梅雨を打つ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うん、雨の日はビデオ鑑賞会に限るな。雨音を聞きながら、寝転がって溜めておいたドラマを一気に観る……月末の楽しみだね、こりゃ。
一週間ごとに流れが切れちゃうより、立て続けに見た方が、溜飲が下がっていい感じだ。リアルタイムでテレビが見られないのは残念だが、これはこれで……って、おいおいおい。今の見たか、こーちゃん。
この雨の中を、ランニングシャツと短パンで走り去っていったよね、今の人。外に出るのも億劫だっていうのに、カッパすら身に着けないとは……どんだけ情熱燃やしてんだよ。体の冷えになんか、負けないってか? 心頭滅却すれば、雨もまた暖かしってか?
あれ、もはや修行だろ。一体何が楽しくて、自分の身体を痛めつけるんだ?
……と、少し前の俺だったら、思ったかも知れない。だが、雨の中だからこそ、できることがある、という話を聞いたぜ。あの人が当てはまるかは分からないけどな。
一つ、こーちゃんもネタだと思って、聞いてみない?
江戸時代の半ば。各地の剣術道場では、袋竹刀を持ち、防具をつけて打ち合うという、現在の剣道の基になる打ち込み稽古が生まれた。しかしこれは、従来の剣術とは違う、竹刀術とでもいうべき、新しい技術を生むことにもなった。
今風にたとえれば、剣術は、生死が常に背後にある戦闘用技術。竹刀術は、勝敗が常に背後にある試合用技術。求めるものが異なる両者が、時と共に、少しずつかけ離れたものとなっていくのは、しかたのないことだったと言える。
その中でも、独自の技術を伝え続けた、一つの流派が存在したんだ。
その道場では、古来より伝わる形稽古と、防具をつけた打ち込み稽古の双方を採り入れていた。門人の希望によって選択ができ、中には二つとも学ぶという人も存在したようだ。しかし、共通した基礎技術が三つある。
一つ目。強健な手首。
どのように勢いよく剣を振り下ろしたとしても、目標の位置でピタリと止めることができる、手首の絞り込みが求められた。
二つ目。剣閃の速さ。剣に速さを要求される。
並みの者では目にも止まらない速さ。反応できない速さ。それを手首の強さでもって、自在に操れるようにすること。
素振りの時は、重りをつけたものが使用された。特に師範は、大人が束にならないと持てない重さの大木刀を、片手で振るい、寸止めも思うがままだったという。
三つ目。優れた動体視力。特に飛来する物体に対しての反応を、高めることが促される。
袋竹刀を持ち、高所から投げつけられる石を、叩き落していくんだ。更に慣れてくると、白い石と黒い石が次々に投げつけられ、黒い石のみをさばくということもやらされた。
これは流派の開祖が戦国時代に、戦場で降り注いだ、ハチの巣必至の矢の雨を、次から次に切り落としてしのぎ、命を拾ったという逸話に基づく技とのことだった。
ただ、一つ目や二つ目はともかく、三つ目の稽古に関しては、門下生の中でも賛否両論。
「剣は曲芸ではない」と言って、道場を去っていく者もいたらしい。
やがて梅雨が訪れた。
外出中だった門下生の一人は、突然の雨に降られて、たまたま近くにあった、道場の軒先に駆け込んだ。ほどなく道場の引き戸が開き、中から例の大木刀を握った師範が出てくる。
びしょ濡れの門下生を見ると、まず懐から手ぬぐいを出して、頭に乗せた後
「良い機会だ。体を拭きながらでよい。ワシの技、よく見ておれ」
言うやそのまま、叩きつけるような雨の中へ歩み出ていく。笠すらかぶらず、裸足のままで。大木刀は瞬く間に雨にぬれて、全身から絶え間なく水が垂れている。
師範はそれらを意に介した様子もなく、上段に木刀を構え、ぴたりと止まった。門下生が手ぬぐいで顔をこすりながら、見守っていると。
「カキン」と、金属がぶつかるような音がした。師範の構えはいつの間にか中段に変わり、よく見ると一歩踏み出している。いつ変わったのか、分からないくらいの機敏さだった。
この動きは、当流派における形の一つ、仕太刀側のもの。それを師範は、一瞬で行って見せたのだ。数秒間、形通りの残心を取ると、再びゆっくりと木刀を振りかぶる師範。
演武は続いた。時には一太刀。時には連続で太刀を振るう。
いずれも流派の形にのっとった動き。木刀がうなりをあげるたび、あの「カキン、カキン」という金属音が伴うんだ。
それが、小半刻ほど続いただろうか。雨はその降りを弱め、師範は頭上に広がる雲を一瞥すると、これもまた型通りに、そんきょして木刀を納めた。
じっと見入っていた門下生から手ぬぐいを返してもらい、師範は木刀についた水滴を拭い始めた。門下生が音の出どころを尋ねると、師範は先ほど自分が立っていた地面の周りへ、彼を誘った。
師範の足跡の周りに、一文銭ほどの大きさの黒石が、頭をわずかに出した状態で、いくつも埋まっている。触ってみようと手を伸ばした門下生を、師範が止める。
「うかつに触るな。こやつ、爆ぜるぞ」
門下生は思わず飛び下がった。
そして察する。矢を落としたという逸話は、あくまで逸話。これが実態だったのだと。
師範は語った。毎年、この時期の雨には、この黒い石が混じることがある。放っておくと地面に潜り込み、姿を消してしまうが、しばらく経つと町中のどこかに再び現れる。爆発と化して。
原因不明の火事や怪我の一部は、こやつの仕業だと師範は語る。
「切れば爆ぜる。逃しても爆ぜる。だから叩いて眠らせるんじゃ。砕かぬ力加減でな。それがこの流派の形が伝えるものよ。首尾よく行けば、こやつらを周りの土ごと掘りぬいて、川の中にでも放りこむ。でかい水柱が上がるじゃろう」
本来は目録以上の位にしか伝えん役目だ。更に励めよ、と師範に送り出されて、雨が止んだ中を門下生は家に急いだらしい。
あの道場をやめるべきか否か。門下生は迷ったようだが、最終的に続けることに決めた。
元より町人の出である彼。剣術を習い始めたばかりの時は、刀でもって悪を斬り、人を助けるということにも憧れたが、おそらく叶わずに終わるだろう。ならば、師範の仕事を手伝うことが、人助けの願いを果たすことになるのでは、と感じたからだ。
一層、稽古に身を入れるようになった彼は、数年後に目録位に到達する。そして、あの日の師範の話をもう一度、今度は道場内で目録位以上の者たちと一緒に、耳に入れることになった。
初めて聞く者はどよめいたが、彼を含めた、すでに話を聞いていた者は黙っていた。
上位者の中には、片目が潰れていたり、手足の指がそろっていなかったりする者もいて、例の黒石の被害を物語っていたようだ。
「もう間もなく梅雨に入る。例年通り、雨の日には、手分けして町の各所に散れ。敵は多い。全ては防ぎきれるものではない。かといって放っておけるものでもない。奴らを見逃せば、いずれわけもわからぬまま、我らの大切なものが奪われることもあろう。だが、厳しい稽古を耐えた皆ならば、必ずできると信じている。抜ける者は止めはせん。だが、男の気概を見せんと思うなら、それは今ぞ。己が手で、大切なものを守ってみせい」
皆は師範の言葉を胸に、日々稽古に打ち込んだという。
その日。事前に西の空の曇りを見ていた師範は、予め町の各所で待機するよう、皆に言い渡している。
今までの経験で、黒石が降ってくる場所は、いずれも人が集まりづらい墓地や町はずれが多い。この町中にある道場のみが、例外の場所だった。
あの日の門下生は、師範他数人と共に道場に配される。腰に携えた木刀は、数年前よりもはるかに重くなっている。彼の力や体躯もまた、当時よりもずっと大きくなっていた。
昼過ぎ。一斉に雨が降り出して、皆は雨中へと歩み出た。
「稽古を思い出せ。お前たちならば、黒石を見切ることはたやすかろう。だが、あえて言う。無理をするな。形通りに打てぬ場合は、見逃せ。命あっての物種じゃ」
師範が厳命し、門下生たちは次々と、上段の構えを取る。彼もじっと雨粒の中に目をこらす。上を向きすぎてはならない。水に目をやられる。あくまで顔は正面に、瞳だけで空を見上げていた。
――来た。灰色の雨に混じって、黒い玉。
彼は一の形。あの日の師匠が最初に繰り出したものと、同じ形で迎え撃つ。
カキン、と音がし、手がわずかに痺れる。予想以上の手ごたえ。だが、一つを撃ち落としたことで、集中が研ぎ澄まされてくる。
黒石は正面、斜め、横殴りと、風によって様々な向きから吹き寄せる。それを瞬時に、今まで修めた形に当てはめ、叩き伏せる。まったく気が抜けなかった。
背後で悲鳴があがった。ちらりと見やると、同じ目録の門下生が木刀を取り落とし、うずくまっている。その指からは血が流れているが、彼は構わず、握っていた木刀を振るおうとする。
「見逃せ、と言った!」
やや離れた場所で石をあしらっていた師範が声を上げたが、彼の刀は止まらない。
中途半端な斬撃を受けた石は、弾かれるどころか、ぴったりと木刀に張り付いたかと思うと、彼の手元を目がけて、ひとりでにコロコロと勢いよく転がり、その眼の中へ飛び込んで……。
たまらず目を背けた時、更に大きな悲鳴があがり、怖気が走った。
気を抜けば、次は我が身。彼は必死に、されど形を乱さず、石たちを叩き落していく。
雨は半刻ほどで止んだ。例の門下生は、足と右目に包帯を巻き、すでに医者へ担ぎ込まれていた。
師範は真っ先に頭を下げる。力が及ばなかった、と。だが、責める者は現れなかった。疲れと忍び寄る夜の気配ばかりが、色濃くこの場に漂っている。
梅雨が終わる頃には、何人かは道場から姿を消していたらしい。しかし、あの日の師範を見た彼は、生涯、後進の育成に励むと共に、ひっそりと天からの脅威と戦い続けたのだとか。