誓約
2036年6月6日午後12時07分
(まずい。体がいうことを利かない)
天乃の肉体は意志とは無関係に建物の端に向かって歩いている。
このままでは遠からず,飛び降りてしまうだろう。
(あの野郎,絶対後悔させてやる)
似姿はニヤニヤと嫌な笑いを顔に張り付けて天乃の様子をうかがっている。
――いや興味深い対象を観察しているというべきかもしれない。
天乃は必死で生き残る術を考える。
(ここは10階建てのマンションより高い。
いくら魔術による補正があるとしても,普通に飛び降りたらまず助からない。
生きていたらまた会おうだと? どうやって生き延びろってんだ)
身体があと数歩で建物の端に到達する。
考える時間はもう残されていない。
そのとき,天乃はあることを思いつく。
(飛び降りればいいんだろう?
アイツは地面に落ちろとは言わなかった。だったらできるはず)
天乃は明確にとある場所に飛び降りるイメージをする。
すると,全くいうことの利かなかった身体がその方向に向かって走り出す。
(やっぱり。最終的に飛び降りるなら,そこまではある程度の裁量がある)
「ほぉ,気ぃついたか。
ほんなら,この哀れな嬢ちゃんを救ってみろや」
「うおおおぉぉ」
天乃は助走をつけて建物の端から踏み切り,勢いよく飛び降りる。
――隣の10階建てのマンションの屋上に向かって。
ドン,と両脚から屋上に着地した天乃はそのまま体を回転させ,勢いを殺していく。
「がはっ,やっぱり痛くねぇ。が,心臓には悪かったな」
天乃は辺りを見回し,地上へと続く階段を探す。
しかし,屋上の入り口であると思われる扉には鍵がかかっていた。
(そうだよなぁ,普通開いてないか。
さて,どうやって向こうに渡るかだな)
そのとき,天乃はとある一つの考えが浮かんでいた。
(いやいや,ないって。無理だろう。
登ってきた道を逆に降りようとか,正気の沙汰じゃねぇよ。
――でも,それが手っ取り早いか)
天乃は,このマンションに登ってきたところからフェンス越しに下を眺める。
(ここからフェンスを越えて。
あそこにぶら下がって。
あのベランダの手すりに着地して。
着地した手すりにぶら下がってその下の階のベランダの手すりに着地する。
――これを繰り返す。ってマジ?
1回踏み外したら即アウトかぁ。やりたくねぇなぁ)
そう思いつつも,既に天乃は屋上のフェンスに手をかけていた。
「やるか」
天乃は,決意さえ固まれば後はどうとでもなるということを学んだ。
約10分後,天乃は来た道を逆向きに帰るように,10階建てのマンションの屋上から地上に帰還していた。
(やればできるもんだな。進んでやりたいとは思わないけど。
さて,あとは水無月のところに戻るか)
天乃が水無月のいる建物の屋上に上がろうと道を探していると,上空から声をかけられた。
「いた! アンタ,こんなとこで何してんのよ!」
その声に天乃が上を見ようとすると,
「『我,汝に伏臥を命ず。』!」
という声が聞こえ,天乃は頭から地面に叩きつけられる。
「がはっ。いっ,たくはないけど,何すんだよ」
ガバッと起き上がった天乃は,上空から舞い降りるように着地した水無月に文句を言う。
「うっ,だ,だって……
見えちゃうじゃないスカートの中が」
「そ,れは。俺が悪いのか? 照れ隠しで許される範疇なのか?」
(というか今までも,ちょくちょく見え隠れしていた気がするんですが。
それは黙っておいた方がいいんだろうな)
「いいでしょ,ちょっとくらい。痛くないんだし。
それより,アンタ,何でこんなとこにいるのよ! 探したじゃない」
「それは――まぁ,今はいい。とりあえず,この《結界》から脱出しようぜ」
天乃は,『虚空の旋律』とのやりとりを話すべきかとも考えたが,都合の悪い話をしようとすると,また水無月が気絶させられかねないと考え,一旦保留することにした。
「待って」
水無月は緊張した面持ちで天乃を呼び止める。
「アタシが,アンタを探していたのは,その。
……お別れを,ゆうためなの」
「水無月?」
「今日は,その,アタシの事情にも巻き込んじゃったみたいで,ゴメンね。
わけわかんないよね。魔導書とか。こんな体の理由とか」
「オマエ,『虚空の旋律』から何か聞いたのか」
「アンタに全部話したって。
それで,アンタは,こんなアタシを助けようとしてくれてるって。
でも,アタシは,少なくともまだ,あの魔導書を手放すわけにはいかないの」
「待てよ。あれは,オマエの魂を喰ってるとか言ってたぞ。
そんなもん,いいわけないだろうが」
「そうよ。アタシは,自分の意志でそうしてるの。
だから,アンタの価値観で,アタシを助けようとか考えないで。
このまま放っておいて」
「そんなこと――」
「難しいよねっ。
アンタの性格なんとなくわかる。似てる人を知ってるから。
だから,バイバイ。
『我,汝に我が存在の忘却を命ず』」
「水無月!? うっ」
天乃はそう叫ぶとそのまま頭を抱えて蹲る。
「ゴメンね」
そう言って立ち去ろうする水無月の肩を後ろから天乃が掴む。
「待てよ,水無月。まだ,終わっちゃいないぜ?」
その言葉に水無月は驚愕する。
「どうして!? アンタは,アタシの術式が効き易い体質のはず!?」
「さぁな。オレにもわかんねぇよ。
でも,なぜかオマエのことは忘れちゃいないぜ」
「なんで?
『我,汝に忘却を命ず』!」
「……効かないなぁ。全部覚えてるよ,オマエのこと」
「どうなってるの? 説明しなさい!!」
「そんなこと言われても……」
天乃が困惑気味に言葉を返すが,水無月の目線は天乃ではなく,自分の制服に向いていることに気付く。
次の瞬間,水無月の制服の方から『虚空の旋律』の声が聞こえた。
「あははははは。アンさん,そういえば記憶喪失やったな?
それって魔術が原因とかか?」
「テメェ。さっきはよくも殺しかけてくれたな」
「え? どうゆうこと? 殺しかけたって?」
「なんや。細かいことは気にすんなや。ちょっとしたじゃれ合いみたいなもんやん。
それで? どないなん?」
「そうだよ。魔術性健忘だってよ」
「……ふーん,さようか。珍しい術式やな。ワイも見たことないわ。そんなもん。
でも,わかったで,嬢ちゃん。少年の記憶が消えへんのはどうもその術式と衝突するせいやわ。
既に記憶を消している以上,これ以上は消せんってことやな」
「つまり,なんなの。
コイツにはとんでもない記憶喪失術式が常設してて,それがアタシの術式を弾いたって理解でいいのね?」
「せやな。ちなみにワイの能力を全力で使っても外せんな,その術式は」
「はぁ? なんですって!?」
「落ち着けや嬢ちゃん。なにもワイに限ったことやない。これは基本的にどんな術式でも外せん。
そうゆうふうに出来とる」
「どういう意味?」
水無月がコテンと首をかしげる。
「神の仕掛けやで,これは」
「神の仕掛け?」
「あるんや,世の中には。神の術式が。ワイも見んのは3度目や。
とゆうか嬢ちゃんも見たんとちゃうんか? 世界の穴を」
「まさか……コイツの頭に常設してる術式は,世界に穴を開け続けてる術式と同等ってこと!?」
「せや。過去に見た神の術式と類似点がある」
「なぁ,今さらっととんでもないこと言わなかったか?
世界の穴を開けたのは神の術式?
それが,オレの記憶を消してる正体?」
ここにきて,今まで放置されていた天乃が声をあげる。
「あっ,コイツと喋ってるといつものノリで――アンタがいること忘れてたわ」
「ワイは覚えとったけどな。
まぁ,ええやないか。いずれにしろ,これでできたやろ?
少年を殺す理由が」
「いやよ。ゆってるでしょ? アタシは殺しはしない」
「なんでや? 面倒やろ? 記憶が消せんのやったら,始末するしかないやん,普通」
「い・や!」
「じゃあ,どないするん? 結構知られたら拙いこと喋ったで? ワイ」
「それは――」
「オレが黙ってれば済む話だろ? それか,テメェを水無月から引き剥がせば済む話だ」
天乃が,すぐにでも後者を実行しようとする構えを見せる。
「おっ,その手があるやん」
「へ?」
「ふぇ?」
「誓約ってゆうてな。古くから使われとる魔術や。
普段から強制系しか使わんからすっかり忘れとった。
これで,少年には秘密を黙っててもらえばええやん」
「アタシ,《王宮勅令》しか使えないんですけど」
水無月がふてくされるように口を尖らせる。
「大丈夫や。誓約は契約の一種でもある。ワイが補助すればできるで」
「なんだ,その誓約ってのは」
「まぁ,アンさんが嬢ちゃんの秘密を守ると誓えば成立や。基本的にはな」
「そのくらいなら,問題ない」
「ほな,声に出して誓うてもらおか」
「えーっと,天乃慎は,水無月風華の秘密を守ると誓います」
「ほな,誓いのキスを」
「――……」
「ふぇ?」
天乃は絶句し,水無月は変な声を出している。
「どうぞ」
天乃には,『虚空の旋律』に顔があればおそらくあのニヤニヤ笑いをしていたであろうと推察できた。
「ちょっと待ちなさいよ。聞いてないわよ,そんなの」
「諦めろ,水無月。こういうやつだ,コイツは」
そう言って,天乃は水無月の頤に手を伸ばし,そのまま水無月の顔を天乃の方に向ける。
「ちょっとアンタも何で普通に乗り気なのよ。おかしいわよ,絶対」
水無月は顔を真っ赤にしながら抵抗しようとするが,上半身はピクリとも動かなかった。
「こら,バカ本! アンタ何アタシを拘束してんよ。放しなさい。
天乃も! もし勝手にしたらどうなるかわかってるでしょうね!」
「落ち着け。要は,オレがオマエにキスすればいいんだ。
場所の指定はない」
そういって,天乃は屈みながら,水無月の額に口を付ける。
水無月は顔を真っ赤にしたまま,その場にへたり込むように膝をついていた。
「なんや,少年。せっかく美少女とキスできるチャンスを自分で捨ておってからに。
つまらんのぉ」
「美少女ってのは否定しないが,オマエに踊らされるのが,1番むかつくんだよ。
それで? 誓約は成功したのか?」
「多分な。なんせ,ワイも初めて使うたからな。
まぁ,ちぃと実験せんとあかんやろな。なんか嬢ちゃんの秘密をしゃべってみぃ」
天乃は少し考えると,
「……今日の下着の色は青っぽい――」
「『我,汝に伏臥を命ず』!」
そのまま顔面から地面に激突する。
「サイテー! ほんとサイテー!!」
「今回はちょっと痛かったぞ。まぁ待てよ,水無月。
オレは秘密の範囲がどこまでを指すのか検証してみたくてだな」
「それでもいきなりゆう!? さっき無理矢理キスした女の子の下着の色とか!?」
「それは……配慮に欠けてましたごめんなさい」
「それに,場所の指定がないならあんな紛らわしいことしないで手の甲とかにしなさいよ!」
「それは,そうだな。思いつかなかった」
「あははは,少年。結構おもろいやん,自分。
なんや,ただの真面目君ってわけでもないんやな」
「検証したかったのは本当だ。だが,まずは本命からいくべきだったな。
水無月風華は――――――。だめだな。言葉が出ない。
――――って言おうとしただけなのに」
「成功してるみたいやな。ほな,後は若いお二人に任せて,ワイはもう黙っとくんで」
「――それで? 何かゆうことはないの?」
「いろいろと調子に乗ってましたごめんなさい」
「まぁ,いいわ。それで今回の件は許すことにする。だから2度と蒸し返さないように」
「了解」
「とりあえず,アンタを雹霞姉のとこにつれていくわ」
「あぁ,病院の先生の話だと,水無月って人が迎えに来る予定だったとか。それがオマエのお姉さんだとはな。世間は狭いよな」
「……そうね。じゃあ,ついてきなさい」