10
時は流れ、三年目の春。
現れると前置きもなく、
「主任になったんだ」
と彼が言った。固い表情だった。
よかったなあ、と声をかけると、いつもの笑顔に変わった。
「何だか怖い顔してたけど、何だったんだい?」
「いや」照れ笑いしながら頭を掻いている。
「なんだかね、主任といっても本当に自分に務まるのか、すごく不安があったんだよ。仕事の内容もハードだしね。下についた人の安全も考えなきゃならないし」
「責任のある仕事なんだな」
「うん……なのに、三年でいきなり主任だって」
「早いのか? それは」
急に彼は顔を上げた。「早過ぎだよ!」
「誰かに言われたのか?」
「みんな言ってるよ」
彼が言うには、ずっと他所者のような気分で、主任用のデスクに座っていると、周りから次々と声が聞こえてくるのだそうだ。
「みたか? アレ」
「入局三年で、もうリーダーだって?」
「違う、二年だよ」
「中途入局だろ? 前は何? 警察? 自衛隊?」
「ぜんぜん違うらしい」「海外の傭兵か?」
「聞いたか? 郵便局あがりだって、しかも窓口」
「デスクワーク? うへぇ、よく今まで二年も特務でもったよな」
「死ぬぞすぐ」
オジサンがコメントする。「空耳だよ、きっと」
「だといいけどね」
精神的に追い詰められているようでもなく、淡々と彼が答えた。
「自分でも思うもの。全く何も知らずに入った職場に仕事……自分でももう二年もここで働けているのが本当に信じられない、ってさ。
なのにその上、もう主任をやれと言うんだ。辞令ももらった。デスクの上に乗せて、夢じゃないかって何度も見なおしたよ。
何かの間違いだと思う。他の連中もそう思っているけど、自分が一番そう感じているかもしれない」
オジサンはいつもの仕事の手を休めず黙って聴いている。彼は独り言のように続けていた。
「オレみたいにあんまり腕力に自信のないヤツは、さっさと辞めた方がいいかな、ってずっと思ってた。他人に対しても責任を持たなきゃなんて、尚さらね。仕事について日も浅いし。ホントにできるのかどうかがずっと心配で」
「まだ心配なんだね」
「もちろんだよ。それにオジサンにも言われるんじゃないかと……アンタはそんなものは辞めた方がいいよ、向いてない。何を考えてるんだ? とか」
「そんなこと思ってない、アンタならできるよ」
ようやく彼は顔を上げた。
「そうか。やっぱりオジサンなら……だいじょうぶって言ってくれると思ったよ」
「その通り、だいじょうぶさアンタなら」
そう言いながらオジサンは紙でできたカップを一つ手にとった。
「トン汁、持って行きな、お祝いだ」
一番高い味噌汁をカウンターに乗せて押し出すと彼は焦ったように
「ゴメン今日外に出るかも、味噌汁はいいよ」
と返そうとしたので
「バッカだなあ、開けなきゃいつでも食えるじゃねえか」
無理やり、袋に入れて渡す。
「ホント……いつもありがとう」
彼は、ありがたく押しいただいた。
そんな彼にオジサンがしみじみと声をかける。
「主任さんだと、忙しいんだろうな」
「そうだね、多分」
足を踏み替えている。いつも余裕をもって家から出ているのか、店に寄っても案外のんびりしているが、やはり責任が重くなったせいか、気がせくのだろうか。
「九月には大きな仕事で出張があるんで、これからすぐ準備に入るんだ、またしばらく寄れないかも」
「そうかい、出張で準備か」
「うん……主任の初仕事だよ」
もちろん詳しく聞き出したい気もあった。どこの国なのか、どんな内容なのか……
しかし胸の奥で、名前のこともそうだが、どこかでもう少し距離を置いた方がいい、というかすかな声がしていた。
「出張から帰ってきて余裕があったら、また寄ってくれ。顔だけでもみせてくれよ」
うん、と素直に返事をして、行ってきます、と出かけていった。
「行ってきます、か」
いつの間にか、そう言うようになっていた。オジサンは笑って見送る。
それならば必ずまた、帰ってきてくれるだろう。




