06
しばらく姿をみなかったある日、ふと、彼が店の前に立った。
おはよう、の言葉もない。
すぐに気づいたオジサンが「おはよう」と声をかけると、しばらく呆然としたようにその場に立ちすくんでいた。
「どうしたんだい」
目はこちらを向いているが、視点がしっかり定まっていない。
家がどこなのかオジサンは知らなかったが、よくここまで無事にたどり着けた、そのくらい危なっかしい立ち姿だった。
「だいじょうぶかい?」呼びかけようとしてそこで、名前をまだ聞いていなかったのを思い出す。
「無理だ」
そう言いながらも無意識のうちだろうか、彼が小銭入れから二百円を出したのが見えてオジサンはつい反射的にオカカとコンブをケースから取り出した。
「何が、無理なんだい?」
包みながら聞くと、彼はぼんやりとした口調で答える。
「救助に行ったんだ、他のチームのね」
「うん」
「俺はまあ研修生みたいなもんだから、大所帯のチームでごく軽い手伝いだった。バックヤードでね、モニターの所にいたんだ。でもたまたま外に出た時、助かったメンバー二人のうち一人が運ばれてきたのを見た、リーダーだった」
「ああ、それで」
何の事だか分からずに、袋を用意しながらオジサンが先をうながす。
「腕が担架の外に垂れていて、ちょうど点滴をするのに俺の前くらいで立ち止まった。脇の誰かが腕を持ち上げた。そうしたら手首がぐるりと、えぐれていて……落ちるかと思った、手首から先が。それに血がすごくて」
「ふうん」
事故現場なのだろうか。「えらいもん、見ちまったねえ」
「血がすごかったんだ」
「そうか」
「その人はずっと唸っていた。人間の声じゃないみたいに、高くて、血がすごくて」
「血が嫌いなんだね」
「うん、血はキライだ」
「たいへんだったね」
「その後、テントの裏でずっと吐いてたんだ、俺」
「俺でもそうなるさ、たぶんね」
「あのねオジサン」
急に、焦点の合った目は泣きだしそうな真剣さだった。小学生のような物言いだった。
「俺はもう無理だ、いくら人を助けるといっても、人の悪事は止まることがない。暴力だってそうだ。それをどうにか止めるように俺たちは毎日努力しているはずなのに……どうだろう、ひとつが平和になっても他から火を噴く。ひとつが収まると、他から血が流れる、前よりもっとたくさん……」
「今やっている仕事のことなんだね」
「うん」
悪意が介在する、そうなるとテロとか犯罪の関係なのだろうか、やはり警察なのだろうか。
しかし、今はそこを追求してもどうしようもない気がして、オジサンはこう返した。
「その人は助かったのかい?」
意外そうに彼が顔を上げた。
「……たぶん。病院に運ばれた、って聞いた。その後亡くなったとは聞いてないけど」
「なら、よかったじゃないか」
包みを彼の両手に乗せて、上から軽く押さえる。
「えっ?」
包みを両手で抱えたまま彼がオジサンの顔を見た。
「助かったんなら、よかった」
「よかった、のか」
「アンタも吐いただけで済んだんだろ?」
「まあね。近くにいた女の先輩がちょっと呆れてたけど。その人はいくらでもそんな事はあるだろう? 早く慣れろ、ってさ」
「慣れが大事、というばかりでもないさね。吐いちまう方がオレにはよく解る」
「そう?」ようやく彼の表情に明るさが兆した。薄く日が射した程度だったが。
「誰だって気分悪くなることはあるさ」
オジサンがそう言うと、
「だよね」
腕を前後に軽く振って、肩を上げ下げしてから彼は急に目が覚めたように言った。
「何か不思議だよ、ここに寄ると……急に肩の力がふっと抜けるようだ」
だろう? またおむすび買ってくれよ。
去っていく彼はオジサンの言葉に一度ふり向いて軽く手を振り、駅まで大股で歩いていった。