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この輝けない日々 弥勒の決死圏シリーズ#02  作者: 柿ノ木コジロー
第3章 さようならタカハマ屋
32/32

05

「もう行くよ」

 今日はさすがに、「行ってきます」ではなかった。


「今さらだけど」

 去り際の彼に向かい、オジサンは声を絞り出す。

「……名前、教えてくんないかな」

 ふり向いた顔には、晴れやかな笑顔があった。

 ずっとその問いを待っていたかのように彼は答える。

「椎名です。シイナタカオ」

「シイナさん、か」

「そう言えば、オジサンはタカハマさん、でいいんだよね」

 彼のことばに今度はオジサンがつい笑顔になる。

「オレの名は浜次郎。タカハマ、っていうのは、母さんと一文字ずつとったんだ。タカコのタカに、ハマジロウのハマ、それでタカハマ屋なんだ」

 シイナと名乗った彼は、とびっきりの笑顔でこう言った。

「いい名前だ、素敵なネーミングだったね」

「そうかい」

「奥さんの名前を先にしたところが、何ていうか」

 くすぐったそうに笑う。

「オレも好みだな。また店やる時にはその名前にしなよ」

「ああ」

 急に、それもいいかもしれない、と思っていた。福岡でまた、店をやるのもいいかもしれない。

「やばい」遅刻する、っつうかもうしてる、と彼は腕時計にちらっと眼を走らせ、あわてて手を上げた。

「じゃあ、オジサン……違った、ハマジロウさん、元気でね」

「ああ、アンタもな、シイナさん」

 ようやく、それだけ声が出た。



 浜次郎は前掛けを外し、店の外に出た。

 木枯らしの中、彼の姿が駅の構内に消えてからも、ずっと、ずっとそちらを眺めていた。

 トタン板のばたつく音が、いつの間に止んでいた。

 小雪がまた、ちらつき始めた。浜次郎はすでに消えた姿に向かってもう一度つぶやく。

「タカオさん、アンタも、元気でな」

 言葉が白い息になって消えていった。


 結局、最後の最後にお互い名乗り合えたわけだ。


 聞いてしまったらもう後戻りができない、そう本能が警告していたのだろう。

「ヤツをよろしくお願いします」と頼まれた時の、春日の真剣な目を思い出していた。

 こんな惣菜屋にすら真剣に頭を下げる、その思いつめた真摯さが怖くもあった。

 それでも、自分は結局彼らの世界に踏み込んでしまった。わずかとは言えども。

 しかし後悔はみじんも感じていなかった。

 誰かを守るため、危ない橋を渡っている、それが普段の彼らの職務なのだろう。そしてそれが正しいことだと信じてはいるのだろう。

 だが、それが本当に正しいことなのか、それにいつまで無事で済むのか全く保証はないのだ。

 それでも信じるものを守るために、ああして働いているのだろう。


 誰もが信じられることを信じて進んでいくしかない。

 俺ができるのは、ただ遠くからずっと、無事を祈るしかない、ようやく名前を知ったあの人の。


 急に寒さがぶり返す。彼は大きく身震いすると、また店の中に戻っていった。

 自分の仕事をひとつ、終わらせるために。

 そして続けてきたものを、これからの何かにつなげるために。


 いつもあの人のことをどこか心の片隅に想いながら。



 了

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