02
「あのう」 声は小さかったが、はっきりとオジサンの耳に届いた。
「シンヨコハマの駅前、ですよね、ここ」
「そうだけど」
目を上げると、ありがちなグレイの背広姿が目に入った。
「三丁目、ってこっちですか」
「はあ?」少し首をかしげる。
「富士塚の?」右手をのばす。「ならあっち。十五分くらいかな」
男は首をひねっている。
「歩いて十分で着く、って聞いたんだけどなあ」
「新横浜三丁目のことかなあ、なら駅の向こうだよ。カイシャなの?」
「はあ、」頭をかいている。
「こんど入ったカイシャなんですが……」
中途採用なのだろうか。新入社員というには気持ち、歳をくっているような感じだ。
黒ぶちの眼鏡に、短めの髪をきちんととかし、見た感じでは全然印象に残りそうもない。
「間違えて出ちまったんだ……」
どうも、と礼を言ってそのまま行ってしまうかと思った時、その男が急によろめいて店の外壁にぶつかった。狭い店の床にも衝撃が伝わる。
自転車が接触したらしい。その後からもう一台、似たような自転車が彼をかすめていった。
「気をつけろ、タコ」いかにもワルっぽい二人連れだ。
がちゃん、と自転車のスタンドを止めた音がする。
まずいな、店の前でもめないで欲しいもんだ……オジサンは身体を引っこめながらも首は前に出す。
「オッサン、オレらのチャリどうしてくれんだよ」
「足ケガしたんだケドよ」
店の前、フレームのように開けた窓枠に三人の姿がいきなり戻ってきた。
見ると、前を走っていた茶髪のぼさぼさした小僧が、道を聞いた男性の胸ぐらをつかんでいる。
「おい」
オジサンは言いかけて、もう一人の坊主頭にぎろりと睨まれ、言葉を飲み込んだ。
止めたら、どうなるか。
案の定、坊主頭が凄みをきかせ、店の中に向かって言った。
「サツに連絡すんなよ、分かるな」
長い鎖のようなピアスを耳元で揺らし、坊主頭は仲間に背を向け、自販機に向かう。
茶髪は、ひじのあたりを押さえて途方にくれている男をぐっと持ち上げるようにして顔を近づけた。
「金持ってんだろうな、オッサン」
逆らうな、アンタ。
オジサンは身動きもできず心の中で念じる。
その時、掴まれている背広の男が唐突に言った。
「ケースの中を見てみろ」
そのまま、向き合った二人は固まっている。
少し離れた位置にいた坊主頭の方は気づいていない。
茶髪はゆっくりと彼から手を離し、店のケースの方に向き直る。目は大きく見開かれていた。
どうしたことなのか、本当にケースの中を見ている。
オジサンは固唾をのんで見守る。
「中の玉子焼きを見ながら、反省しろ」
陰になって表情はよく見えない、しかし男はごく、普通の口調で告げていた。
「通行人を脅すな、大人しく暮らせ。この店にも迷惑かけんな。オマエの連れのタコにもちゃんと言っとけよ」
「脅しません」素直に茶髪はつぶやいた。「ごめんなさい、もうしません」
「オイいくら持ってた」
近くの自販機に手を突っ込んでいたのをやめて坊主頭が戻ってきしなにそう訊ねた。
だが、それに向かって
「行くぞ」
茶髪がぶっきらぼうに声をかける。
「もうやめるんだ、帰るぞ」
「はあ?」
今度は坊主頭が男に手をかけようとしたが、
「やめろ! その人に触んなよタコ」
仲間だった茶髪男のあまりの剣幕に恐れをなし、彼はぱっと手を離した。
「何だよ」傷ついたように連れをみる。
「何だよ急に」
「行くぞ」
そう言われ、首をひねりながらも、坊主は茶髪に続いて駅の方に去っていった。
オジサン、気づいたら窓から身を乗り出していた。
彼らの姿が消えると、ほおっと大きく息を吐いてまだ店の前に立っている男をみる。
「すごいねえ、あんた……先生か何かだったのかい?」
「いや……」
頭でも痛むのか、眉間にしわを寄せて、こめかみを押さえている。それでも気遣うような目を店の中に向けた。
「ごめんオジサン、店の前で」
「いやいや、アンタが謝ることじゃあない、こっちこそ言ってやれなくて悪かった」
オジサンは謝る。
「なんせ、店やってると気をまわすも多くて……アイツらもこの辺に住んでるんだろうし」
男は、額の汗を軽くぬぐってからそれでも穏やかに笑った。
「わかるよ、ずっと住んでる場所だから慎重になるよね。あ、そうだ」
今度は自分がケースの中を覗き込んだ。
「ついでに昼買っていこう。オカカとコンブ、ひとつずつ」
はいありがとうね、と包んで、お金はいいよ、と言おうかと思ったらすでに200円受け皿に入っていた。
「ありがとうね」
小さなレシートを渡すと、男は軽く包みを持ち上げてまた駅の方に戻っていった。
オオゴトにならなくてよかった、しかしあれは一体何だったんだ?
首をひねりながら、オジサンはその後ろ姿をしばらく見送っていた。