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媚薬の研究  作者: 枕木悠
9/9

アンコール

【アンコール】


「志ってば、(中略)挙げ句の経てに、(中略)なんですのよっ!」

 堪忍袋の緒が切れた。切れてしまったけれど、怒りをぶつける張本人がいないから仕方なしにココに来たという按配で、志の姉の玉は気が済むまでぶちまけた。陵は「うんうん、そうだねぇ、そうでよねぇ、でもそれは玉ちゃんにも、」なんていう風に適当にカウンセリングしていた。

 怒りの発端は第七軽音楽部の練習をサボり続けたこと。大事なオーディションが迫っているのに志はなかなか姿を見せないので、今日こそは、と玉含め第七軽音楽部のメンバーは志の捜索を行ったらしい。が、ピアンネ中探し回っても見つからなくて、ということらしい。

「もうテルミン奏者にしてやるしかありませんわっ! せんせーもそう思いますでしょ!?」

「まあまあ、別に悪気があってサボっているわけじゃないと思うよ。ただ、玉ちゃんとどう折り合いをつけていいか、必死で悩んでいるんだよ。それに志ちゃんってば、テルミンするの、滅茶苦茶嫌がってたからやめてあげてね。玉ちゃんはお姉ちゃんなんだからさ、もっと志ちゃんを可愛がってあげなくちゃ」

「可愛がってもつけあがるだけですわ!」

「まあまあ、……それはともかく志ちゃんの嫌がりようと、そのテルミンを小ばかにしたような玉ちゃんの発言は少しいただけないかな。テルミンはいいものよ。まあ、あのかゆくなる音のよさは二十二になるまでは分からないかしらね」

「バカにはしてませんよ、あの創造的な音色が欲しくなるときもありますわ、けれど、観客の前でテルミンをやることを考えると、まるで無駄毛処理を公に披露するみたいな気持ちになりません?」

 陵は、二人はあんまり似てないけれど、やっぱり姉妹なんだなぁ、なんて思った。そしていい姉妹百合だなぁ、とも考えた。陵はそんなことを考えていたから、意識は玉の怒りよりも、たった今、完成したばかりの媚薬のことに向けられていた。窓際の百合の花の横に置かれた小さな小瓶のなかには、媚薬がある。

 どうして、陵は媚薬を完成させることが出来たのだろうか? 陵は神代峠の場所は知らないはずだし。

 でも、現に媚薬は完成していた。

 昨日のことだ。放課後、例によってきゅうっとなったエルが運ばれてきた。陵は保健医として、当然の処置と介抱をした。エルは少しして目を覚まして、スポーツドリンクを飲んでから、ふと、思い出した、という風に切り出した。

『せんせーにはお世話になったからな』まるで今生の別れの台詞だった。『せんせー、花好きだよな。珍しい球根を手に入れたんだ。明日、プレゼントするよ』

 どういうわけだか、今日の午前中の休み時間にエルがビニール袋に入れて持ってきたのは球根ではなく、トリュフだった。理由を尋ねようとしたが、エルは忙しそうにすぐに保健室を出て行ったから、聞けなかった。コレは球根じゃない、トリュフだよ、とも訳が分からなすぎて、エルに伝えることができなかった。一人の保健室で、陵はそのままどうしたかと言えば、トリュフ以外の媚薬の材料を調合していたビーカーを棚から取り出し、トリュフを煎じて混ぜてみた。つまり、多分、媚薬は完成したのだ。

 完成したが、飲んではいない。だって、貧血で倒れてきた女の子が目の前に差し出されたら、媚薬の効果で職を失ってしまうかもしれないからねっ。媚薬とは欲望を増幅させる薬だから。

 その薬を、玉ちゃんに飲ませたら、どうなるかしら?

 さっきからその実験願望が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。どうしても、陵は姉妹百合を拝みたくなっていた。

「ねぇねぇ、玉ちゃん」前のめりで陵は聞いた。「精神状態が安定して、どんな妹でも許せちゃう薬があるんだけれど、飲んでみない?」

もちろん、陵が勧めているのは効能が、精神状態が高ぶって、どんな妹にも百合百合してしまう薬である。

しかし、そんなことを知らない玉は、

「ええ」と頷いた。「ぜひ、その薬を頂きたいですわ。脳みその血管が千切れそうなんですもの」

 陵は席を立って、窓際の小瓶を取って、そっと渡した。玉は蛍光灯に小瓶を透かして言った。「まるで媚薬みたいですわね」

「えっ!?」陵はあからさまに、不審に、非常に分かりやすく反応してしまった。

 これは、…………バレたか?

 しかし、

「この容器が」と、玉は小瓶のことを言っていたらしい。「とても綺麗ですわね」

「あ、なんだ、そういうこと。うんうん、そうそう、怪しい容器に入っているからこそ利くんだよ。媚薬みたいに。でも、中身はれっきとした精神安定剤だから、安心して。…………あっ、そうそう、出来れば志ちゃんと一緒のときに飲んでね」

 って、陵が大事なことを皆まで言うまでに、玉はズポンと蓋を開けて、グビグビととてもおいしそうに飲み干してしまっていた。そして一言。

「美味ですわ」

 え? おいしいの? …………じゃなくて、陵は一度「うぃっぷ」と酔っ払ってしまったようなひゃっくりをして、頬っぺたにまぁるいピンク模様を映し出していた。可愛らしい瞳がとろるように吊り下がる。壁掛け時計の秒針が進むごとに、玉の表情は泥酔していった。なんて古典的な反応! …………じゃなくて、ともかく惚れられても、まあ、惚れられてもいいけれど、惚れられたらいろいろと困るんだ。先生と生徒=禁断だし、女の子と女の子=禁断だし、はいはい、女と女の子に訂正しますよーだ! そんなことより、ともかくいろいろと面倒臭くなる。

陵は周囲をぐるりと見回して隠れる場所を探した。ココは保健室。隠れるベッドなら腐るほどある。陵はその一つに飛び込んで敷居のカーテンをサッと閉めた。そのときだった。

「せんせー、大変! ロリコン野郎の正体は実は、」と志が保健室に現われたのだった。

 陵は返事をしなかった。ロリコン野郎の正体? そんなことより、姉妹百合でしょ。陵は片目を瞑って、カーテンの隙間から二人の動向を見守った。いや、盗み見た。

「な、何で玉姉がここにいるのよ」

罰が悪そうに、とりあえず志は強情に足元を睨みながら聞いた。本当はすぐに保健室から逃げ出したいのだけれど、でも、もしかしたらと姉の優しさを期待している少し甘さの入った声音だった。

でも、その期待どころか、問いの答えすら、なかなか玉から返ってこなかった。

「?」と志は眉間に入れた力をゆっくりと抜きながら玉の顔を直視した。すぐに志の表情が、見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりの強張った表情になり、「うわっ!」と太平洋の色合毒々しいナマコが下腹部に張り付いたような悲鳴に似た叫びを上げた。

 玉がいきなり志を捕食するように、ギュウと抱きしめたからだった。陵は「むはー」と二人の愛撫を見て、鼻から蒸気を噴出させて興奮していた。

 そして愛撫されている当事者の志には、少しパンツを濡らしてしまった。コレは十中八九、いわゆるお仕置き的なかしましだと思ったからだった。玉姉がココにいるのはきっと私を探しに来たんだ、そしてキングコブラのように気味の悪いスマイルで威嚇して、私の体を締め上げている。駄目だ、体に力が入らない。

 当の本人は、愛撫を愛撫と思っていないようである。それは陵の誤算だった。志の玉に対する刻み込まれた恐怖は相当なものだったようであり、つまり、急なスマイル及びハグは志の恐怖心を駆り立てるだけだ。

志ちゃん、ココはもっと甘えちゃっていいんだよ。

そんな陵の助言は志に届くこともなく、青ざめた顔には脂汗が浮かんでいるばかりであった。そろそろ、そんな志が不敏に思えてきた。コレはこういうパターンの姉妹百合として、アリかもしれないが、私はそこまで変態じゃなし、傍から見ていてまるで拷問だったから、陵は志の助けに出向こうとカーテンを開こうとした。

その時だ。

「ねぇ、志」

陵は玉のタマのような猫なで声に動きをピタッと止めた。玉は志の汗が浮かんでいる両頬を両手で包んで、うっとりと見つめている。

「は、はい」志はブルブルと怯えていた。「な、ななななんで御座いましょうか?」

「私、志のこと、食べちゃいたいくらい、大好きですわ」


【ダブルアンコール】


 弥恵は自宅に帰ると、お出迎えしてくれた兄貴を殴り、二階の自分の部屋のベッドにダイブした。数秒息を止め、「ぶわっ」と跳ね起き、ベッドの上に鎮座した。そしてカバンの中から日記帳を取り出し、抱きしめ、すっと両手で持った。

 この中に、私の忘れてしまった比呂巳への想いが刻まれている。

 おかえり。おかえり、私の恋心。

 そして、どうか起死回生の術を頂戴。

 弥恵はねっころがりながら、手帳を開いた。

「…………?」

 白紙だった。まっさらのさらだった。消しゴムで消されたのでも、修正液で消されたのでも、あぶり出しを施されたわけでもない。手帳は白紙だった。弥恵の想いは一行もない。

「なんで?」

 難解な暗号文のポエムはエルお姉さまが持っているし、コレは白紙だから、私の手帳が難解な暗号文のポエムとすり替わってしまったことはないだろう。でも、これは違うんだ。私のものじゃない、私の手帳にはびっしりと比呂巳への想いが書かれているはずだし……、あっ、そういえば伊勢丹のシールも貼られていない、代わりに図書館のシールが貼られているし…………、じゃあ、また志姉ちゃんにしてやられたってこと?

 そんな風に頭を捻って逡巡しているうちに、白紙が延々と続くかに見えたこの手帳に数ページ何かが書いてあるのを見つけた。

「……媚薬の研究?」

 媚薬。媚薬かぁ、媚薬もイイかもしれない。でも、コレに手を出すのは本当に切羽詰ってからだ。中等部の一年の頃になっても、比呂巳と理想的な関係に落ち着いてなかったときのために取っておく最後の術だ。媚薬は、さすがにねぇ。

 なんて、弥恵は妙に達観した頷きを繰り返していた。が、それが急に止んで、漢字テストに四苦八苦している表情を五秒くらいキープしてから、

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」と壮絶な叫び声を上げた。まずはその壮絶な叫び声に反応して、「どうした!?」と傍若無人に妹の部屋のドアを開けた兄貴を片付けてから、

「この手帳は《比呂巳》のだ」

と、ゆっくりと理解する。以前、比呂巳とお揃いのものを持ちたくて、半ば強引に弥恵がプレゼントした手帳だったから、忘れられるはずもない。そのときのことを弥恵は鮮明に覚えている。比呂巳は手帳にものを書く習慣がないからと、そのプレゼントに困っていたっけ、でも、比呂巳は「大事にするよ」と受け取ってくれたのだ。そして比呂巳は手帳に何も書くことをしなくても、毎日、肌身離さず学園に持っていっていたことを弥恵は知っていた。唯一書き連ねてある、《媚薬の研究》のことも。だから、最後の数ページの文字を見て、弥恵はコレが比呂巳のもので自分のものでないことを理解したのである。

 でも、なんで、比呂巳の手帳が……?

「よし!」

 弥恵は立ち上がった。考えていくら推測を巡らしても埒が明かない。比呂巳の手帳をどうして志姉ちゃんが持っていたのか、それを比呂巳に聞いたほうが手っ取り早い。弥恵と比呂巳は幼馴染の親友だ。そんなことを聞くくらいなんてことない。うん、比呂巳への未だ整理のつかない想いを比呂巳に打ち明けることに比べたら、なんてことない。

だから、弥恵は手帳を抱えて、隣の比呂巳の家に向い、インターフォンを鳴らした。

「ああ、弥恵ちゃん」比呂巳のママさんは、比呂巳に似ていて、可愛い。十七歳、と言っても通じそうな若々しい外見のせいで、比呂巳のお姉ちゃんと間違われた回数は軽く百回は超えている。でも、匂いはママの匂いだった。弥恵は比呂巳のママの匂いがママって言う感じで大好きだった。いつだって悩み事のなさそうな溌剌とした物腰で比呂巳のママさんは言った。「比呂巳なら、秘密基地よ」

弥恵は秘密基地に向った。広瀬道場の裏手に回り、紅葉の落ちた地面を踏んで進んだ。少し早足で、もちろん迷うことなく弥恵は秘密基地にまで辿り着いた。

インターフォンを鳴らした。中に比呂巳がいるのなら、鍵の開いた窓を探す必要もないし、体に無理な姿勢をとってもらうこともない。比呂巳がドアを開くまで弥恵が感じていたことは、比呂巳は秘密基地で一体私の知らない何をしているのだろうという寂しさだった。

面白いことをしてるんだったら、私を誘ってくれてもいいのにさ……。

弥恵は少し拗ねた。

「はい、はーい」

ドア越しに聞える、うららかな比呂巳の声がなんだか妬ましい。このまま手帳を投げつけてやろうか。そんな風に思う自分の気持ちが、さらに分からなくなる弥恵だった。

 そして、比呂巳の姿を視界に入れた途端に、弥恵の頭はふわふわと浮き足立って、ツンツンし始めた。直視できない。それが不自然なのは分かっているけれど、ここ最近、比呂巳の目に目を合わせるのがコルネットを上手に吹くよりも難しいことのように思えた。弥恵は比呂巳の形のいい顎のラインに視線をちらちらとやりながら、秘密基地の玄関に入り、靴を脱がずに、手帳を差し出し、用件を短く言った。

「こ、これ、比呂巳の手帳だよね?」

 けれど、比呂巳はうんともスンとも言ってくれなかった。投げたブーメランが戻ってこないとき感じる不安に襲われた。

 どうして返事をしてくれないの?

 弥恵は視線を足元からゆっくりと持上げた。その視線で新たに捕らえたのは、比呂巳の手にあった、まるで近世ヨーロッパの哲学書だった。そして、その哲学書には伊勢丹のシールがペタリと張られていた。

……それは、……つまり、はてまた、どういうことだろう?

比呂巳は、私の気持ちを知っちゃった、ってこと?

そういうこと、になる、のかな?

 弥恵は恐る恐る目線を上げて、比呂巳の表情を確かめた。

 お凸に張り付いた前髪。

 湿った形のいい唇。

 上気したピンク色の頬。

 そして、もの欲しそうに潤んだ瞳。それは弥恵を見る目ではなかった。

 恋人を欲しがる目だった。

「比呂巳?」比呂巳の全てを確かめたところで、哲学書が床に落下した。比呂巳のも、弥恵のも同時にだ。

 まさかの事態だった。比呂巳からキスされたのだった。情熱的だった。弥恵は玄関のドアに押し付けられた。弥恵の充血しきった瞳は比呂巳の目蓋に閉じられた瞳を探していた。比呂巳の気持ちが分からなかったから。

 でも、比呂巳の唇は柔らかくて、弥恵の一抹の疑問を吹き飛ばすほどの強烈な弾力を持っていた。気持ちよすぎて、もう何もかもどうでもよくなった。サンクチュアリだった。体に力が入らない。比呂巳を支えきれなくなって、弥恵は床にお尻を付けなければならなくなった。比呂巳は弥恵に覆いかぶさるようにキスを続けた。まるで、まるで…………、いい比喩が浮かんでこない。


【トリプルアンコール】


 さて、《媚薬の研究》、その成果をまとめよう。

 ある保健医は媚薬について、こう証言した。

「……何事も、薬に頼ってはいけないわね。反省、反省」

 ある社会科の教師はこう証言した。

「薬に頼るとロクなことがない。頼ろうとしている時点で、薬の魅力にやられてしまっているんだろうな。確かに起死回生の術だが、……まだ、俺には早すぎる」

《媚薬の研究》、それは保健医と社会科の教師に薬に頼ってはいけない、という一般常識を叩き込み、二人の人生を正しい方へ軌道修正した。

それはいいことだ。

けれど、《媚薬の研究》の副産物として、ヒヨコ程度の不幸が産まれてしまった。

 実の姉妹のキスと幼馴染のキスが畳み掛けられるように発生してから数日が経過したある日の放課後のことだ。

 エルとアリーナは養豚場から二十メートル離れた場所に、乾いた藁葺きをポンポンポンと敷いて、その上に寝そべり、黄昏時の二十分前の秋が騒いでいる空に顔を向け、他愛のない会話を楽しんでいた。エルの腹の上には黒ブタのピエールが気持ち良さそうに寝ている。時折、小さな笑いが起こった。

「あっ、そういえばな、」

アリーナが国語より少し濃くて、文学を少し薄めたような話ばかりするので、エルは難解な暗号文の哲学書の話をして聞かせようと思った。エルはその哲学書を常に持ち歩くほどに読み込んでいた。元来パズルとか、ルービックキューブとか、テトリスとかにのめり込んでしまうたちであったので、エルは暗号文の解読に着手していたのである。しかし一向に解読は進んでいなくて、「もうただのつまらないポエムなんじゃないのか?」と諦めかけていたところだった。エルは枕にしたカバンから、その哲学書を取り出しながら言った。

「この前、つまらないポエムを手に入れたんだ」

「ポエム?」

「うん、ポエム。一見、凄いこと書いてありそうに見えるんだけど、繰り返し読むたびに実につまらないポエムなんじゃないかって思えるポエム集。もしかしたら、アリーナなら、このポエムの隠された本質やら意図やら見抜けるかもしれないな。ま、このポエムを書いたやつはきっとひねくれた野郎に決まっているから、もしかしたら、志が適当に書いたのかもしれないしそんなことは、どうでもいいんだけどなぁ」

 エルはアリーナに哲学書を差し出した。「ほい」

途端、アリーナの抑揚のない瞳が、ゆらっと動いた。その哲学書は、紛れもなくアリーナの詩集だったから。伊勢丹で買ったダイアリーに、アリーナは詩を綴っていたのであった。アリーナは志を呪うような目をした。だって、エルがこの詩集を持っているってことは、志がエルに渡した、それ以外に考えられないから。エルには絶対に見せないでって、言ったのに。「志の……、バカぁ」

 アリーナは伏せ目がちに、エルの耳元に届かないくらいの小さな声で呪詛の念を呟いてから、

「エル、コレはポエムじゃなくて、詩よ」と語気強めに言った。「ポエムじゃない、詩なのよ」

 ソレはアリーナにとって、決して譲れない部分だった。ポエムなんて、しかし、エルはコレばっかりは譲れないとばかりに、

「いやいや、コレはポエムだって。アリーナも読んでみたら分かると思うけど、コレは詩じゃなくてポエムなんだ。書いてある内容を全部噛み砕いて、消化してはいないけど、でも、コレはポエムだってことだけは分かるんだ」

「ソレはエルの、エルヴィーン・クイード・コンベルハイアーの世界が判断していることでしょ。フランスの文壇はきっとコレをポエムと認めない。フランスでは、きっとコレは詩に分類分けされる。うん、きっとカテゴライズされて、オーソライズされるわ」

 アリーナは「ふんっ」と鼻息荒く、頷いた。

「今日のアリーナはなんだか強情だな、」エルは、そんな細かいこと、まあ、どうでもいいんだけどな、別に詩かポエムか、そのことで宗教戦争になった例は……、なんてぼーっと思いながら、エルは気付いた。「……ん? っていうか、アリーナはまだ一度もポエムを読んでいないじゃないか。どうしてそんな風に意固地になるんだよ」

「……だって、」アリーナは問われ、ピンク色で恥ずかしがって、

「コレ、私が書いたものだから……」と顔を背けた。

 約五秒の沈黙が到来した。その間、エルはハゲワシにつままれたような目をしていた。そしてどういう反応をすればいいのかと悩んだ。すでにハゲワシにつままれたような反応はしているのだが、エルは無表情を貫いていると誤認している。

 ともかく、大事なことはアリーナの詩集と《知らず》に、好き放題にポエム、ポエムと言っていたことを知らせなければいけない。不慮の事故だと世間に知らしめないといけないのだ。

「えっ!? このポエム、じゃないえっと、その、この詩はアリーナが書いたのか?」

 詩がいくらポエムに仕上がっていても、隣の彼女が嫌がるのなら、即座にポエムは詩にカテゴライズされ、オーソライズされる。エルとアリーナの関係は、常にそんな感じだった。弥恵と一緒にいるときの横柄な態度はどこへやら、エルの全身にはサウナに十二分閉じ込められたときのような、必死な汗が浮かんでいた。

「そうよ、私作よ」

「い、いやぁ、気付かなかったなぁ。あっ、はははははっ」

「つまらないポエムでごめんなさいね。エルには、一人称が《あたし》のなんちゃってポエムにしか思えなかったのね」

「い、いや、その、うん、じゅ、充分、アリーナのポエ、じゃなかった詩は面白いって、なんていうか、その、」エルは頭を捻って比喩を搾り出す。しかし、人間切羽詰っていると、本音しか浮かんでこないもので、

「迷路みたいでさっ!」

 とつい本音が出てしまった。迷路みたいなポエム、本音はソレだった。エルはご機嫌取りに失敗したことに、アリーナが「はぁ」と嘆息した頃にやっと気が付いた。

「もういい」

 そのそっと遠ざけられたような一言がエルには辛かった。慌てて言葉を足そうとしてももう遅い。アルコールランプで足の爪をあぶられたような気分だった。エルは弥恵の前では見せたこともないし、未来永劫見せることは絶対にないと思われる情けない顔をして、

「そ、そんなぁ」と呻くばかりである。怒鳴られたり、罵倒されたり、金属バットで叩かれる方がいっそのこと分かりやすかった。アリーナは怒っているとすんなり理解できるから。でも、横顔を見ていても、アリーナの気持ちは薄っすらとしか分からない。

 多分…………、何かを真剣に考えてる? と、エルはアリーナの心情をうっすらと読み取った。だから、このタイミングでアリーナの口から出てきた人物は、エルにとって、つまりムカつくやつだった。

「志には、エルに詩集を絶対に見せるなって言ったのに……」

「ん?」ゆき? 雪? 志、だって? 「ななな、なんでアリーナのナイーブなポエムの話に志が出て来るんだ? っていうか、私の知らないところでアリーナと志は会っていたのか? まさか、メルアドとか電話番号とか教えてないだろうな?」

アリーナはうっとうしそうにエルの瞳をチクリと見てからゆっくりとそっぽを向いて、

「エルの……、バカ」

 とおかしそうに呟いた。そして、エルにその表情を見せないようにアリーナは養豚場に駆けていった。

 さて、エルは、

「アリーナ……」と占いの館を裏路地に開きそうな項垂れ加減で、力のない右腕を持上げていた。


『《媚薬の研究》。それは人が安易に手を触れてはいけない禁断の領域である』


そのことを言ってみたくて、私はピアンネ娘たちのノンフィクションを借りてきた。彼女たちの日常はキラキラと輝いていて、正直で、真っ直ぐで、躍動していた。

そして何より、彼女たちのありふれた、あらゆる言葉は自分自身が根拠となって出てくる言葉だから、揺らがない。証拠を外から持ってくる必要がない。言葉の説得力は彼女たちに担保されている。

私には言えることが何もない。

でも、私は彼女たちの物語を担保にすることで、やっと一つのことを言える。

きっとまた、私は彼女たちの物語を借りて、何か言ってみたいと思うんだ。


                                    了



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