05
「もう行くよ」
今日はさすがに、「行ってきます」ではなかった。
「今さらだけど」
去り際の彼に向かい、オジサンは声を絞り出す。
「……名前、教えてくんないかな」
ふり向いた顔には、晴れやかな笑顔があった。
ずっとその問いを待っていたかのように彼は答える。
「椎名です。シイナタカオ」
「シイナさん、か」
「そう言えば、オジサンはタカハマさん、でいいんだよね」
彼のことばに今度はオジサンがつい笑顔になる。
「オレの名は浜次郎。タカハマ、っていうのは、母さんと一文字ずつとったんだ。タカコのタカに、ハマジロウのハマ、それでタカハマ屋なんだ」
シイナと名乗った彼は、とびっきりの笑顔でこう言った。
「いい名前だ、素敵なネーミングだったね」
「そうかい」
「奥さんの名前を先にしたところが、何ていうか」
くすぐったそうに笑う。
「オレも好みだな。また店やる時にはその名前にしなよ」
「ああ」
急に、それもいいかもしれない、と思っていた。福岡でまた、店をやるのもいいかもしれない。
「やばい」遅刻する、っつうかもうしてる、と彼は腕時計にちらっと眼を走らせ、あわてて手を上げた。
「じゃあ、オジサン……違った、ハマジロウさん、元気でね」
「ああ、アンタもな、シイナさん」
ようやく、それだけ声が出た。
浜次郎は前掛けを外し、店の外に出た。
木枯らしの中、彼の姿が駅の構内に消えてからも、ずっと、ずっとそちらを眺めていた。
トタン板のばたつく音が、いつの間に止んでいた。
小雪がまた、ちらつき始めた。浜次郎はすでに消えた姿に向かってもう一度つぶやく。
「タカオさん、アンタも、元気でな」
言葉が白い息になって消えていった。
結局、最後の最後にお互い名乗り合えたわけだ。
聞いてしまったらもう後戻りができない、そう本能が警告していたのだろう。
「ヤツをよろしくお願いします」と頼まれた時の、春日の真剣な目を思い出していた。
こんな惣菜屋にすら真剣に頭を下げる、その思いつめた真摯さが怖くもあった。
それでも、自分は結局彼らの世界に踏み込んでしまった。わずかとは言えども。
しかし後悔はみじんも感じていなかった。
誰かを守るため、危ない橋を渡っている、それが普段の彼らの職務なのだろう。そしてそれが正しいことだと信じてはいるのだろう。
だが、それが本当に正しいことなのか、それにいつまで無事で済むのか全く保証はないのだ。
それでも信じるものを守るために、ああして働いているのだろう。
誰もが信じられることを信じて進んでいくしかない。
俺ができるのは、ただ遠くからずっと、無事を祈るしかない、ようやく名前を知ったあの人の。
急に寒さがぶり返す。彼は大きく身震いすると、また店の中に戻っていった。
自分の仕事をひとつ、終わらせるために。
そして続けてきたものを、これからの何かにつなげるために。
いつもあの人のことをどこか心の片隅に想いながら。
了




