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 日もとっぷり暮れ、志穂は一人片づけをしていた。

 何か忘れている気がする。首を傾げつつ、窓を閉め、教室内を見回した。

 ふと教官室のほうに目をやり、灯りが漏れている事に気付き、千尋の存在を思い出す。

「フジオカくん?」

 声をかけつつ扉を開けば、たくさんの絵の中、千尋が床に座り込んでいた。志穂は首を傾げつつ、傍らに膝をつく。

「やー、まいった」

 千尋が小さくぼやく。

「すげーな、あんたら」

 脈絡のない言葉に、志穂は困惑を隠せない。どういう意味か、と千尋をじっと見ている。

 きょとんとしている志穂を見て、千尋は笑う。なんでもない、と呟いて、立ち上がった。

「カヤマは絵描くの終わった?」

「うん、今日はもう気が済むまで伸び伸びと」

「じゃー帰るか。げ、外真っ暗!」

 千尋の言葉に志穂はうなずき、戸の鍵を開ける。廊下に出て、美術教師から預かった鍵を使って戸締りをしてから、あ、と千尋を振り返った。

「フジオカくん。あの、美術室のことは内緒ね?」

「ん?」

「うちの学校、美術部ないから。これ、許可されてない活動で、だから」

「あー、さっきの言葉の羅列はそれか。違反とか規約とか。わかったわかった」

 あっさりとした了承に、志穂は安堵の息を吐く。そんな志穂の様子を尻目に、「ただし」と千尋は続けた。

「俺、ここに遊びに来るから」

 その申し出に、志穂は瞬く。ゆっくりと思考をめぐらし、誰にも言わないでいてくれるなら、とうなずいた。


 千尋が美術室にやってくるようになって数日。彼は見事にあの中になじんでいった。絵こそ描かないにしても、まじまじと完成された絵を眺めている。

「せんせー」

 ふいに千尋が声をあげる。んー? と気の抜けた声が返っていた。

「部の申請、なんでしなかったんですか?」

 過去形なのが気になった。けれど、志穂は何も言わず、会話にだけ耳を済ませて絵と向き合う。

「突然どうした」

「もったいないじゃないですか。これだけすごい絵を描くのに」

 言いつつも、千尋は舌打ちする。何か言葉を続けるかと思ったけれど、そのまま口を閉ざした。

「フジオカは、こいつらの絵をどうしたい?」

 若い美術教師は、眼鏡の奥で目じりを下げた。む、と千尋が唇を引き結ぶ。

「なんでこの人たちがこうして集まってるかは、わかってるつもりだけどさ。なんか、もっといろんな人がこの絵を知っててもいいのにって、思ったら」

 千尋の言葉に、美術教師は楽しそうに笑った。

「好いてくれたんだなぁ、お前は、ここの絵を」

 それでいいんだよ、と美術教師は続ける。

「わかってくれる人に見てもらわなければ、意味がない。わかってくれる人だけが、ここに来るんだ」

「へぇ?」

 訝しげな千尋の声、ちらりと視線を動かした美術教師、スッと顔を下げたのは朔だった。一瞬、場の空気が変わった気がして、志穂は振り返る。いつもどおりの光景に、小首をかしげつつ戻った。

「そんなに言うなら、文化祭で展示でもするか?」

 美術教師の言葉に、その場の全員が顔を振り向けた。のんびりと笑っているその様子に、一瞬後には脱力させられることとなるが。

「飛び入り参加、ってことですか?」

 正式な部でも同好会でもない。展示場所など取れるわけがない。美術室なら使えるだろうけれど、一般人が文化祭で、この迷路のような校舎の、こんな奥深くまで足を伸ばすわけも無い。まさか、と前置いて瑞希が問いかけるが、対する美術教師はあっさりとうなずいた。逆にいけしゃあしゃあと問い返してくる。

「他にどんな手が?」

「そもそも、学校側の人間のする提案ですか! 先生がこんな非常識だったなんて―――」

 あれ? という表情を、美術教師が浮かべる。

「知らなかったのか?」

 ……知ってました。

 先取りされた言葉に、朔は小さく呟きながらうなだれる。そもそも、生徒会規約に違反した活動を教師が率先している時点でこの空間はおかしいのだ。誰もが気付いていても、あえて見ないふりをしているだけで。

「毎年どこも使わない一角があっただろう。そこに並べるくらいなら許してくれるよ」

 たぶん、とついた無責任な発言に、生徒達は揃って肩を落とすだけだ。




 別の日の放課後、志穂はいつものように美術室を訪れた。

 そこには誰の姿もなく、けれど鍵が開いていたのだから誰かいるはずだ、と教官室のほうを覗く。

「お、カヤマ」

 人の良さそうな目をした美術教師が一人、そこにいた。そこで、絵の整理をしていた。その様子を志穂がじっと見ていると、中断していたらしい作業を再開させつつ、美術教師は口を開いた。

「フジオカがさ、もっと見たいって言うから。この活動始めたばっかりの頃のミナセの絵とか、サザナミの絵とか、出してみたんだ。カヤマも見るの初めてじゃないか?」

 うなずいて、志穂は足を踏み出し教官室に入る。

 先輩二人の、絵に対する想いも、上手さも、知っていた。一年も前から、やはり綺麗な絵を描く二人。ほう、と志穂はため息を付き。美術教官室の片隅で膝を抱える。

「ねぇ、先生」

 気がつけば、口にする気のなかったことを呟いていた。

「自分自身を棚に上げて、大人に完璧を望む子どもは、悪い子かな」

 返事はなかなか帰ってこなかった。振り返って顔色を伺うようなことはせず、志穂はじっと反応を待つ。

「それはさ」

 なんでもないことのように、穏やかな声で美術教師は問い返してきた。

「カヤマが、大人を苦手とする理由に関係があるのかな」

「……」

 この美術教師は勘がいい。というよりは、単に頭の中が子どもだから同調しやすいだけか。失礼なことを思いつつ、志穂はその問いに答えない。

 鹿山志穂は大人が苦手だ。もっと言えばダメな大人が苦手だ。嫌いと言ってもいい。大人に対する理想を、現実の大人に汚されることがなにより嫌だった。

 大人は、子どもより強くなくちゃいけない。

 大人は、子どもよりしっかりしてくれなきゃいけない。

 大人は、子どもを護ってくれなくちゃいけない。

 大人は、子どもを傷つけちゃいけない。

 大人は、優しくなくちゃいけない。

 大人は、何でも知ってなくちゃいけない。

 大人は、痛みをわかってくれなくちゃいけない。

 それこそ、きりがないほど。

 志穂は大人に対する要求が多すぎた。大人に要求する理想が高すぎたのだ。

 中学生の頃は、今よりも頑なにそう信じ込んでいた。教師との衝突が絶えず、口論にまでなり、志穂なりの『理想の大人』を訴えれば、真っ向から否定される。そんな教師もどうなのだろうと、今になって思う。同時に、自分の理想もばかげた内容だと、高校一年生の三学期に気付いた。

 気づいた時には、大人が苦手になっていた。

 自分の中で、『大人』は、『人間』である前に、『大人』であることが要求されるようになっていた。

 思えば、一番身近にいた大人たちが、超人だったのだろうと思う。それとも、志穂の前で上手に隠していただけなのだろうか。とにかく、子どもに弱みを何一つ見せない人ばかりだったと言うことは確かだ。

 他人に会って、勝手に幻滅して、それは口論になるに決まっている。勝手な理想を押し付けられ、詰られるほうの気持ちも考えてみればいい。

「わざわざそう聞いてくるってことは、カヤマはわかっているんだろう」

 穏やかな声がした。

 そう。わざわざ口に出して言う必要はなかったのだ。もう充分わかっているのだから。

 間違っていたのは大人に完璧を望む志穂のほうで、完璧じゃない大人は何も悪くない。不完全というのは人間の正しいありかただ。ただ、志穂がわがまま言って、勝手に幻滅して、勝手に嫌っていただけだ。

 つまりは、大人を『人間』として見ていなかった、志穂が最低だっただけだ。

「子どもは何も悪くない」

 志穂の自己嫌悪を、まるで見透かしたように美術教師が言った。

「間違いと悪は、イコールじゃない」

 言い聞かせるわけではなく。ただ、独り言のように、美術教師はにこやかに言う。それこそ、歌うように。

「あぁ、カヤマ」

 ふと、いつもの調子に戻って、美術教師が立ち上がる気配がした。志穂は振り返らない。膝を抱えたまま、つま先をじっと睨んでいる。

「注文してた画材がもうすぐ届くはずだから、玄関行ってくる。今日、三年は七時間目まであるから、サザナミが授業終わってここ来るまで、一人で絵、描いてろ」

 言って、美術教師は自然な流れで美術教官室を出て行った。美術室は通らず、直接廊下へ。

 残された志穂は、小さくため息をつく。美術教師は大人ではない。なぜだか志穂にそう認識されている彼の振る舞いに気付き、思わず頭上を仰いだ。『教師』ではあるけれど、『大人』ではない。子どもではないことは確かなのに、美術教師は志穂の中で『大人』ではなかった。

 悪い人ではないと思う。

 相手を傷つけたりもしない。

 聞いたことには答えてくれる。聞いてないことにも答えをくれる。

「でも、頼らない」

 さっきのは、独り言に独り言を返されただけだ。相談なんかしていない。

 明らかに疑問文だった自分の言葉を忘れた振りして、志穂は顔を横に向け、膝に乗せた。


 そこにあるのは、ささやかな『大人』に対する意地。




「ふーん」

 美術室を出てからずっと後をついてくる男子生徒に、美術教師は苦笑した。ずっと聞いていたんだろうなこの少年は、と思いつつ、なにも言わずにその状況に甘んじる。

「せんせーってさー」

「公務員に妙なこと言い出すなよ。フジオカ」

 妙なニュアンスの切り出しに、美術教師は先手を打つ。美術教官室前の廊下に座り込んでいた千尋は、美術室には入らず、美術教師のあとをついてきていた。

「壁? 線? が、ないよなぁ。生徒に対して。時々さ、同級生と話してるような、変な気分になる」

 ぼやくように言う。何を思ってそんなことを言うのかと、ただ苦笑した。

「フジオカ」

 追い払うように手を振る。

「カヤマのとこ行ってやれ」

 返事はなかった。

「うちの活動員はな」

 部活ではないため、部員とは呼ばない。

「ああ見えて、そろって寂しがりやなんだよ」

 絵を口実に、わざわざ集まって共に昼食を取る程度には。ただようテレピン油の匂いを消す弁当臭が、美術教師は嫌いだったが。

 三人が楽しそうで、そして笑っているから、禁止にはしない。

 その言い方に、千尋は眉を上げた。少しだけ考え込んで、踵を返す。その様子、引き返していく背中を見つけて、美術教師は小さく笑った。


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