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Replica  作者: 根岸重玄
競技大会編
140/286

神命と王命

 

 2036年7月6日午後3時8分


 水無月(みなづき)は、《祝福者(ベネディクタ)》を睨みつけていた。

 先ほどまで聖句を封じ完全に優位に立っていたはずだが、歯車が狂ったのは次の命令を発したときであった。


我、汝に伏臥を命ず(ぶったおれろ)

「神に仕える我が身が、これ以上王の命に従うわけにはいきません」


 ドミニカ=フィデース。《祝福者(ベネディクタ)》の名を持つ聖魔教の司祭は、穏やかな顔を崩さぬまま、即答で命令を退けた。

 自分の《王宮勅令(おうきゅうちょくれい)》が、効かなかった。

 思い出すのは、辰上(たつかみ)とのやり取り。


『……ふん。王たるこの俺に命令とは、翡翠(ひすい)

 どういうつもりだ?』


 《王宮勅令(おうきゅうちょくれい)》――それは対象の“立場”に応じた命令を強制する術式だ。

 だが、あまりにも強い“意志”を持つ者は、それすら跳ね返すことができる。

 そして、ドミニカの信仰心は、まさにその領域にあった。

 水無月(みなづき)は舌打ちする。


(……効かない。強すぎる意志には通じない。

 アタシの切り札が通じない相手……!)


 しかし、《祝福者(ベネディクタ)》は一切の容赦を見せない。


「神はかく語りき――氷塊(ひょうかい)よ、降り注げ」


 空が割れた。

 上空から落ちてくるのは、まるで彗星(すいせい)のような直径3メートル級の氷塊(ひょうかい)

 一つでも直撃すれば、ただでは済まない。

 だが――


「甘いっ!」


 水無月(みなづき)は、軽やかに、そして立体的に跳ねた。

 まるで空間にステップでも存在するかのような自由な三次元機動。

 昨日の障害物競走で見せた応用力が、再び発揮される。

 氷塊は一つも命中しなかった。

 それでも、《祝福者(ベネディクタ)》は追撃を緩めない。


「神はかく語りき――空気よ、拘束具と化せ」


 今度は見えない“空気”が、水無月(みなづき)を包囲するように歪んでいく。

 見えず、触れず、ただ身体の周囲の動きが縛られていく――

 だがその瞬間、爆音が響いた。


「ッッ!?」


 水無月(みなづき)の体操服――その正体である魔導書『虚空の旋律(コクウノシラベ)』が、周囲に魔力を爆発的に放出したのだ。

 無数の干渉波が周囲の空気圧の魔術構造を一気に乱す。

 拘束は、発動前に解除された。


「……ありがとう。だけど、マジでキツイ」


 呼吸を整えながら、水無月(みなづき)は呟く。

 強がってはいるが、消耗は明らかだった。


「ねえ、他に……何か打つ手は?」


 答えは、すぐに返ってきた。


「あるでぇ、とっておきのがな。ホンマは教えたくなかったけど、今の嬢ちゃんには必要かもしれんわ」


 水無月(みなづき)の瞳が細められる。


「……どんな手?」


 焦燥と覚悟を込めて、水無月(みなづき)は問いかけた。

 待ってましたとばかりに、彼女の体操服の“内側”――

 魔導書《虚空の旋律(コクウノシラベ)》の本体たる漆黒の魔本が、音もなく姿を現す。


「なぁに、簡単や、嬢ちゃん」


 ページが自動的に捲られていく。空白だった紙面に、魔力の筆跡が走る。


「今からここに嬢ちゃんの詠唱を書き出す。それを唱えるだけや」

「対価は何? どうせ、取るんでしょ」


 目を細める水無月(みなづき)に、魔本はにやりと笑った気がした。


「もちろんや。ワイらの契約は等価交換やからな。……詠唱を授ける対価は、実に8年と3か月や」


 水無月(みなづき)は一瞬だけ躊躇する――しかし、すぐに頷く。


「……いいわ。持っていきなさい。アタシの8年と3か月」

「毎度ありやで。後払いっちゅうことで、ほれ。これが嬢ちゃんの詠唱や。効果は――折り紙付きやで」


 魔本のページに現れたのは、力強く、そして荘厳な“言葉”。

 水無月(みなづき)は躊躇なくその詠唱を唱え始める。

 まるで初めから知っていた言葉のように。


「“私は(かつ)て、人を統べ、国を治めるための言葉どうぐであった”」

「“しかし、私は最早、言葉どうぐに非ず”」

「“我が言葉は大衆に響き渡り、森羅万象(しんらばんしょう)――言霊纏(ことだままと)う”」

「“故に、我が意をもって問おう、『()彼也(がれなり)や』と”」

「“具現化せよ我が王威――《王宮勅令(おうきゅうちょくれい)》”」


 それは水無月(みなづき)の“言葉を届けたい”という願いと、誰もが心のどこかでもっている“声を聞き届けたい”という願いが交差することで成立する篏合魔術かんごうまじゅつ

 それは《祝福者(ベネディクタ)》であっても例外ではない。彼女もまた信徒の声を聞き届けなければならない立場だからである。

 この瞬間――水無月(みなづき)の言葉は、距離も、拒絶も、超越した。

 そして、《祝福者(ベネディクタ)》に向かって、命令を下す。


我、汝に入眠を命ずそこでねてなさい


 《祝福者(ベネディクタ)》ドミニカ=フィデースの身体が、一瞬揺れる。


「ありえない、ありえない……この私が、王命に従うなど――この屈辱、どうしてくれようか!!」


 狂気を孕んだように叫ぶ彼女は、自らの装飾品を引きちぎると、それを――耳に突き刺した。


「!? まさか――!」

「これで、音は聞こえなくなった! 声なき命令など、通じるものか!!」


 彼女の叫びが、赤い血と共に断ち切られる。

 だが、その瞬間――水無月(みなづき)の声は、彼女の“中”から響いた。


「……馬鹿ね。これは耳に聞かせてるんじゃないの」


 《祝福者(ベネディクタ)》の目が見開かれる。


「魂に響かせてるのよ」


 水無月(みなづき)は静かに、しかし厳かに最後の命令を下す。


「今度こそ――我、汝に安眠を命ずおやすみなさい


 世界が、静かになった。

 《祝福者(ベネディクタ)》の身体が、まるで糸が切れたように、地面に崩れ落ちる。

 意識は、そこで完全に断たれた。

 水無月(みなづき)は、静かに吐息を漏らす。


「……あと、何年分……残ってるのかしらね」


虚空の旋律(コクウノシラベ)』は何も答えず、ただ紙面を閉じた。


 2036年7月6日 午後3時15分


 狗飼(いぬかい)は、グラウンドの奥から聞こえてきた衝撃音と魔力の震えに、ため息をひとつ漏らした。


「……なぁんだ。まだあーくんが来てないのに、終わっちゃった」


 芝の上に腰掛け、傘をくるくると回しながら、狗飼(いぬかい)は呟く。


「どうしようかなぁ。今回はふぅちゃんがピンチになって、あーくんが颯爽と助けて……って筋書きだったのにぃ……」


 歯噛みしたくなる。実際、ほんの少し噛んでしまった。

 ――なのに。


「……ふぅちゃん、なんであの魔本で乗り切ってるのよ」


 狗飼(いぬかい)の視線は、虚空の一点に向けられていた。そこには何もない。ただ、“腑に落ちない”という感情だけが渦巻いている。


「ねぇ……わたくし、もしかして勘違いしてた?」


 頬に指をあて、首を傾げる仕草はかわいらしいものだったが、その声色にはどこか(よど)んだものが(にじ)んでいる。


「今まで、てっきりあの魔本は“ふぅちゃんに試練を課して”、それを彼女自身に乗り越えさせようとしてるって思ってたの。で、ふぅちゃんの成長に期待する……そんな演出家気取りの魔本かと思ってた」


 だが――違う。

 違った。


「“課した試練を、魔本の力で乗り越えさせるために、ふぅちゃんに試練を与えてる”……? それってさ――」


 唇が震えた。言葉にするのが、ひどく嫌だったからだ。


「とんだマッチポンプじゃない。詐欺じゃない。悪徳商法極まりないじゃないの!!」


 声が出た。芝に跳ねた叫びが、遠くで何かを振り向かせたかもしれない。

 狗飼(いぬかい)は立ち上がり、両手を腰に当てて吐き捨てる。


「ふぅちゃんってば、とんだ詐欺師に引っかかってるじゃない……! なにあれ! “8年と3か月が対価”? どういう意味よ、それって!」


 足元を蹴り飛ばすように踏み鳴らす。


「寿命? 記憶? 何を持っていかれてるか知らないけど――ふぅちゃんから“そんな大切なもの”を勝手に奪うなんて、わたくし的にアウトです!!」


 怒気は燃え盛るように静かで、熱かった。


「……これは、わたくしへの宣戦布告ですわね?」


 狗飼(いぬかい)は、にこりと笑った。その笑みは、怒りと闘志を内包する“決意の顔”だった。


「だったらいいわ。『虚空の旋律(コクウノシラベ)』、覚えてらっしゃい?」


 傘をパチンとたたむ。


「ふぅちゃんを試練に巻き込むなんて、いい度胸じゃない……。その試練、全部ひっくり返してあげるから」


 その時、狗飼(いぬかい)の瞳は冗談ひとつ浮かべていなかった。

 本気の狗飼(いぬかい)朱音(あかね)は、恐ろしい。

 それを知るのは、まだこれからである。

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