてらっしゃい?」
傘をパチンとたたむ。
「ふぅちゃんを試練に巻き込むなんて、いい度胸じゃない……。その試練、全部ひっくり返してあげるから」
その時、狗飼の瞳は冗談ひとつ浮かべていなかった。
本気の狗飼朱音は、恐ろしい。
それを知るのは、まだこれからである。




