12
気がついたら、カーテンの隙間から見える空がわずかに白んでいた。
「やば……遅刻だ」
サンライズは飛び起きて尚びっくり、どこかのアパートの一室だった。
ソファに寝かされ、ちゃんと布団までかけてもらっている。眼鏡と時計が並べてテーブルに乗せてあった。
時刻をみると六時四十分、いつも起きる時間だった。
ここはどこだ? あわてて辺りを見回してみる。
隣の部屋から、ひどいいびきが聞こえた。そっとのぞくと、ベッドの掛け布団の上に大の字になって春日が眠っていた。
窓からのぞくと、何となく見覚えのあるような風景が拡がっている。
線路が見えた。銀色の車体に水色の線をひいた電車が、ちょうど左に向かって走っていくのが目に入った。
左手側少し低くなった方に、高いビルもみえる。
春日のアパートなのだろう、カイシャにけっこう近い場所だ。ただし駅の南側のようだが。菊名よりやや、新横浜に近そうだ。
トイレを借りて、まず膀胱を空っぽにする。それから洗面台で何度も顔を洗った。
口の中も苦い。歯磨き粉を指に乗せ、口の中をこする。おえ、と吐きそうになる。
それでも顔を洗い終わったら思いのほか、さっぱりした。
春日がいつの間にか起きていた。
「おはよ」と、多分そう言ったようだ。顔が腫れている。そのままよろめきつつ、トイレに入っていった。
その間に、自分の持ち物をあらためた。正体をなくすほど飲んだにしては、紛失物はなさそうでひと安心だった。個人用携帯、財布、定期、名刺入れ、家の鍵……
携帯をみると、メールが二件来ていた。由利香からだ、当然。遅くなるとは伝えてあったが、泊まるとは言ってなかった。おそるおそる画面を見た。
「いつ帰るの?」と一つ。十二時過ぎ。
「とにかく連絡ください」が二時。
震える手でメールの返信。
「同僚に泊めてもらった。そのまま会社に行きます。今日は定時」
待っても、返事はなかった。ごめんなさいと書けばよかったようだ。
春日がトイレから出てきて、豪快に顔を洗い始めた。
「ハルさん、何時にうち出るの、いつも」
「七時半くらいかな」タオルで顔をふいてから、洗面台の中に並んだビンをあさっている。薬が色々並んでいて、彼はそこから四種類ほど選んで、そのまま口に放り込んだ。
「おい、水飲めよ」と言うと
「……女房みたいだなあ」とブツブツ言いながらも蛇口にじかに口をつけ、うまそうに水を飲んだ。
いつも徒歩で通うんだ、駅を避けてそのまま駅北に出る道があるけど、どっかでメシ、食ってから行くか? と春日が言うので、少し早めにアパートを出た。
アパートはやはり菊名の駅からやや南よりの場所だった。
オレの知ってる惣菜屋がシンヨコの駅のすぐ南にある、おむすびしか買ったことないけど、とサンライズが言うと、オレは米のよし悪しにはうるさいんだ、とすぐ食いついてきた。
「時々そこで買ってカイシャで食うんだ、朝。遠回りになるけどいいか」
「歩くのは苦じゃないさ」
白い息をはきながら、二人で緩やかな坂を下って行く。
タカハマ屋のオジサンは、「おはよう」と言ってから隣に立つガタイの良い男を珍しげに眺めた。
「カイシャの……」
サンライズはことばに迷う。友だち? 同僚、というべきか、先輩、というのか? それでも
「総務の人」と告げると春日が「飲み連れです」とぺこりと頭を下げた。
オジサンもうれしそうに「やあどうも」と頭を下げた。
「よかったよ、来てくれて。店、今週末で閉めるんだ、早めにあっちに引っ越すことになってさ」
「えっ」
もう木曜日なので、土曜日までというとあと今日を合わせ三日しかない。
「ごひいきさんに最後にあいさつできて、よかった」
早速オカカとコンブを包んでいる。
「ハルさん、何食べる?」
サンライズが聞いた時、春日はちょうど通りかかった連中をしばらく見送っていた。
「ハルさん」大きな声で呼ぶと、今度はオジサンがびっくりしたように目をむいた。サンライズが
「どうしたの、おじさん」と聞くと
「……いや」
前掛けで意味もなく手を拭いている。それからつぶやくように言った。
「うちのバ……息子がさ、ハルオって言うんだよ」
ちょうどそこを小耳にはさんだ春日が、屈託のない表情でオジサンにこう説明する。
「オレ、春の日って書いてカスガだから。名前はヒロミツ」
ええっとお、オレはウメとシャケとコンブと……一体いくつ食べるつもりなのか、二日酔いとは縁のない男はがむしゃらにおむすびを選んでいく。
「あと玉子焼きね」
そう言ってからオジサンが下を向いたスキにちょっと、とサンライズを指で招く。
オジサンが春日の注文に追われている合間に、小声で駅の方を指す。
「アイツら、知ってるか?」
ちょうど自転車を止め、構内に入ろうとする四人連れ。「アレが?」
「今、ここ通ったけどさ」
ダラダラとした黒っぽい服装の中、最後の一人に見覚えがあった。あの坊主頭に銀の長い鎖ピアス。
「今夜、この店を襲うって言ってたぜ、十時前には、とか聞こえた」
えっ、オレに見覚えがあったのか? とサンライズ気色ばむ。
「少し前に、店の前でたまたま外から帰ってきたオヤジにどなられたらしい」
春日は目を細めたまま、駅の方を見やっていた。
「オジサン」
サンライズは大きな包みを作っているオジサンに聞いてみた。
「オレが最初にここで会った小僧ら、まだちょっかい出してくる?」
「え? いやいや」
ハハハ、とオジサンは明るく笑う。
「アイツはねえ、近頃見ねえや。坊主頭の方は時々ウロウロはしてるけどね。また新しい連れができたんだろう。こないだは夜会合から帰ってきたら、店の前にたむろして煙草ふかしてやがったから、怒鳴りつけてやったけどよ」
駅へと歩きながら、春日が言った。
「あれが……オマエの言ってた羊のジイサンか?」
「は?」一瞬意味が分からず、サンライズはきょとんとしたが急に『羊』の意味を思い出す。
前を見たまま春日に言った。
「羊じゃない、一人の人間だよ。でもできるだけ平穏に暮らして欲しいとは願ってる」
「因果なヤツだな、オマエも」
しみじみと春日がつぶやく。ちらっと横顔をみるが、別にバカにしたふうではない。
「オレのせいだ、一人は言い聞かせてやったけど、連れまで気が回らなかった」
サンライズがそう言うと
「アイツらは、そんなもんさ」
春日はごく軽い口調で返した。
「一人がまっとうになっても、他のヤツらはまたすぐ新しい連れを作る、似た者どうしは互いに惹かれあって、いつまでたっても悪いヤツらはいなくならない」
「……」
急に、自分のやっているシゴトと同じ話なのだろうか、とサンライズは足もとを見る。
それでも、オジサンの店が最後の最後に襲われるのはイヤだ。
彼は立ち止った。
「ハルさん、今夜……」サンライズが言おうとすると春日がぽん、と肩をたたいた。
「九時、駅前集合ね」
あっけにとられた彼が次の言葉を言う前に、春日はこう釘をさした。
「オレは単なる見物人として行くから。戦闘には参加しないのでそのつもりで」
「はあ」
それでも、何となく心強かった。
サンライズはかすかに笑ってから、急に真顔に戻ってつぶやいた。
「しかし。『戦闘』って何だよ」
それから少しして、今度は思い出して立ちすくむ。顔から血の気がひいた。
「まずい……定時で帰る、ってメールしちまった」




