ルナとリナはいつもいっしょ
玄関のベルを鳴らすと、インターホンから可愛らしい声が返ってきました。
『はーい!』
「おはようございます、マカベ家政婦センターのイズミと申します。家事代行のご依頼を受けて参りました」
『はいはーい!』
お預かりしている合鍵で解錠だけして、しばらく待ちます。やがてドアが開き、中から出てきたのは小さな女の子です。
「はじめまして、イズミです」
「こんにちはー!」
「はい、こんにちは」
何だかこちらまで元気になってきそうなご挨拶。今回のクライアントはこの子のご両親ですが、「変わった子なんですが、どうか上手く合わせてやって下さい」とのこと。今のところそう変わった様子もありませんが……。
女の子についてリビングへ。ちょくちょく振り向いて見せる笑顔が愛くるしいです。それにしても、とても大きなお家です。
「お名前は何ていうんですか」
リビングに続くドアに手をかける女の子に尋ねます。
「ルナ! よんさい!」
「ルナちゃんですね、よろしくお願いします」
クライアントからあらかじめお子さんのプロフィールは伺っていましたが、たとえ子ども相手でも――いえ、子ども相手だからこそ、コミュニケーションは大切です。お世話を仰せつかった身ですから、なおさらに。
「うん! あとね」
リビングの向こう側を指差して、ルナちゃんは、
「あっちがリナおねえちゃん!」
そう言って指差した方に走っていきます。その先には、
「よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
なるほど、と思いました。
元気過ぎるくらいなルナちゃんと、落ち着き過ぎているくらいなリナちゃん。このふたりのお世話は、ちょっと大変なお仕事かもしれません。
家政婦のお仕事は、簡単に言えば家事代行です。クライアントによってご依頼はさまざまですが、今回はクライアントが所用でご不在の間のお留守番と、それに伴うお子さんのお世話がメインで、あとは簡単なお掃除と、それからお洗濯を任されています。
「イズミさん、お手伝いするー」
「はーい、ありがとうございます」
ルナちゃんは、今まで見てきたどんな子よりも人懐っこくて、何をするにも後をついてきます。今はベランダで一緒に洗濯物を干しているところです。お家も大きければベランダも大きくて、真ん中にはテーブルが置いてありました。今は隅に寄せてありますが、あとでお茶会にするのもいいかもしれません。
「次はこれをお願いします」
「はーい」
子どもなので手際はそれなりですが、そこは私が、ルナちゃんに見つからないようにちょっとだけ手直ししてあげます。
「はい、これで終わりです」
「やったー!」
ルナちゃんとハイタッチ。ルナちゃんはそのままリビングに入ります。その先には、
「ルナ、あんまりお手伝いさんを困らせちゃダメだよ」
「はーい……」
ルナちゃんはシュンとしていますが、そんな姿もかわいいです。
そろそろお昼ですから、お食事を作らないといけません。クライアントからは、冷蔵庫にあるものは全て使っていい、必要なものは必要なだけ買い足してもらって構わない、と言付かっています。とは言っても、他人様のお家でそうそう勝手なことは出来ませんから、とりあえずお昼は簡単なものにしようと思います。
「ルナちゃんの好きな食べ物は何ですか?」
「ハンバーグ!」
「じゃあお夕飯はハンバーグにしましょう!」
「わーい!」
挽き肉は冷蔵庫に入っていませんでしたから、お買い物に行く必要がありますね。
「リナちゃんは?」
「シャケ」
「なるほど……」
好みが違うのは意外でした。確かさっき鮭のフレークがありましたから、
「それなら、お昼はシャケのお茶漬けにしますね」
「うん」
早速調理に取りかかりましょう。と言っても、やることは単純です。お米は午前のうちにセットしておきましたから、お湯とおダシ、お茶っ葉を少々、それに海苔と、もちろん鮭フレークを用意して、お茶碗に盛り付けるだけ。
調理中、綺麗なキッチンの隅に飾ってある写真が目に留まりました。ご両親と二人の女の子が、仲良く手を繋ぎながら笑顔で写っている写真。女の子たちは服装も髪型も顔形も同じで、どちらがどちらなのか全く分からないほどよく似た二人です。
「出来ましたよー」
両手にお茶碗を持ってリビングに戻ってから、ふと気付いて、取り皿を持ってきてあげました。
「いただきます!」
「召し上がれ」
「いただきます」
美味しそうに食べてくれて何よりです。
ふたりが眠ったスキを見て、私も休憩を取ります。リビングにも写真がいくつか飾ってあって、そのどれを見ても、家族四人が揃って笑顔で写っていました。契約の際にクライアントとお会いした際の印象よりもお二人が健康そうに見えるのですが、よっぽどお忙しいのでしょうか。
写真の中の二人を見てから、後ろですやすや眠っているふたりに目を向けて、ゆっくり瞼を閉じて、しばらくそのままにしてから、再びゆっくりと開きます。
ルナちゃんとリナちゃんは本当によく似ていて、眠っていると全く区別がつきません。
近くのスーパーに買い出しに向かうと、偶然にも同僚のナツホさんに出会いました。
「お、イズミじゃん。お疲れー」
「お疲れ様です」
「うーん、やっぱ敬語は崩してくれないかぁ」
「ふふふ、職業病ですよ」
ナツホさんはむしろ、家政婦のお仕事をしている割には乱暴な言葉遣いをする方なので、ちょっと心配です。本人が言うには「仕事とプライベートは分けてる」ようですけど……。
「ナツホさんこそ、ずっと苗字でしか呼んでくれないじゃないですか」
「イズミはイズミって感じしかしないんだもん、だって」
「どういうことなんですか、それ」
「さぁ? 分からん」
二人で顔を見合わせて笑います。
「にしても、職業病ねぇ。仕事熱心なのもいいけどさぁ、あんまり気ィ張ってると疲れちゃうよー?」
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫です」
「そうやってひとりで抱え込むところがまた心配なんだけどなぁ」
笑いながらそう言うナツホさんには感謝が絶えません。
「まあ、しばらく会ってなかったし、今度飲みに行こうぜ、二人で」
「ええ」
「よっしゃ、んじゃまた連絡するわー」
手を振ってお別れします。さて、あとは何が必要なんでしたっけ。
お夕飯の準備はルナちゃんも手伝ってくれました。私がタネの空気を抜き、ルナちゃんにそれを渡して形を作ってもらいます。ルナちゃんが出来たタネを並べて、
「こっちがルナのでー」
と真ん丸のものを、
「こっちがリナおねえちゃんの!」
と星の形にしたものを指すので、そうしてあげることにしました。少し小さめにしたので、これくらいなら残さず食べられるでしょう。
ハンバーグは焼き加減が難しく、そして子どものお腹はデリケートなので、今回は念のため煮込みハンバーグにします。ソースを入れたフライパンの中で数分煮込めば、
「完成でーす」
「できたー!」
買い出しの時についでに購入した旗もつけて、お子様ランチ風に。ルナちゃんは大喜びで急いでリビングに向かい、椅子に座って待っています。私はその目の前に、どーんとお皿を置いてあげました。
「リナおねえちゃん、すごいね!」
「そうだね、おいしそう」
リナちゃんにも喜んでもらえているようです。
「いただきます!」
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
子どもが美味しそうにご飯を食べる姿は、何回見ても良いものです。
「ルナ、ブロッコリーいらなーい」
ルナちゃんがそう言って、リナちゃんのお皿にブロッコリーを乗せました。
「好き嫌いはダメだよ、ルナ」
「えー」
どうするのかなとしばらく様子を見ていると、
「はぁ、仕方ないなぁ」
「ありがとー!」
リナちゃんは妹思いの優しい子のようです。でも、次にブロッコリーを出す時は、少し工夫が必要かもしれません。
お皿を洗い終わったところで間もなく十九時、契約してあった終業時刻です。クライアントはたいへん忙しい方々のようで、この時間になってもお帰りにはならず、お給料もあらかじめテーブルの上に置いてありました。「なるべく早く帰るようにしますので、お気になさらずお帰りになって下さい」とのことでしたが……。
「ルナちゃん、リナちゃん、私はそろそろ帰らないといけませんけど、大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ! おねえちゃんもいるし!」
心配ではありますが、ルナちゃんもこう言ってますし、お言葉に甘えて帰ることにします。
「では、失礼します」
「またあしたもくる?」
「はい」
「やったぁ! またあしたねー!」
ルナちゃんは笑顔で見送ってくれます。それから、
「また明日」
リナちゃんも、手を振ってくれました。二人にお辞儀をしてから、そっとドアを閉めます。
上下とも鍵をしっかり施錠して、これで本日のお仕事は終了です。
それから数日、二人のお世話をするうちに、いろいろなことが分かりました。
たとえば、ルナちゃんがおもちゃを散らかすと、
「散らかしちゃダメだよ、ルナ」
そう言いながらリナちゃんが片付けます。ルナちゃんが、
「おねえちゃんもいっしょにあそぼ!」
と誘うと、リナちゃんはたいてい、
「片付けてからね」
余計なおもちゃを片付けてから、二人で遊び始めます。たいていはおままごとで、ルナちゃんがお母さん、リナちゃんがお父さん役。
「『ただいま』」
「『おかえりなさいおとうさん、きょうのごはんはハンバーグですよ!』」
「『やったぁ、嬉しいな』」
何とも微笑ましい会話です。ご両親の真似をしているのでしょうか。
他にも、ベランダでお茶会をした時には、
「ルナはホットミルクがいい!」
「わたしは冷たいのがいい」
こんなところにも好みの差がありました。また、ルナちゃんはクッキーが好きですが、リナちゃんはおせんべいが好きなようです。
フルーツの好みも少し違っていて、ルナちゃんはイチゴが、リナちゃんはリンゴが好きみたいです。特にリナちゃんは、出してあげたリンゴを眺めながら、今まで見せたことのない嬉しそうな表情をしていました。
週末はお休みを頂いて、先日お約束した通り、ナツホさんと居酒屋へ向かいます。
「イズミって結構酒強いから、アタシが先に潰れないようにしなきゃなー」
「そうでもないですよ」
「そうでもあるでしょー、だって前行った時何杯飲んだよ?」
三ヵ月くらい前なので、ちょっと記憶が曖昧です。
「えぇっと……生ビール二杯、焼酎をロックで、あと日本酒をいただきましたっけ」
「うん、それとジントニックとハイボールもな」
すっかり忘れてました。でもこれくらい普通だと思いますけど。
「すました顔してガンガン飲むからイズミは怖いわぁ」
「そんな、ガンガンなんて程では」
なんておしゃべりをしているうちに、目的地に到着したようです。今日はお話することがたくさんありますから、ナツホさんにはたっぷりお付き合いしてもらうことにしましょう。
「――って感じでさぁ、もうやってらンないっつーのよ」
「うふふ、ナツホさん、さっきからそればっかりですね。……すみません、芋焼酎をソーダ割りでお願いします」
「あー、アタシもそれでー」
何だかんだ言いながら、ナツホさんも結構飲まれるんです。
「でー、最近どーなんスか、そちらは」
「私の方は、子どものお世話ですよ」
「おぉー、またかぁ。イズミってさぁ、ホント子ども好きだよねぇ」
「はい!」
一度は保育士を目指したこともあるくらいです。
ナツホさんはお刺身をつまみながら続けます。
「そっかぁ、良いことだー、うん。で、どんな子なの?」
「とっても可愛い子なんですよ」
「それ毎回言ってるよなぁ」
「そうでしたっけ?」
子どもはみんなかわいいので。私もお刺身をいただきます。
「とにかく元気な子と、すごく大人しい子で」
「ふぅん、二人なんだ?」
「えぇ、ルナちゃんとリナちゃんっていうんですけど」
唐揚げを頬張ろうとするナツホさんの手が止まりました。
「ルナと……リナ?」
「はい、そうです」
ナツホさんは身を乗り出して顔を私に近付け、小声で言います。
「もしかして、苗字はナカガワとかいったりするか?」
「はい、ご存知なんですか?」
座り直したナツホさんの顔は真っ青でした。急にお酒が回ったのでしょうか。
「あの、大丈夫ですか?」
「……うん、アタシは大丈夫」
そう言ってちょうど来た芋焼酎をあおっていますが、それは逆効果では……。
「イズミこそ大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「あそこの家の子、ヤバいだろ、だって」
「そうですかね」
このお店の牛スジ煮込みは絶品です。
「ちょっと手はかかるかもしれませんけど、かわいい子たちですよ」
「そういう問題じゃないだろ、アレは」
私も唐揚げをいただきましょう。レモンはかけない派です。
「アタシもあそこで仕事したことあンだけど、とても正気でいられる気がしなかったね。ありゃ親もネグレクト気味だろ」
「勝手に決めつけるのは良くないですよ。……すみません、ウーロンハイ追加でお願いします」
「あー、あとお冷もー」
「あら、今日はおしまいですか?」
「もう無理、これ以上飲んだら潰れるぅ」
やっぱりお酒が回っていたみたいです。ナツホさんは机に突っ伏して「うぁー……」と唸ってから、顔だけこっちに向けてきました。
「とにかく、アタシは忠告しとくからねー。あそこは早めに辞めた方が良い。精神ぶっ壊れるよー」
「ご心配ありがとうございます。でも」
「だァいじょォぶじゃないから言ってンのぉ。イズミはぁ、何でもひとりで抱え込んじゃうんだからぁ」
言おうとしていたことを言う前に否定されてしまいました。それでも、
「大丈夫ですよ、私は」
「そーかい、でも何かあったらちゃんと話すんだぞぉ」
優しい友人が持てて、私も幸せです。最後の唐揚げはナツホさんにお譲りしましょう。
それから一ヵ月ほど、私はルナちゃんとリナちゃんのお世話をさせていただきました。その間クライアントは一度もお帰りにはならず、心配で堪らなくなった私は、ある日から、二人を寝かしつけてから帰ることにしました。
「イズミさん、おやすみなさい!」
「おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
少し終業時間を過ぎてしまいますが、これくらいどうってことはありません。二人が眠りに落ちる様子を眺めていれば、それだけで私も幸せですから。
今日もいろいろなことがありました。ルナちゃんとリナちゃんと三人でお掃除をして、そのあとは映画を観て……お夕飯は甘口のカレーを作って、お風呂では――。
――いけません、うたた寝してしまったようです。時計を見ると、二一時を回ったところ。長くは寝ていなかったようですが、それでもクライアントの家で居眠りなどもってのほか。
起き上がって急いでリビングへ戻りましたが、クライアントは今日もお帰りが遅いようで、誰もいません。手早く身支度を整えて、不必要な照明を消灯、火元を確認、戸締まりを確実に。本日もお仕事終了です。
『イズミです。本日の勤務を終了させていただきます。申し訳ありませんが、居眠りしてしまい、ご連絡が遅くなりました。超過分のお給料は結構です。本日もご利用ありがとうございました』
開始時と終了時にそれぞれクライアントへご連絡を差し上げているのですが、最初こそ「よろしくお願いします」「ありがとうございました」と返信が来ていたものの、だんだんとその頻度が減って、ここ最近はほとんど返ってこなくなってしまいました。
余計なお節介かもしれませんが、ルナちゃんとリナちゃんのこともありますし、こんど泊まり込み勤務のご利用を提案してみようかと思います。
『しばらく帰れなくなりますので、明日から泊まり込み勤務をお願い出来ますでしょうか。給料は置いておきます』
そうご連絡をいただいた翌朝。スーツケースを片手にクライアントのお宅へ向かい、玄関のベルを鳴らします。
『はーい!』
「おはようございます、イズミです」
『イズミさんきたー!』
ドアを開けると、二人が並んでお出迎えしてくれました。
「おはようございます、ルナちゃん、リナちゃん」
「おはよーございます!」
「おはようございます」
今日からしばらく三人での生活です。これまで以上に二人といられる時間が増えると思うと、とてもわくわくします。
「朝ご飯はもう食べましたか?」
「うん!」
「お父さんとお母さんから、何か聞いていますか?」
「『いいこにしてるんだよ』っていわれた!」
「そうですか」
この様子だと、ご両親は、二人にしばらく帰れないことを伝えていないのかもしれません。とりあえず、私の口からそれを言うのは差し控えておきましょう。
リビングが何だか広々として見えるのは、何かの錯覚でしょうか。
いつもと変わらない一日が過ぎます。三人で洗濯物を干して、三人でお昼ご飯を作って食べて、三人で遊んで、三人でお昼寝して……私は寝てませんけどね。
「いただきます!」
「いただきます」
「いただきます」
今日のお夕飯はオムライスです。二人には盛り付けを手伝ってもらいました。ルナちゃんはケチャップで大きな丸を、リナちゃんは星を描きました。ルナちゃんがグリンピースを苦手なのは分かっているので、細かく砕いてから一緒に炒めて、入ってるのが分からないように。食べてくれるでしょうか?
「おいしい!」
どうやら大丈夫そうです。
「今日のお風呂は一緒に入りましょうね」
「え! イズミさんも入るの?」
「ダメですか?」
「いいよー!」
今までは二人の身体を洗っていただけで、私は自宅に帰ってからでした。今日からは泊まり込みなので、お風呂も一緒に入れます。
「イズミさんもいっしょで、リナおねえちゃんもいっしょで、さんにんだねー!」
「そうですねー」
リナちゃんは相変わらず無口です。
一週間後、置いてあったお給料分の勤務は終了です。このまま契約延長をご希望されるのか、それともまた日帰り勤務にご変更なさるのか、クライアントのご意志を伺いたいのですが、実はこの一週間、クライアントからのご連絡がありません。
「パパとママ、かえってこないねー」
「そうね」
このままではルナちゃんとリナちゃんがかわいそうです。ひとまず、明日まではこのまま泊まり込んで、ご連絡をお待ちしましょう。
翌日。ご連絡はありません。二人に異変を悟られないよう、出来るだけ平静を装います。
その翌日も音沙汰なし。誰からの連絡を待っているんでしたっけ。
そのまた翌日も何事もなく終わりました。
さらにそのまた翌日も、きっと明日も、明後日も、ずっと、この三人の日々が――。
◆
連絡を入れても一向に返信がないので、気になって会社に問い合わせた。すると、返ってきた答えはこう。
「うちにも三日くらい前から報告が来ないんだよ。クライアントにも連絡つかないし。何か知らない?」
知らねぇから訊いたんだろうが、という言葉を飲み込んで、ひとまず会社の人間と落ち合うことに。
「何かあったんだったら困るから、とりあえずクライアントの家に行ってみよう」
そういう話になった。
イズミがあの家で働いていると聞いた時から、あの子にあてられてイズミもおかしくなってしまうんじゃないか、そんな気がして、ずっと頭の片隅にモヤモヤが残っていた。イズミは面倒事をひとりで抱え込みがちだから、きっと誰にも相談しないというのは分かっていたから。
実際、アタシもあそこで働いた時はおかしくなりそうだった。詳しい事情は知らないが、どうしてあんな小さな女の子が、まるで一人二役でもするように振る舞うのか。
でも、イズミが大丈夫と言うから、アタシは気にしないようにしてきた。今はそれを後悔している。アタシは無理矢理にでも、イズミにあそこでの仕事を辞めさせるべきだったんだ。それに、あの時イズミは、子どもが何人いるって言った?
玄関のベルを鳴らすと、イズミの声。
『はーい』
「イズミか? ナツホだ」
『ナツホさん? どうしたんですか、勤務中ですよ』
「はぁ? 何が勤務だ。連絡は、報告は!」
つい語気が強まる。なんだよ、本当におかしくなっちゃったのかよ。
「ミズノさん、落ち着いて。イズミさん、ハラです。センターの」
『あら、ハラさんもいらしてるんですか』
「定期報告が上がってなくて、そちらにもクライアントにも連絡もつかなかったので、勝手ながら伺いました。お邪魔してもよろしいですか?」
『えぇ、はい、どうぞ』
程なくして玄関のドアが開かれる。同時に、うっすらと酸っぱい匂いが鼻をつく。
「お待たせしました、どうぞ」
他人の家でどうぞと言って人を上げているのもおかしい気はしたが、アタシはこの時、イズミの変わらない姿を見て、それで安心したのだ。だから、きっと今回の件は何かの勘違いだと、そういう気持ちが湧いてきていた。
だが、リビングに入った瞬間、そのわずかな希望は泡のように消えてなくなった。
「おねえちゃん、おきゃくさんだよ!」
そこでアタシが見たのは、二度と見たくもなかったあの女の子が、蒼白な顔と細々としたかすれ声で、しかしそれに見合わぬ元気な台詞を言う姿と、
「――」
その隣で、ところどころに腐りかけの残飯を張り付けて座らされている、女の子がかつて自身の姉だと言って譲らなかった子どもサイズの人形と、
「ごめんなさいね、今お昼ご飯の最中で。ルナちゃん、リナちゃん、そのまま食べてていいですからね」
そんな狂った図の中、平気な顔でアタシたちをもてなそうとする、いつものイズミだった。