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作者: 山麓鸚鵡

 窓の外では、さああ、と細い雨が降っていた。

 小さな喫茶店の窓際に、一組の落ち着いた雰囲気のあるカップルと思しき男女が座っていた。

 楽しいデートのはずだったのに、と女は残念そうにつぶやいて、マグカップを口につけた。

 しかし、思いの外熱いコーヒーに、女は顔を顰めコーヒーを舐めて、カップをソーサーに置いた。

 かちゃり、と食器の擦れ合う音が小気味よく響いた。

 残念だったね、と男はへらりと笑って、でもこんなデートもボクは好きだよ、と続けた。

 やや湿っぽい空気は、空調によって店内に充満していた。

 だが、彼らの周りだけはどこか違う湿っぽさを漂わせていた。

 女の手元にあるブラックコーヒーには、悲しそうに笑う女が映っていた。

 男は、女のその表情の意味を知っていて、情けなく笑った。そして、窓の外に目を向けた。

 窓には、うっすらと男の表情が映っており、外を通りがかった者には、男は泣くのを堪えているように見えただろう。

 二人の間には、しばらく沈黙が続いていた。

 店内では、店主のこだわりがあるのか、外の景色によく似合う洋楽がかかっていた。

 クラシック曲をバラード風にアレンジしたその音楽に、女は耳を傾けて、コーヒーを啜った。

 女はふと目を閉じて、同じ曲を最初に聴いた時のことを思い出していた。

 助手席の窓を水滴が流れていったのを見ながら、女はせっかくのデートなのに残念とつぶやいた。

 運転席の男は、そう? ボクはこういうデートも好きだよ、と言った。

 少し楽しそうに笑った男の顔を見て、女はうれしそうに笑った。

 あの頃は、屈託無く笑えていたのに、今はどうしてあの頃のように笑えなくなってしまったのだろう、と思いながら女は静かに泣いた。

 頬を伝う涙が、もう湯気の立たない冷めたコーヒーにこぼれ落ちた。

 すん、と鼻を鳴らしたのはどちらが先だったのか。

 ざあざあと強く降り始めた雨の音と変わってしまった店内の音楽と古い空調の稼働音にかき消されて、涙の落ちる音も、鼻を啜る音も、嗚咽も、何も聞こえなかった。

 男のシャツの襟には、涙が滲んですこし色濃くなっていた。

 静かに泣いた男の涙はきれいだったが、女の視界は涙で歪み、何も見ることはできなかった。

 はっと息を吐いて、女はやや掠れた声でつぶやいた。

 「別れよう。」

 頬を伝う涙を拭って、女は繰り返した。

 「別れよう。」

 次ははっきりと、男の目を見ながら言った。

 だが男は、女の目を見ることなく、すまない、と呟いた。

 震える男の肩を見つめて、女は微笑んだ。

 気慰みのように手を握って謝ったり、好きだったなどと今更のような戯言を吐いたりしない男を、女は最後まで愛していたのだ。

 もちろん男も、名残惜しいような仕草をして別れるような終り方を女が好まないことも知っていたし、自分自身もおざなりな欺瞞で終わらせるようなことが嫌いだった。

 二人の間には、いつだって隠し事などなかった。

 どちらかがすこしでも無理をすれば、片方は嬉々としてフォローをする、理想的な関係と言ってもよかった。

 なぜそんな彼らが、こうして雨の日に別れることになったのかなど、彼らにしか分からないのだ。

 「今まで、ありがとう」

 言いながら女は、男と初めて出会った時のことを思い出していた。

 今日のような、雨の日のことを。




 ざああ、と雨が地面を叩く音で彼女は目覚めた。

 なんだか長い夢を見ていたような気がするが、何も思い出せないまま、カーテンを開けた。

 近所の書店へ出かける予定だったが、外の曇天に気が削げてしまい、せっかくの休みが、と残念そうにつぶやいた。

 雨雲は世界を覆い尽くしているように見えて、そのうち晴れるのではなんていう希望的観測も出来そうになかった。

 かといって、家でじっとしているわけにもいかず、結局彼女は買い物へ行くことにした。

 たまには雨もいいかな、と思いながら水たまりを避けて書店へ急ぐ。

 書店の中はひんやりとしていて、今日のような雨の日には少し肌寒く感じるほどだった。

 雨脚が弱まっているうちに帰ろうと思いつつも、買い忘れの無いように店内をぐるぐる回り、本棚を念入りにチェックしているうちに、雨は本降りとなってしまっていた。

 片手で持つには少し重いくらいの本を抱えて、彼女は店の外に出たとき、一人の男が立ち往生しているのに気付いた。

 困ったように空を見上げていて、雨宿りをしているようにも見えたのだが、彼女はどうしてか放っておけず、気付けば彼に声をかけていた。

 「もしかして、傘を盗まれました?」

 目を丸くした彼は、だが次の瞬間にはへにゃりと笑っていた。

 「よくわかりましたね。」

 いやぁ、困りましたね、なんてちっとも困っているようには見えなかったが、彼女はさらに言葉を続ける。

 「ビニール傘でした?」

 今度は目を丸くしたまま、彼は正解です、と零した。

 「ここ、ビニール傘の盗難がなぜか多いんです。」

 「へぇ。」

 「ひょっとしたら、書店の人が、雨の日に本にかけるビニールに困って使ってしまっているのかもしれないですね。」

 なんて、ありえないですけど。と彼女。

 いや、もしかしたらありうるかも知れませんよ。と彼。

 「そういう発想、ボクは好きですよ。」


 彼の笑う顔が、なぜか彼女には泣き顔に見えた。

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