虚空の旋律
2036年6月6日午前11時45分
天乃は水無月を踏みつけにする中年男を睨み付ける。
「ははは。大丈夫。
こう見えてワイの体重はゼロ。
アンさんと会話するためだけのただの似姿やから。
ただなぁ,これを保つんも嬢ちゃんと体の一部を接しとる必要があるんや」
「だからって踏みつけるのは絵面的に最低だろう」
「ふぅ,あんま無駄話してる時間はないんや。ちゃっちゃといこうで」
中年の似姿が水無月に接するようにその場に腰掛け,取り払った上着を水無月にかける。
「まぁ,座れや,少年」
中年姿の似姿は胡坐をかき,天乃に声をかける。
天乃は,座るべきかを考え,躊躇していると,「座れ,小僧」という冷たい声が聞こえた。
次の瞬間,天乃はその意思とは関係なく,正座していた。
(水無月の《王宮勅令》と同じものか!?)
「すまんのぉ。アンさんがのんびりしとったからつい急かしてもうたわ」
その声は先程の命令とは明らかに異なる雰囲気であったが,天乃は臆することなく脚を崩して胡坐をかき,先に切り出す。
「……オマエが水無月に寄生しているモノってことでいいんだな」
「寄生ねぇ。アンさんにはそう見えるかもなぁ。
ただし,真実は共依存や。
ワイは嬢ちゃんが必要やし,嬢ちゃんにもワイが必要なんや」
「そうは思えないがな?」
「ほぉ,なんでや?」
「知ってるか?
水無月の魔力は鮮やかな赤色をしているんだよ。
オマエはくすんだ緋色だ。
オレは水無月が飛んでいる姿を見たが,オマエの色は一切混じってなかったよ」
「なるほどのぉ,色で魔力の発生源まで見分けんのか,その魔眼。
おもろいやないか」
「それだけじゃない。
オマエの色はさっきまで一切見えなかった。
屋上でオレたちが話し始めた後くらいだ。
急にオマエの色が水無月の何かを喰らい始めたのは」
「誤解を解こか。せやなぁ,まずはワイの正体から語ろか。
ワイは魔導書『虚空の旋律』ゆうもんや。
魔導書は知っとるかな? 記憶喪失の少年」
「確か,魔術を後世に伝えるための写本だろう?」
「浅いのぉ。それだけじゃないんや。
この世には禁書と呼ばれる類いの魔導書がある。ワイもその中の1冊や。
この嬢ちゃんが自ら求め,自ら封印を破った逸品や。
ワイは持ち主に魔力を与え,元来の力を増幅させる役目を担うとる」
「どういうことだ? 魔術の継承を行うのじゃないのか?
いや,そもそも魔導書がなぜ会話している?
聞いた限り,魔導書とはそんなものではなかったはずだが」
「魔導書ってゆうてもピンキリや。
アンさんがゆうとんのは,一般的な魔導書の話やろ?
ワイはこのとおり,とある人間の人格をそのまま案内役・指南役としてコピーしたれっきとした魔導書なんや」
「案内役・指南役?」
「そう,この魔導書『虚空の旋律』は他の魔導書とは用途がまるっきり違うねん。
だからこそ,ワイのような使い方を案内し,指南する役目が必要やったんや。
そうでないと,使い方のさっぱりわからんもんになりかねんかったんでのぉ」
「用途が違う?」
「そうや。
さっきもゆうたとおり,ワイの用途は持ち主に魔力を与え,元来の力を増幅させるもんや。
その際の許容量をはるかに超える力の引き出し方,使い方なんてもんは指南役がおらんと使いこなせるもんと違うねんで?
魔術を使えんアンさんにはわかり辛いかもしれへんけどな」
確かに,魔術を扱えない天乃では感覚は掴めないが,目の前の似姿が言わんとすることはなんとなくわかる。
「禁書ってのはなんだ」
「禁書はその名のとおり,使用を禁止されとる魔導書のことや。
戦略級魔術を与える代わりに1発で術者が死ぬ本とか。
開くと術者の人格を乗っ取って悪さするもんとかいろいろある」
「今までの話からすると,オマエが禁書扱いされる理由がわからないな」
「それは簡単や。
ゆうたやろ? ワイは,とある人間の人格をそのままコピーして作成されたって。
その基となった人格の持ち主がこれまたとんでもない奴でのぉ。
魔術を使こうて22人もの人間を殺害した極悪犯やねん」
「……なるほどな。それにしても,ずいぶん他人事じゃないか。
オマエ自身の話じゃないのか?」
「違う違う。
ワイは確かにその極悪犯の人格をコピーして作成されたもんやけど,ワイの作成時期は奴が犯行に及んだ5年以上も前や。
その時点のワイにはなんで元人格が22人もの人間を殺したんかはサッパリわからへんねん。
その5年の間に何かあったとしか考えられへん。
……ってゆうたんやけどなぁ。
とりあえず危険ってことで禁書指定されてん」
「禁書指定した奴は賢明だったと思うけどな」
「なんでや?」
似姿はニヤニヤと嫌な笑みを顔に張り付けて天乃に訊き返す。
「……理由は,ある。まず,オマエの使用用途そのものが不明だ。
魔術の継承を行うはずの魔導書の仕組みを使って,なぜそんな用途不明の魔導書を作ったのか,そこが明らかではない」
「用途はゆうたやろ? 魔力増幅や」
「あまり馬鹿にしないでもらおうか。オレは魔力の流れが見える。
それも,人によって使っている魔力の色が違うことも見えている。
オマエの魔力は何色にも染まっていない。
つまり,そもそもオマエと波長の合う人間にしか使えない設計じゃねぇか」
「波長が合うねぇ。アンさん風にゆうなら,色が似とるってことやろ?
それは,ワイの作成された時期を考慮すれば当然やろ?
そもそも,禁書指定されとる魔導書は1冊を除いて全て,今から60年以上前に作られたもんや。
つまり,魔術が神秘やった時代のもんなんやで。
ワイかて100年物や。
その時代はな,魔術は血,血統こそ優性と考えられとったんや。
そんで,血族は自然と似た波長になる。
だから,血族のために血族専用の増幅装置を作ったかて何の不思議もあらへんがな」
「なるほど,そっちにはそういう理由があるのか。
では,こっちはどうだ? オマエ,何を糧に起動している?」
「そんなもん……あぁ,なるほどのぉ。これは痛いとこ突かれたわ」
似姿は今までの淀みない答えとは違い,この質問には明らかに答えに窮している様子がうかがえた。
「そう,オマエは魔力を糧に動いているわけではない。
オレの目で見たから,間違いないんだよ,そこは」
「なるほどのぉ,アンさんには見えとったか。これは参ったのぉ,それで食人鬼か。
ははは,言い得て妙やな。えぇやろ,アンさんには教えたる。
ワイはのぉ,魂喰らいなんや」
「魂喰らい?」
「そう。簡単にゆうと,ワイは嬢ちゃんの成長する魂を喰っとる。
見てみぃ,この嬢ちゃんの身体を。12歳のころから全く成長しとらん。
この嬢ちゃんは間違いなく今年で16歳や。
つまり,ワイは嬢ちゃんの一番の成長期をまるごと頂いとるわけやな」
「そんなこと――」
「許されるはずがないって? ゆうたやろ? 共依存や。
このことは嬢ちゃんも了承しとる。
それどころか,喜んでワイに魂を捧げとるんや」
「それはなぜ?」
「それは回答しかねるなぁ。嬢ちゃんに直接訊けや。答えてくれんとは思うがのぉ」
「そうか。水無月の事情なら,水無月が解決すべきだと思う」
「ほな,ワイはこれでええか?
あんまり表に出てると疲れるんや」
「最後に1つ,いいか?」
「なんや? 手短にな」
「オマエが魂を喰える条件は何だ?
魔術師は他の魔術師と協働する際,契約を重視すると聞いた。
何かの対価なんだろう?」
「それを教える義理はないが,まぁ,ええやろ。教えたる。
勿論,ワイの力を使ったとき,正確には使おうとしたときや」
次の瞬間,力の限り振りぬかれた天乃の拳が似姿の顔面をすり抜ける。似姿は涼しい顔でそれを避けようともしなかった。
「オマエ,水無月をわざとここに連れてきただろう!?
この《結界》を感知して,本人の意思を曲げて,水無月にオマエの力を使わせるために!」
「それをアンさんが非難するか?
嬢ちゃんに――延いてはワイに命を救われたアンさんが」
「オレには,何か別の目的があるように思えるぞ。オマエには,水無月に話していない何かがあるな」
「根拠薄弱。勘だけで証拠はないな。いや,正確には,『観』かな?
それに,仮に目的が別にあろうとも,嬢ちゃんはワイを手放せやん事情がある」
「そうかよ。オレはどうやら相当のお節介みたいだぜ。
そんな水無月を何とかしてやりたくなった」
「そうかい。そんなら,アンさんにヒントをやろう。
生きとったらまた会おうやないか。
飛び降りろ,小僧。小賢しい」
「はぁ?」
天乃は,気づいた時には建物の端に向かって歩き出していた。