第六幕
【34】
貯水湖の周囲には、一面天然芝が広がっていて、ピアンネの生徒たちの憩いの場となっている。
放課後の湖畔には、夕日が反射してぼんやりと哀愁が漂う。
その水面に目を落としながら、エルと弥恵の二人は紅く染まったクヌギの木を背にして、寄り添い合うように座っていた。いや、寄り添うというよりは弥恵はエルに後ろから抱かれていた。
出会ってから、すでに一週間以上経っていて、二人はいつの間にやら抱き抱かれる関係になっていた。バルチャーとして幾らか共に出撃したし、風呂で何回互いの裸体を拝見したか知れないし、弥恵は暇が出来ればエルの元に訪れていたから、次第に、自然とこんな風になっていたのだ。
もちろん、エルにあんなことやこんなことしたいだなんていう、やましい感情はない。ただ、出来の悪い妹が出来たような感じだった。ほっとけない。それに抱き合うなんて、女同士だから、普通だろ? そんな按配である。
一方の弥恵はもうちょいっと関係が進展したような気になっていた。あと、もう少しでエルがロザリオを渡してくれるかもしれない、なんて思っていた。そんなアニメみたいな制度は、ここピアンネには存在していないのだが。
ともあれ、弥恵がエルに頻繁に会いに来る理由は、会いたいという理由以外にあった。合理的で、言い出すことに勇気のいらない理由だった。
とどのつまり、弥恵の手帳はまだ見つかっていなかったのだ。
エルは手帳を探すのに手伝うと約束した。盗撮の記録がつぶさに書かれていると思われる手帳だ。思われる、というのは、エルは弥恵に手帳の詳細を聞いていなかったからだ。エルは天秤に掛けた。弥恵の盗撮の罪と、弥恵がエルに見せる計り知れない謎の魅力だ。エルは弥恵の魅力がズドンと重いと確信した。盗撮あり気で、この十歳の勢いは利益だと認めた。
エルが弥恵に会う理由はソノ魅力だ。この一週間、弥恵はエルを大いにゾクゾクさせてくれた。まあ、ソレばっかりではないけれど、こうして弥恵を抱きかかえているのはそういうことだった。そうしていると、ずーっと生まれたときから一緒にいたような気になるから不思議だった。凹凸がガッチリフィットした感じで安心できる。弥恵はエルにとってかけがえのない十歳になっていた。もちろん、ハズいから口に出しては言わないけれど。
「もう見つからないんじゃないか?」
「……諦めろってことですか?」
弥恵は湖畔を睨んだ。
「……諦められないよなぁ、」手帳の大切さをエルは重々理解していた。弥恵はそれで死のうとしたり、死のうとしたり、死のうとしたりしたのだ。「諦められるわけないよなぁ」
弥恵はエルのない胸に後頭部を押し付けてくる。そして、ぐずるように「うー」と唸って、エルの細い指に自分の指を絡ませてくる。まるで知恵の輪をもてあますような具合だから、エルはそのセックスアピールに気付くことはない。
けれど、そういった男女の……、女同士の機微に聡い燦獄三国は薄々、というか、出会った頃から弥恵はそういう子なんじゃないかと気付いていた。だから、
「何、二人でレズレズしちゃってんのっ!」
と三国は二人の愛撫の背後に声を掛けた。全く、三国の登場を想定していなかった二人はビクリとなって後ろを「んあー」と窺って一言。
『レズなもんかっ!』百合ですよっ! 百合! それは弥恵が必死で心に留めた意見である。瑣末なことが紛争の引き金になりかねない今日この頃、百合かレズか、そういった瑣末なことは弥恵の中では重要だった。が、カミングアウトの準備が出来てない弥恵はぐぐぐっと堪えた。
いつか、三国先輩もこちら側に……、なんて思いながら。
その三国先輩は二人の隣に腰掛けた。さっきの言葉と裏腹に、まるでレズレズするように、エルと弥恵に密着する。
三国は別段、レズかレズでないかのこだわりはないようだ。と、そんなことより、エルは気になった。
「今日は勉強するからって、早く帰ったんじゃなかったのか?」
「そういう予定だったんだけど」
「明日の数学のテストはなくなったのか?」
「いいえ、なくなってないんだけど」
「じゃあ、もう磐石なのか? そのテストは一晩掛けて勉強するほどでもないって判断したの?」
「そうじゃないよ。テストの予定も難易度も、私の数学に対しての免疫もなんら変っていないんだけど」
やけにきざっぱく話すので、エルは、なんだよぉ、と少したじろぐ。その懐の弥恵がキャッキャと言う。
「三国先輩、私に会いに来てくれたんだ」
「まあ、そういうことかもね」
「うれしいっ!」弥恵はエルのまな板から、三国の桜餅ほどの胸に乗り変えた。エルはなんだかおもちゃを取られたような顔で、くやしくないもんと強がっている。それを見ながら弥恵はうしし顔だ。
そんな、うしし顔に三国は一枚の用紙を広げて見せた。
「もしかしたら、弥恵ちゃんが探している手帳って、近世ヨーロッパの哲学書みたいなのものなの?」
三国の手にあったのは第一新聞部の発刊する『ピアンネ日日新聞』だった。外見はニューヨークタイムズのようなタブロイド紙。中身は専らピアンネで起こった規模は小さくとも奇想天外な事件の数々。生徒数が多すぎるピアンネにおいて、ネタがなくなる、なんていう状態は起こらない。だから、巷で言う学校新聞を日刊で出しても、内容が軽くなるなんていうことはなかった。その新聞はもちろん無料配布で、各玄関入り口に毎朝ズドンと投下されている。
別段、三国は熱心な読者、というわけではないのだが、今日はたまたまクラスメイトと一緒に新聞を読んでいた。そしてそれを話の種に笑い合っていた。笑い合っていたところ、ふと、新聞というものはさまざまな機能を持っていることに気が付いたのだ。
それは《遺失物拾得欄》。簡単に言うと、こうこうこういう落し物を拾いましたので、心当たりのある方はここに来てください、ということが書かれている欄だ。
さて、十月十五日付けの新聞、その《遺失物拾得欄》には何が書かれていたのか。
遺失物はかなりあった。腕時計に傘に携帯電話にブラジャーに壷。三国は紙面のとある場所を指で差した。アイドルポスターとプラモデルの間、そこにはこう書かれてあった。
《十月一日、外観はまるで近世ヨーロッパの哲学書のような書物を取得。心当たりの方は草笛寮二〇一号室の豹然まで》
【35】
志に第二の脅迫状を送りつけて一週間、藤原はなんのアクションも取れずにいた。比呂巳に教師の威厳を保つために、十四歳の少女をロリコンするなんてバカな話だし、藤原はロリコンでもないし、女子をみてムラムラするなんてここ数年なくなっているから、そんな事件じみたことを起こしようがない。だからと言って、他に『媚薬の研究』を志から、それとなぁく奪い返すなんて巧妙な手段、思い浮かばなかった。
だから、藤原は放課後の職員室でコーヒーを啜りながら考えていた。
『比呂巳は俺がホモセクシュアルであることを知っている。それは滅茶苦茶恥ずかしいことだ。生徒と教師の禁断の愛よりも、ある意味で禁断ではないのか? 今さら手帳をなくして比呂巳に対しての威厳が傷つくくらい大したことはないんじゃないか? それに、比呂巳は最強だ。最強の娘だ。手帳ぐらい、許してくれるはずだ』
そこまで考え、ふと、比呂巳の言葉を思い出す。
『大切な人からもらったものだから……』
そうなのだ。歴史の年号が羅列された宿題のノートとは違うのだ。
なくした、なんてとてもじゃないが……。
ふと、そんな藤原の目に留まったのが、隣の席の森川が広げていた『ピアンネ日日新聞』だった。この新聞は、普段の生徒の本性をあまり知ることの出来ない教師たちの間で人気が高かった。この学園の生徒は教師に教師以上のものをあまり求めないから、生徒たちの動向を追うためには、その新聞は欠かせなかった。それに、第一新聞部の精鋭たちの記事は笑えた。彼女たちの文章には基本があって、ユーモアがある。現実逃避には丁度いい。
藤原のもの欲しそうな目線に気付いたのか、森川が一瞥くれて、「読む?」と畳んで差し出してきた。
「ああ、すまん」
「この頃、君の目は生きながら死んでいるようだけど、何かあった?」
灰色のスーツの上に白衣というピシッとしたいでたちの森川は鋭い微笑を浮かべている。まだ、藤原が普通に結婚したことを根に持っている、という感じではなく、純粋に男好きの森川は純粋に藤原のことを心配してくれているようだ。そこが、森川のいいところで、やりにくいところでもある。
藤原は心配されるのにあまり慣れていない。「いや、別に……」
咳払いしながら言葉を濁す。そんな藤原の態度に、これ以上口出しするべきではない、ということを感じて、森川はブルーの付箋の付いた科学雑誌を広げた。
と、そのときだった
ぶーっ、と盛大に藤原が口に含んだコーヒーを噴出したのだった。
一秒、驚いてから、森川は冷静にハンカチをポケットから取り出して、藤原に差し出した。「おいおい、なにやってんの、面白い記事でも見つけて、ツボに突き刺さったのか?」
森川は一瞬、そんな風に考えたが、何やら藤原の瞳は演算をしているように動いていなかった。全身の動作も停止していた。だから、森川はハンカチで藤原の口元とコーヒーが飛んだ机の上を拭かなければならなかった。しかし、様子がおかしい。
「?」まるで南米の鉱山から金塊を発見した風な表情だ。「正史?」
問いかけられ、「ああっ」と額に手をやりながら、森川を一瞥。そして演算が終了した精気の充填した瞳で森川をキッと見つめた。それはそれは魅力的な瞳だった。
「なあ、利洋、君、確かに科学教師だったよな?」
森川はうん、と頷いて、コーヒーがべっとりと付いた《遺失物拾得欄》を視界の隅に入れた。どうして、藤原がそんな当たり前のことを聞くのか分からなかったから、そこにヒントが隠されていると思ったのだ。けれど、藤原の次の小さなボリュームの一言にさらに分からなくなった。
「睡眠薬って直ぐに作れるか?」
森川はとりあえず、うんと頷いた。睡眠薬など学校にある材料を駆使すれば、化学式を解くよりも容易いことだった。
【36】
草笛寮二〇一号室では京子、綾、そして志が今やおそしと、ロリコンの登場を待っていた。
志たちが出した広告が新聞に掲載され始めてから三日経つ。
広告を見たロリコンはきっと逆上して、この部屋に乗り込んでくるはずだ。そいつを先日志が捕まったように捕まえる。そしてボッコボコにして、アリーナの養豚場の仔豚たちの餌にしてやる、というのは冗談だが、それ相応の制裁を加えてやるつもりだった。
そろそろ、《遺失物拾得欄》のあの広告が、ロリコンの目に入る頃合だろう。そしてロリコンがこの部屋にのこのことやってくる頃合だろう。まあ、この方法で駄目だったら別の方法を考えればいい。ロリコン野郎をとっちめる別の方法を。
志の鼻息は荒かった。もうすっかりテルミンのことなど忘れている様子で二段ベッドの下の毛布に潜り込んで、ドアの外の気配を窺っていた。京子と綾も、同じ毛布に包まっている。しかし、二人は志と違ってすっかり冷めている様子だった。なにせ、三日も同じ体勢でロリコンが罠にかかるのを待っているだけなのだから、当初は義憤した二人も、なんらロリコン側からのアクションがないので、脅迫状なんてただの嫌がらせじゃないの? なんて思い始めていた。
銃を持った敵がいないゲームは退屈だった。志が隣にいなければ、さっさと寝オチする状況だ。
「志様、本当にロリコンはやってくるのでしょうか?」
綾は志の体を探りながら言った。
「うむ」志は力強く返事をする。そして、薄暗い二段ベッドの下で志と綾の顔は急接近した。志が綾を導くように話し始めたのだ。ロリコンの生態について。「パソコンの授業中、暇だったから《ロリコン》でググってみたんだ。ざっくりとスクロールしながらあるブログを見つけたの。そのブログに書かれていたざっくりとした分析によるとね、ロリコンは、メガネ美人、挑発に直ぐに乗る、キレやすい、ルールを遵守する、優しい、すぐにテンパル、頑迷で、ワイルドで、クール、意外と人望が厚い、しかしその人望を有り難いと思いながらも、どこかでバカにしている節がある、そしてレズビアン、というのがブログ主のいうロリコンの特徴なんだって。そして主はロリコンを人生の落伍者と言い切っていたわ、半ば自嘲的にね。ブログ主はロリコンだから。そして、最後に主が上げているロリコンの重大な特徴はね、凄まじい所有欲なんだって」
綾は内心、気が気でなかった。なんだか、所々ロリコンの生態に綾が自認するところの生態が合致していたから。
凄まじい所有欲、……確かに志様への思いは、所有欲……かも。
でも、私はロリコンじゃないし……、いや、良く見れば志様はロリ顔……。
綾が自分は半ばロリコンだと認めかけている横で、志は言い切った。
「必ずロリコンはやってくるわ。ブログ主、ハルカって言う人なんだけど、その人の分析はざっくりしすぎて賛否両論あるかもしれないけれど、ロリコンは所有欲が強いっていうのは頷ける。ロリコンはこの『媚薬の研究』を取り返しにやってくるに決まってる。人生の落伍者はココにやってくるわ。そして私たちの罠にまんまと嵌められるんだ」
人生の落伍者はどんな手段を使ってくるか分からない。そのために武器はいろいろと揃えてある。サバゲー用のモデルガン一式と金属バッドとスコップとヘルメット。少々、心もとないが、好戦的な三人娘には武器はコレくらいで丁度いい。三人には恐れの感情はまずなかった。どちらかというと、キャハハハハハハってな具合に金属バッドでロリコンを撲殺したくてうずうずしていた。そんな風に一番うずうずしているのが、綾だった。しかし、肝心の標的がなかなか現われない。
「ねぇ、京ちゃん」綾は志の向こう側の京子に声を投げた。「ロリコンはいらっしゃると思う?」
「………………………………………………………………すぴー」
京子はすやすやと寝てしまっていた。そういえば、先ほどから志の戯言に一言も突っ込みを入れていなかった。
「京子ってば、勝手にシエスタしないの」志は京子の額にデコピンを決めた。すると、
「んあ?」と夢から飛び降りてきた。半開きの目によだれというわかりやすさ。
「緊張感がない」ピシャリと志が京子の鼻をツンツンした。「この体たらくでは先が思いやられますな」
京子は「…………」と、その言葉を無視して壁の方にぐるんと寝返ってしまった。
「コラッ、京子っ!」
志はこっちに顔を向かせようと腕を引っ張る。京子は早朝の「あと五分っ!」とばかりに譲らない。珍しく立場が逆になっている。
「いやぁ、張り詰めた糸もさすがに弛緩してしまいますよ」無言の押し問答の脇で、綾は食堂のチョコレートパフェに思いをはせながら言った。「ピアンネ娘に、この退屈は堪えかねます。京ちゃんでも寝ちゃったんです。私の退屈も志様がどうにかしてくださらないとどうにかなりそうです。発狂してしまいます。ヒステリーを起こして謀叛を企てるかもしれません。さて、志様は私をどうにかしてくださるのですか?」
志は京子を引っ張るのを止めて、ゴロンと綾に向き直って聞く。「…………どうにかって、例えば何よ?」
その生真面目な顔、まるでどうにかしてくれるような品のある道徳的な顔、それはペロペロ出来るくらいに近かったから、綾は持ち前の恥ずかしがり屋を発揮して、
「もう、言わせないでくださいっ!」と、ゴロンと壁の方を向いてしまった。
「なによぉ」
志は眉をへの字にして、非協力的な親友たちに向って「うー」と唸った。
そんな中睦まじい三人娘の情景がパヤパヤと漂い始めたときだった。
コンコン
と、扉がノックされる音が草笛寮二〇一号室にこだました。綾、京子、そして志の目付きが変る。鷹の目は扉を刺すように鋭く光った。イーグルスの三人は戦闘体制に移る。毛布の中で、いつでもロリコンを撲殺できるように身構えた。武器を持つ。京子はスコップ、綾は金属バッド、志はメリケンサックを拳に装着した。
さあ、来るなら来いっ!
「どどどどどどどなたぁあ?」
武者震いで声が上ずってしまったのはご愛嬌、志の爆竹のような声は扉の向こうのロリコンに確実に聞こえたはずだ。
返事を待つ。まあ、ロリコンは返事などしないで、強行突破してくるはずで、まんまと罠に嵌まるという未来が出来上がっているのだけれど。が、しかし、どういうわけだか返事があった。「私よ、アリーナよ」
え? アリーナ?
アリーナと聞けば、まず真っ先に思い浮かべるのはローマのコロッセオだろう。続いて日本の横浜アリーナと埼玉スーパーアリーナが続く。それが志の通常の思考形態で、そのどれにも行ったことはないが、志の小さな夢は埼玉スーパーアリーナでトリプルアンコールを決めることだ。まあ、今はそんな夢の話はどうでもよくて、ココでのアリーナは人間のアリーナだ。
アリーナ・レイアス。フランス生まれの留学生のアリーナ。志が憧れてやまない透き通る金色の髪の毛の持ち主のアリーナ。瞳は大きく、薄い紫色をしていて、いつだって眠たげなアリーナだ。
要は扉を叩いたのはアリーナである、そういうことだ、大事なのは。それを理解するのに志は五秒かかってしまった。だから、アリーナがノコノコと罠に嵌まるのを、ベッドの中から見守るしかなくなった。
アリーナはドアを押して入ってきた。薄い金髪がさらさらと優美に揺れている。
「ごきげんよう、志」と伏せ目がちに、優雅に言いながら、ふんわりという空気をこさえたアリーナはまるでお手本のように罠にかかってしまった。
「!?」ロープの網に包まれて、脳天が天井にくっつくくらいに近づいたアリーナはキョトンと説明を求める顔をしている。「え? なに?」
なるほど、私もあんな風に捕まったわけか、良く出来てるなぁ。
志はどうやって謝ろうか考えながら、精巧な罠に感心していた。いや、そんな風に感心するより、アリーナがお披露目しているパンツの色をチェックするより、予想を見事に裏切る挑発的なブラックだった、いやいや、そんなことよりアリーナを罠から開放するほうが先決だ。
なんて考えて慌ててベッドから這い出ているうちに、京子と綾はすでにもうアリーナを罠から脱出させていた。製作者だけあって手際がいい。
ともあれ、三人は『あはは』と愛想笑いを浮かべながら、一列に整列し、まだまだ説明を求める顔をしたままのアリーナに頭を下げて謝った。『ごめんなさいっ!』
「……謝られても困るわ」
声に抑揚がなく、限りなく無表情なので怒っているのか、許してくれているのか、本当に困っているのか分からない。けれど、
「志は楽しい女の子ね。新しいアトラクションか何か?」
なんて言っているから、怒っているということはなさそうだ。
「アトラクション? うん、まあ、そんなところかな。あはは」
ひとまず三人はほっと息を吐いた。ロリコンを捕まえようとしていましたところ、アリーナを捕まえてしまいましたなんて言えるはずが、……別に言っても構わないか。まあ、このチープなロリコン捕獲作戦は三人のチープで大事な秘密である。アリーナは可愛いけれど、元バルチャー、つまり部外者だ。
でも、どうして部外者のアリーナがこの二〇一号室に?
まさか、逢引的なかしましかしら?
綾はなんだか喧嘩腰で、ずけずけどんと居丈高にアリーナに聞いた。「アリーナさんはどうしてココにいらっしゃったのかしまし?」
「かしまし? それは日本語なの?」
「古典です」
「へぇ、」留学生のアリーナは手の平を合わせてうっとりと綾を直視して感心しているご様子だ。「綾は才色兼備ね」
「!?」
上目遣い、そして呼び捨てにされてドキッとしたのは、柔らかい大福のようなほっぺたに隠しておく。
「使い方、間違っていた?」
それはきっと才色兼備という言葉についてだろう。使い方という点では間違っているわけではないが、才色兼備はきっと志様にふさわしい、と綾は生真面目に「その言葉は人並みはずれた美貌と才能を持った人にしか使ってはいけませんよ。私を形容するなら、さしずめ鶏鳴狗盗というところでしょうね」と教えた。「それはともかく、アリーナさんはどうして志様のお部屋にっ!?」
「いけない、いけない、」アリーナは綾が発する突風のような雰囲気をのらりくらりと中和しながら、「アトラクションに驚いて忘れるところだった」と、鞄の中から一冊の書物を取り出した。
その書物はまるで近世ヨーロッパの哲学書のようで……、ってあれれ?
アリーナが差し出した一冊の書物は瓜二つだった。何にって、ロリコンが付け狙う『媚薬の研究』にそっくり、というか、そのまま一緒だった。唯一の違いは図書館のものである、というシールが添付されていないという点だ。代わりに伊勢丹のシールが表紙の隅に貼ってあった。
志は優しく受け取りながら、聞いた。「アリーナ、コレは?」
「約束したでしょう」
「へ?」
「私の詩を読みたいって、志は言ったでしょう?」
志は記憶を辿った。ああ、そういえば、黒ブタのピエールを借りに言ったとき、そんな約束をしたようなしなかったような、まあ、こうしてアリーナが部屋にまで来てくれたってことは約束をしたのだろう。「あっ、うんうん、覚えてる。ありがとう、わざわざ寮までもって来てくれたんだ」
「……その顔は、今の今まで忘れていたって顔だ」
ギクッ。
「それに、詩なんて興味ないっていう顔してる」
ギクッギクッ。
「そ、そんなことないよっ」アリーナの瞳が透明すぎるから、志の心はビシバシと痛み、もう、アリーナの詩を読みたくてしょうがなくなった。「実はずっと、待ってたんだ、アリーナのポエム」
「……ポエムじゃない」珍しく悲しげな声音が漏れている。「私の詩はポエムなんていう、薄っぺらいものじゃない……」
「ええっ?」志はどうしようもなかった。だって詩とポエムって一緒じゃん。どうしてアリーナが悲しむのか訳分かんないよ。
そんな風に天っぱってる志に京子が小さく耳打ちした。
「志様、ポエムと詩は違うんです。例えて言えば携帯小説とライトノベルぐらい違います。それらは微細な違いですが、解釈の違いで起こる宗教戦争を上げるまでもなく、当事者にあっては大きな問題なんです」
京子の講釈をすんなりとは解釈できなかったが、ともあれ、詩=ポエムと判別すると宗教戦争が起こってしまうのだということは分かった。それは大変だ。
「ご、ごめんなさい、アリーナ。さっきの発言は只今、無間奈落に叩き落としたよ。アリーナは詩を書いているのよね。大丈夫、バッチリ理解したから」
「うん。……でも、そこまで言われると逆に嫌ね」
ええっ!?
「そんな顔しないで、別に詩とポエムの違いなんてそんなに気にしてないし……、ごめん、嘘。私は詩を書いているのよ、志。それだけは知っていて。ポエム作家というカテゴリーに私を入れないでね。私が書くものを詩とみなしてくれればいいの。日本語は難しいけれど、出来るだけポエムにならないように頑張ったから。志は私が書いたものを詩だと思って読んでくれたら、それでいいから」
凄く真剣にアリーナは志を見つめてくる。言い終えると、左右の京子と綾の瞳も一瞥した。「よかったら、二人にも私の詩集を読んで欲しいな。それと、私が詩を書いていることは、くれぐれもエルには内緒だからね」
アリーナはシャンゼリゼ通りを散歩する貴婦人のかぐわしさを残して、草笛寮から去っていった。残ったのは一冊の詩集だ。それは志の手の中にある。志と京子と綾はそれをじーっと見つめた。そして同じことを思った。
この詩集はアリーナの全てだ。……覗きたい。
志はおもむろに詩集を開こうとした。しかし、綾は横からすっと奪い取る。
「志様は詩にご興味がないようなので、まずは私が、」
「別に興味ないなんて表明してないわ。返しなさい、あーや」
まるで子猫のじゃれ合い。そしてまさに漁夫の利の様相で、すっと京子がアリーナの詩集を引っ手繰った。じゃれ合っている二人を背に詩集を捲る。『あっ』と遅ればせながら気付いた二人は京子にのしかかった。『私が先に読むのっ!』
ああ、かしましい、かしましい。
と、そんなかしましい草笛寮二〇一号室に、またもや来客が訪れた。
ノックもせず、日本の公務員のように、けたたましく踏み込んできたのはバルチャーズの面々だった。その先頭の弥恵の頬は上気していて、純な黒目はいつの間にやら志の手に戻っていたアリーナの詩集に向けられている。
「弥恵?」志は丸い目をして、どうしてバルチャーズが? そして、どうして弥恵がバルチャーズの面々と一緒にココに? と思った。弥恵がバルチャーズで大活躍していることは知らなかったのだ。
「志姉ちゃん?」一方、弥恵は丸い目をして、どうして志姉ちゃんが私の大切な日記を持っているの? そして、どうしてまるで日記を取り合いしていたような体勢で、美少女二人に押しつぶされているの? と思った。しかし、ともかく、見つかって、よかったぁ。弥恵はほっと胸を撫で下ろした。
後ろに控えるエルはそっと弥恵の肩に手を置いた。「へぇ、二人は顔見知りだったのか。以外だな。志が寮暮らしだってことも。てっきり豪邸暮らしでのほほんだと思ってた。で、アレか? お前の探し物って」
「うん」弥恵はエルの手を触りながら頷いた。「間違いないです」
「よかったね、弥恵ちゃん」三国はまるで自分のことのように嬉しそうに言った。「コレでもう死ぬ死ぬ詐欺はなしだからねっ」
「はいっ」
「じゃあ、そういうことだから、」とエルは弥恵の横を通り、バルチャーズが万事解決! の雰囲気に目を白黒させている志の手から詩集を奪った。いや、奪おうとしたけれど、志はその詩集を全力で離さなかった。「……放せよ」
「い、や、だ」
「放せって」
「だから嫌だと言っているっ!」
「どうして!」
「だって、コレは、」アリーナの詩集なんだから! しかし、アリーナはエルには詩を書いていることを内緒に、と言っていたから義理堅い志は口を真一文字に閉じてから、適当に言い放った。「コレは音楽室前で拾ったポエムなんだ、だから、誰にも渡せな、」
「それは私の日記帳だもんっ!」
志の声を掻き消す弥恵の大音声。皆の視線が十歳の小さな体に集中する。「きっと、私。ソレを音楽室の前で落としたんです。私鼓笛隊に入ってるから、そのときにきっと落としてしまったんです。でも、詩は書いた覚えはありますけど、ポエムを書いた覚えはありません。あくまで詩です」
盗撮記録が連ねてあるとばかり思っていたエルは一瞬ポカンとしてから、
『なんだ、ポエムもとい、詩を書いた日記を落としたのか、なるほど、確かに死にたくもなるなぁ。だってポエムだろ、ポエム。まあ、ともかく見つかってよかったな』
と冷静に頷き、詩集を持つ力を引っ張った。しかし、志は一向に放そうとはしない。いつの間にやら、事情を知る京子と綾も加勢している。
だって、この詩集は弥恵のものじゃなくて、アリーナのものだから。
弥恵はきっと勘違いしてるんだって!
「志姉ちゃん、どうして返してくれないのっ!」
「そうだよ!」三国が最年長として、後ろから加勢する。「人のものは取っちゃいけないってママンに教わらなかったの!?」
「いや、だからコレは弥恵のものじゃないんだってば!」
「じゃあ、どうして遺失物拾得欄に乗せたりなんかしたんだよ!?」エルはぐっとマグロを釣り上げるかのごとく目一杯引き上げる。「お前たちのものじゃないからだろ!」
『どわあああ!』
ピアンネ娘が三匹、エルに覆いかぶさった。志はぺしゃんこになりながらも未だ詩集を放さずだ。
「弥恵、ほら、ココに伊勢丹のシールが付いているでしょ?」志は伊勢丹のシールを指差し言った。「弥恵の日記には伊勢丹のシールなんて付いてないでしょ?」
伊勢丹のシールをつけたまま詩を書くなんて、留学生のアリーナくらいのもんだろう、なんて志は甘く考えていた。偶然の一致、ソレは人知を超えて多々あるものだ。
「伊勢丹のシール……、」弥恵の目がバルチャーのように鋭くなった。八重歯がキラリと光る。「間違いない、ソレ、私の日記! 志姉ちゃん、返して!」
「ま、マジでっ!?」
これほどまで適当に言ったことが裏目、裏目に出てくると、もううんざり、という顔をせずにはいられなかった。もう言葉で弥恵を説得することは不可能に思えた。エル、そして弥恵も狂ったように詩集を奪いに来て、くんずほぐれずの様相だし、こうなったら、こうなったら、こうなったら……。
「ああっ、もうっ!」志は全力でのしかかる味方も含めて皆を振り払い、喉を引き絞ってがなった。しかし、うららかな透き通る声ということを断っておく。
「エマージェンシー発令!」
それはロリコンが予想以上に狡猾で俊敏な動きを見せたときのための、『媚薬の研究』を死守するための宣言である。
『了解!』
反応したのはもちろん京子と綾。二人はめいめいエルと弥恵を捨て身で組み伏せた。その隙に志は部屋の窓をガラッと開けた。秋風がヒュンと入り込む。ここは二階。簡単に飛び降りて脱出できる。
「じゅわっち!!」
志は幼児期を思い出しながら、特撮なポーズで窓の外に躍り出た。そしてかっこよく片膝を付いてスタッと着地、というわけにはいかず、バランスを崩し尻餅をついてしまった。「あいたた」だが、直ぐに体勢を立て直して、志は全身をバネにして、ダダダダっと地面を蹴った。駆け出した。全力で逃げる。
何から? 志の手にはアリーナの詩集。
弥恵の、バルチャーの目から逃げるんだっ!
志は当てもなく、草笛寮からピアンネの高等部の校舎へ向って走り出した。
その後を追うのは、
『待てぇーっ』と同じように窓から踊り出てきたエルと弥恵だった。……って、あれ? どうして捨て身で組み伏せられていた二人が?
部屋の中を覗いてみよう。両手を頭の後ろに回して机に頬っぺたをくっつけているのは京子と綾だった。そしてその背中に二丁拳銃を付きつけているのは燦獄三国の他に誰がいようか。「あなたたちは今、制服を着ているわね。さて、私がここでペイント弾を打ったら、つまり、……どうなるかお分かり?」
考えるまでもなく、クリーニングだ。
【37】
中等部校舎と高等部校舎に設けられている地下に埋め込められた円筒型の駐輪場から、自転車を引いてリンリンと出てきたのはいつぞやの女子だった。いつだったか、藤原の机の上から大量の本と一緒に『媚薬の研究』までも回収した図書委員の女子である。今日は、彼女、ルルルンとご機嫌な顔をしている。図書館の業務がいつもより早めに片付いたし、今日はご贔屓にしている作家様の新刊の発売日だった。いざ、駅前の大型書店に向いましょうか、とちょいときつめの顔も緩んでいらっしゃる。
ふと、そんな彼女の耳に入ったのは、
『待てーッ! コラァーッ!』という物騒な怒鳴り声。
「ん?」何事と、彼女が背後を振り返った瞬間だった。
「ちょ、ソレ貸してっ!」
突然、中等部の女の子が長い金髪をはためかせながら、ズドンとハレー彗星のように衝突してきた。毎日読書三昧の図書館の彼女は何もなすすべなく、自転車のハンドルを奪われ、コテンと尻餅である。
「はうぅ……」
柄にもなく女の子らしい悲鳴を上げながら、彼女は自転車に跨ってペダルを踏み始めた金髪の背を「いきなり、なによぉ。もう」と恨めしげに見送った。その彼女の両脇を全力疾走で通り過ぎたのは、黒髪と銀髪の少女だった。
『待てーッ! コラァーッ!』
【38】
正門にまで続く並木道の脇のベンチではちょっとした諍い(?)が起こっていた。いつぞやの深夜0時のテレフォンボックスで成立したカップルによって。
「いいよぉ、ミヤが後ろに乗りなよぉ」
「だめ。カノのおっぱいを背中に感じたいんだってば」
「私だってミヤに、ギュギュってされたいんだから」
「だったら、運転中におっぱいをまさぐっても文句は言わないでよ」
「おっぱいをまさぐったら運転できないよぉ。私はおっぱいでバランスを取ってるんだから」
「だったら、今触っちゃったら、どうなるの?」
「う~ん、多分、……こうなっちゃうかも!」
「や~ん(赤面)」
ご覧の通りバカップルの痴話喧嘩。その二人の世界に入り込まないのがこの国の常識であり、礼儀でもある。放っておく分には害はない。注視すると肘の辺りがむずがゆくなるから気をつけるべし。ほら、ミヤとカノのバカップルぶりを視界の隅に誤って入れてしまったどこぞの三人組は乾燥肌を掻くように、せわしなく肘の辺りを掻き始めた。
『なんか、かゆくね?』
さて、ベンチの半径五メートルを百合色に染めている以外に害のないバカップルであるが、ただ一つ、不敏に思えるのは、鍵が刺されたままで出発をいまや遅しと従順に待っているママチャリだろうか。擬人法を用いれば、ママチャリは今にも不可能を飛び越えたがっていた。つまり、ペダルを高速回転で漕いでほしがっていた。
それは、つい先ほど目の前を通り過ぎた、時速六十キロのママチャリのせいだった。その金色のハレー彗星のようなスプリントは凄まじいものだった。毎日のゆるい通学でたるみきったチェーンが震えた。ママチャリは己に問うた。
この世に自転車が生み出された目的はなんなのか?
それは、…………速さだ!
「じゃあ、お姫様っこして帰ろうよ!」
「一里毎に?」
なんて阿呆な会話をしているバカップルを乗せている場合ではない。毎日、毎日、後味が悪いんだ。でも、変に使命を全うしているような気がする。そう納得しながら、でも、ペダルの具合はぎこちないんだ。究極の二輪車はバカップルに付き合いながらくたばりたくはなかった。もう、限界だ。いつかバラバラに壊れてしまうのなら、自転車にお似合いの速さをくらってから、炸裂したい。
もしかしたら、ママチャリはそう思っていたかもしれなかった。
だったら、ソコヘ現われたエルと弥恵は救世主だ。
「おいっ、バカップル!」必死の形相のエルが問うた。「お姫様抱っこで帰るんだな!?」
突然の物言いに、ミヤとカノは慄きながらも、ゆっくりと頷いた。
「だったら、このママチャリはいらないな!」
キツイ断定口調。カノとミヤの「?」マークを差し込む隙間もなく、エルはママチャリに跨り、弥恵は荷台に飛び乗った。ママチャリは工場での出荷前点検ぶりに負荷マックスのギアをカチカチカチカチとチェンジした。
「しっかり、つかまってろよな!」
ぐぐっと弥恵はエルの体に腕を回し、背中に、というかお尻にほっぺをくっつけた。
エルは最初から立ち漕ぎ。全体重をペダルに込めた。
エルと弥恵を乗せたママチャリはピアンネの敷地から飛び出した。
【38】
女子寮へは並大抵の覚悟じゃとてもじゃないが入れない。
つまり、藤原は相当な覚悟をもって草笛寮二〇一号室前に来ているわけである。ココまでの道のり、まるでミッション・インポッシブルだった。
しかし横に立つ森川は覚悟も何も抱えてきてはいないようだった。さわやかなしょうゆ顔で、「堂々としていれば誰何されないと思うよ」とゆったりと言ってのける。「一応、教師なんだしさ、俺たちは」
「教師が睡眠薬を部屋に投げ込むなんていう怪しい行動を取ったりはしないだろ?」
「ホモな社会の教師だけだろうな。少なくともこの国ではね」
「笑うなら笑え」
「全部終わってから笑うことにするよ」森川はニヤリと目を釣り上げてみせるだけだった。同時に差し出された手には発炎筒型の睡眠薬。森川によれば、先っぽの糸を引っ張るとバルサンのように煙が噴出し、室内の哺乳類をものの三分で眠らせる、材料は企業秘密の即席の睡眠薬だそうだ。「で、マジでやるの?」
「やる」藤原は何も考えずに短く言い切った。考えれば考えるほど社会の軋轢に押しつぶされることは目に見えている。「今さら手ぶらで帰れるか」
「そういう一見実務的で慎重に見えて、意外と放胆なことをやってしまう、そのドロドロとした二面性、」森川はドアノブに手をやり、部屋の気配を窺いながら、さらりと口にする。「好きだよ」
「……人を勝手に分析するな」
「じゃあ、入れるよ」
森川は気のせいかもしれないがエロティックに言ってから、糸をぐぐっと引っ張った。すると短く小さい炸裂音がして、白い煙が立ち上る。すっと開いたドアの隙間から、部屋にソレを放り込んだ。すかさず、森川はドアを閉めた。部屋からはジタバタと慌てふためく物音と悲鳴。誰だって発炎筒的なものを突然部屋に投げ込まれれば、そのような反応を示すことだろう。ドアが内側から何度かタックルされた。藤原と森川は協力してドアを封じる。一分ほどで部屋の中は静かになった。睡眠薬が効いてきてのだろう。それからあと二分待つ。秒針が進んでいくのを待っている間は、まるでカップラーメンだった。
「よし、三分」森川が言って、ドアノブを回した。
部屋は予想通り静寂だった。静寂に寝息が二つ。志とルームメイトの豹然京子の寝息だろう、藤原は一瞬そう思って部屋の光景を差し替えたがったが、しかし、部屋の床にグデンと寝そべっていたのは、京子と、確か片吟綾という奇特な苗字の娘だった。その二人は、どういうわけか背中合わせでロープに縛られていた。
まさかのロープに藤原は目を白黒させた。その横で森川は冷静に睡眠薬の証拠を回収しながら、お目当てのものを見つけてくれた。「コレか?」
それは机の上にポンと置いてあった。藤原はペラペラと白紙のページを捲って中身を確かめてみる。「ああ、コレだ」
間違いなく『媚薬の研究』だった。藤原はあてつけに、深夜0時のテレフォンボックスで入手したポエムが書き連ねられた外装が瓜二つの日記帳を机の上の同じ場所に置き、その場からそそくさと退散した。ロープの娘たちのことが多少気がかりだったが、長居はしていられない。ここは男子禁制の女子の城だからな。
ふと、脱出に成功し安堵の溜息を吐いた藤原の脳裏に過ぎった人がいた。
嫁の陵だ。
草笛寮を去り際、藤原は森川にもう一つ依頼した。
【39】
繰九度大橋の架かる一級河川は愛甲地区と銘電地区を分かつ、流れの激しい、つまり濁流である。その川の両脇には三年前に整備されたサイクリングロードが中流域から下流域まで続いていた。志はサイクリングロードの存在を知ってか知らずか、ピアンネの敷地から出て、エルと弥恵から逃げ惑っていたら、いつの間にやらその川の匂いが染み込んだコンクリートの上をひた走っていた。
住宅街を車でのほほんと走っていたら、モナコのF1のコースに出てしまったような、そんな按配だった。
当然、志とエルのペダルの漕ぐスピードは上がっていった。コンクリートが滑らかでタイヤとの摩擦が絶妙なこともあるが、繰返される緩やかなアップダウンは両者のママチャリの回転数と勢い、ボルテージを上げていった。
サイクリングロードをひたすら上流に向って追いかけっこを続けて、気付けばエルと弥恵のママチャリは志とあと三十メートル、というところにまでつけていた。下り坂では二人分の重さを持った方が有利に働く。志の体重はエルよりもリンゴ○個分軽く、弥恵の体重よりリンゴ○個分重いから、つまりリンゴ○個分、下り坂では加速する。
しかし、上流に向っていくに従って、さすがにリンゴ○個分の重さを余計に抱えているエルの健脚にも疲労の影響が出始めた。製造番号が十三桁のペダルと引き締まった細い筋肉が張り付いた関節の連動がぎこちなくなる。が、しかし、このくらいの疲労は、エアロバイクの三十四分の壁に比べ大したことはない。人間が音速を超えたときの壁に比べたら、ドミノのような小ささと軽さと可愛らしさだ。
エルはまだ志に追いついていないのだから、まだ何も始まっていない。まだ振り出しになっていない。
このままでは負けだ。そして、求められるのは圧倒的な勝利だ。急げ、急げ、急げ、急げ、急げ。噴出す勢いだけで打ち立てたプライドが訴える。敗北感はいらない。ご免だ。想像したか? 苦い味がした。負けると思うと、苦くて顔が引きつる。保健室の匂いに包まれる。保健室の匂いは甘い、温い、優しい。その優しさは人間を堕落させる。エルは落ちたくなかった。後ろに下がりたくはなかった。昨日の自分より前にいたい。沸き上る粘っこい意地がある。
絶対に志を抜く。
振り落とされないように必死でしがみついている弥恵のためにも、だな。
「急ぐぞっ!」
エルは汗で濡れ始めた銀色の髪の振り乱しながら甲高く叫んだ。
「はい!」
雲を突き抜けるような弥恵の返事が、エルの背中を力強く押し上げた。
濃厚なシロップのような夕焼けが後方から押し寄せてきていた。が、黄昏ている余裕なんてない。うすぼんやりと青春を歩いている暇はない。ピアンネ娘に休息なんていらない。走り続けていないと、ピアンネ娘は退化する。進化の過程はゆっくりかもしれないが、進化の瞬間は全身全霊の疾走だ。回転だ。上昇だ。
サイクリングロードから抜けることの出来る、第三ポイントの侵入口、丁度逆三角のフラッグが立っている、志はその地点でママチャリの前輪を左に傾け、最高速度で左折した。段差でタイヤが音を立てた。
目的は急勾配の上り坂だった。オレンジ色に染まった住宅街を裂くような一本の坂を志は視界の端に捉えたのだ。その一本道は眼前にそびえる山の中腹まで一直線に開けている。
そこで、上り坂でエルを圧倒的に引き離す。二百メートル引き離す。エルに白旗を振らせる。体重がリンゴ○個分重い分、エルの体力の消耗は激しいはずだ。すでに疲労ははちきれんばかりに溜まっているに違いない。エルの太ももに針を刺せば、トマトの汁が飛び散るような具合で乳酸が飛び交うだろう。コレは圧倒的な勝機に違いない。
エルはコレを卑怯って言うかな?
「……………………言わない、よね」
私たちは、そんな風に平等に育ってないんだからさ。
志は天空に駆け上がるような道を、流れている地面から、ゆっくりと視線を上げながら、確かめた。障害物は皆無だった。志はなんだか照れたように、短くて、鋭くて、なかなか魅惑的な笑みを「クスリ」と零した。
瞬間、志は酸素で肺を満たした。そしてペダルを踏み込んで、さらに踏み込んで、さらに立ち上がって踏み込んだ。スパートを掛けたのだ。志は一気に上昇する気だった。
金色の髪の毛が夕日に反射する。キラキラと眩しい。水面よりも、汗を含んだ志の細い髪の毛は煌いて、乱れた。その輝きは、すでに背中に手が届くまでに接近していたエルを引き離した。五センチ、十センチの単位でゆっくりと離れていく。
エルは奥歯を噛んだ。
志がとてつもなく遠くに見えた。志のブラウスから透けた地味な色のスポーツブラが遠い。
目がかすんできた。疲労じゃない。疲れた、とかじゃない。下半身がすっぽり抜け落ちた感覚。酸素が足りてないのだ。だからといって焦りはしない。息を大きく吸えばいい。整えればいい。軸を真っ直ぐに固定して、徐々に手足を緊張させていく。いつものエアロバイクと一緒だ。けれど、今回は勝手が違っていた。
重い。
エルの体はとてつもなく重たかった。なびく髪の毛も、あまりない両胸の膨らみも、全てが重く感じた。踏み込んでも、踏み込んでも、機械が故障したかのように押し戻される。
どうしてだ?
なんでだ?
こんなはずじゃない。こんなはずじゃないんだ。
……………………重力だ。
地面の力だ。地球の力だ。私の敵は志だけではなかったんだ。
突然だった。エルは全てのバランスを失った。ジェンガが崩れた、舞台で指揮棒が落下した、膝の骨が抜かれた。ママチャリが倒れただけとは思えない砕けたような危険な音がして、エルは落車したのだった。
「エルさんっ!」
エルは仰向けに両手を広げ、魂が抜かれたような瞳をしていたから、弥恵は大声で呼んだ。エルはその声が耳に入らなかった。別世界に飛ばされたように、思考が停止してしまっていた。しかし、それもたった三秒の間。エルははっとなると、手足にぐっと力を入れた。けれど、起き上がれなかった。体が動くことを忘れてしまったように、筋肉が緩んでいた。
「エルさんっ!」
弥恵の悲しげな顔が見える。その顔は救急車を呼びかねない雰囲気だった。でも、エルは自分の体がどういう状態であるのか、なんとなく分かった。しばらくすれば、元に戻る。そういう症状だ。
だから、そんな風に悲しい顔をしている暇があったら、
「弥恵、志を追うんだ、早くしろ!」
言われ、涙目のまま静止した。救急車……、そんな顔をしている。
「ああ、もう、お前は日記を取り返したいんだろっ!?」エルは上半身を起こしながら、力の戻り始めた右手で、弥恵の右手をぐいっと引っ張った。引っ張ってから一旦離して、その手の平をパンっと叩いて、「バトンタッチ、お前と私はクランだっ、仲間だろっ、お前が勝てば私の勝ち、私の役割はココで終わったんだ、次はお前の番だ、しがみついているだけじゃつまらないだろ?」エルは右腕を掴んで、鼻先がくっつくくらいに顔を近づけた。「この手で志から取り返すんだ、そっちの方が面白いだろう、爽快だろ、いいな、行けるなっ!?」
と、ソコでエルは弥恵に短いキスをした。わずかに残ったエネルギーをかき集めて注入するイメージだ。
唇が離れてから、弥恵はぽかぽかと酔ったようにぎこちなく頷いた。そして、その酔いを振り払うように、「は、はいっ!」すぐにもう一度しっかりと頷いた。エルさんのキスは前借だ。絶対に勝たなきゃいけない! 裏切っちゃいけないんだ!
幸いにしてママシャリのダメージはフレームに縦に入った傷だけだ。弥恵はサドルを一番下まで下げて、跨った。
「よし、行けっ!」エルはくしゃくしゃな笑みでやけになって叫び、腕を振り上げる。
リンリン。
弥恵は緊張の糸を裁断する柔らかいベルの音色で返事をして、なんだか得意顔で振り返って親指を立てて紅い舌を出して、ゆっくりとスピードを上げていった。エルはぐるっと道路の中心でうつぶせになり、弥恵の背中を見送った。
【40】
山の中腹まで続く一本道、それは小さな公園まで伸びていた。滑り台とブランコとジャングルジムと砂場と鉄棒がある普通の公園。つまり、その小さな公園がゴールってことだ。志は一度もサドルにぐっしょりと汗で濡れたお尻をつけないまま、昇ってきた。すでに発射時の勢いと燃料は強い重力に奪われてしまっているから、その表情は必死だった。空中分解しないのをやっとのことで堪えていた。
あと、もう……少し。
かすんだ目は黒い自分の影とオレンジ色の道路と公園の前の白い外灯を理解する。
エルの気配はすでになかったから、最後は自分との戦いだった。あそこまで昇れば、何か変るんじゃないかって思えた。すぐにお漏らしをしなくなるかもしれないし、玉姉が優しくなるかもしれないし、短気が解消されるかもしれないし、おっぱいが大きくなるかもしれない。そんな予感が胸に点るから、前へ、前へ、知らない私へと進んで行けるんだ。
もう、少し。もう、少し。本当に、もう少しだった。
リンリン。
柔らかい部分に滑り込んでくる優しいママチャリのベルの音。
志ははっとなって、振り返った。
ママチャリには弥恵が乗っていた。ドドドドドドドという感じで迫ってきていた。その瞳は怖かった。志は体中を振るわせた。冷凍庫に裸で放り込まれたようにブルブルっとなった。パンツは少し漏れてしまった。けど、汗でぐっしょりだから、そんなことはどうでもよくて、ハゲワシに肉を喰らわれるような怒涛の恐怖が臆病な志には堪えがたかった。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。しかし焦れば焦るほどに筋肉は強張り、スピードも落ちてくる。苦しい。生きるための何かが足りていない。
でも、志は我慢した。公園の入り口まで辿り着いた。そしてぶっ壊れたようにママチャリとともにその場に崩れ落ちた。息をするのに精一杯で何も出来なかった。やっとのことで薄目を開き、完全な無防備な状態で、コンクリートの上に大の字になって空を仰ぐ。と、弥恵の顔が見えた。気絶しそうなほど驚いた。
「私の、ううん、私たちの勝ちだね、志姉ちゃん」
公園に先に着いたのは弥恵だったようだ。弥恵は頬を上気させながら、勝ち誇った笑顔を志に見せびらかしながら、ママチャリのカゴから転げ落ちていたアリーナの詩集を手に取り、胸で抱いた。
だから、それは違うんだって。叫びたかったが、喉が引きつって駄目だった。
「じゃあね、久しぶりに志姉ちゃんと競争できて、楽しかったよ」
弥恵はママチャリに跨って、坂を下っていった。志はもう何も面倒臭くなって、恥じらいも全てどうでもよくなって、呼吸が落ち着いてきたから、腹式呼吸で肺を空気で満たして、大声で歌を叫んだ。
【41】
「やっと見つけた!」
見慣れたヴォクシーの助手席から窓を出して叫んだのは燦獄三国。どうやら、エルと弥恵のことを探しに来てくれたようである。非常に有り難かった。エネルギータンクは空っぽだった。補充の術もなかったから。
「しっかり」
三国はエルをタオルで来るんで抱き起こしてくれた。「助かったよ」
「全くもう、チャリンコでこんなところまで来るもんじゃないよ」
「志のせいだよ」
「二人とも意地っ張りなんだから」
「そういうんじゃない。ただ、ムカつくんだよ、あいつを見てると」
「そういう悪い言葉使わないの。そいえば、弥恵ちゃんは?」
「志を追ってる」
「弥恵ちゃんが?」
「私の燃料はココで尽きたから、ココから弥恵のエンジンに切り替えたんだ。二段構えの戦法。それに、もともとの目的は弥恵の日記だからな。あいつが自分で取り返すべきなんだ。きっと、すぐに取り返して戻ってくるって、って……ほら、もう来た」
見上げると、薄い暗がりの中、隕石のようなスピードでママチャリのライトが落ちてきた。段々近づいてくる。仲間の帰還に三国とエルは顔をほころばせた。段々近づいてくる。弥恵のママチャリはぐんぐんと加速している。三国とエルは「ん?」と顔を強張らせた。いや、もう速さはいらないからっ!
『ブ、ブレーキ!!』三国とエルは叫んだ。
キキィーッ。まるでディズ○ーアニメのような奇妙な動きをして弥恵は止まった。危ない危ない、危うくヴォクシーのバンパーがドスンと凹むところだった。
「えへへ」弥恵は悪びれる様子もなくニコニコと純真無垢な笑顔を見せている。「エルさん、三国さん、私、勝ったよ!」
【42】
息も絶え絶えに、ママチャリに刺さっていた傘を杖代わりに、草笛寮になんとか帰ってきた志は驚愕した。京子と綾がロープで縛られ、床に倒れていたからだ。志は杖をコロンと床に倒して、倒れるように二人に駆け寄り、
「京子、京子ってば! あーや、あーや!」と半泣きでばしばしと体を揺すった。外傷は見られない。呼吸もすやすやしている。が、睡眠薬を飲まされたみたいにぐっすりと夢の中で、目を覚まさないというのはどういうことだろう。三人の中で最も低血圧に悩まされているのは志であるし、二人は健康的な生活リズムを乱すことなんてしないから、お昼寝なんて仮眠を取るはずがない。まして縛られてなんて、とんだ変態さんじゃないんだから、誰かが二人をこんな風にこんな風にしたに違いないのだ。
私が追いかけっこしている間に、一体、何が?
とにかく目を覚まさせなきゃ。志は頬っぺたをふにふにとつまんだり、伸ばしたり、丸めたり、舐めてみたりした。京子は相変わらず睡眠薬が効きすぎたように眠りの姫から退位しようとはしない。でも、頬っぺたがべちょべちょになった頃合だった。綾がふわふわと大きな欠伸をして、クシュクシュと半目を開けてくれた。
「あーや!」思わず、涙声が零れてしまう。
「うにゅ……、ゆ、き、様?」
「そうよ、志だよ、分かる?」
「うにゅ」イエスのサインだろう、綾は三歳児のように潤んだ目でコックリとした。
「一体、誰がこんなことを?」
「うにゅ?」
「誰が、綾と、京子を、ロープで縛ったり、なんてことをしたの?」
と、ゆっくり言ったところで志はまだ二人を縛り付けているロープを解いていないことに気付いて、ロープに手を伸ばした。なかなか頑強に結ばれている。
「なんだか、おぼろげなんですけど……、三国さんに縛られたことは、確かなんです」
やっぱりそうか。あの人か、可愛い顔をして、なかなか縛りがきつい。志は唸った。
イーグルスはバルチャーズに殲滅させられたってことか。
悔しいな。アリーナの詩集も取り戻さなきゃならないし、悔しいな。エルのほくそ笑んだジト目が思い浮かんだ。段々、ムカついてきた。全てをあいつに奪われたような気がして、氷点下まで下がっていた怒りの塊が熱を帯びてくる。
ふと、ブーブーと志の携帯がなった。綾が寝ぼけ眼で「まくらぁー」と言ってきたので膝を貸してやる。膝枕をしながら、志はケータイを広げた。
志の目の色が変った。リベンジのチャンスが舞い込んできたからだ。
【43】
エルの宿の脱衣所で、三国、エル、弥恵は仲良くバスタオルで体を巻いて、コーヒー牛乳を煽っていた。木製の長いすに座り、三人は絶賛茹で上がり中であった。
『ふひー』と、三人は体内にこもった蒸気を吐き出す。
「で、弥恵ちゃん、」ぴと、と三国は弥恵の滑らかで白く透き通った二の腕に触れ、揉み解しながら言った。「手帳を見せてもらいたいんだけれど」
「えっ!?」
「駄目? 私たちがいなかったら、手帳が戻ってこなかったかもしれないんだし、少しくらいいいでしょ? 弥恵ちゃんの大事なものだから、余計に気になるな。ねぇ、エルもそう思うでしょ?」
「そうだな。斜め読みくらい、させてくれたっていいよなぁ。ふふ」
悪そうな笑い声だった。湯上りだから酔っ払っている風にも聞える。「ふふ」
「い、嫌です。日記は私のプライベートで、インフォーマルな、弱いところなんです。いくらエルさんと三国さんだからといっても、読ませるわけにはいきません!」弥恵はふわっふわと言いながら、着替えが置いてあるカゴの前にスタスタと歩いていった。そこに手帳も置いてある。弥恵は牛乳瓶片手に、カゴを背にして守りの体勢に移った。「どうしても読みたいのでしたら、その、先輩方をですね、先輩方を、先輩方を、とうとうお姉さまと呼んじゃいますよぉ!」
それは弥恵にとっては物凄い願いで、しいて言えばファーストキスのように、その、ハズイことで、決意のいる、昇天寸前の大事だった。手帳と取り替えてもいいくらいの。でも二人が頷くとは、思っていないからこその条件でもあった。
しかし、再度茹であがり始めた弥恵の気持ちを知ったように含み笑いながら、
「別に、ねぇ」と三国はエルに言葉を続けさせた。
「そうだな、お姉さまって呼ばれるくらい、何てことないって」
「ほ、ホントぉーですか?」弥恵は一瞬色めき立ったが、それは少々早かったようである。
「うん、」エルは弥恵の百合的な願望から、桁外れに見当違いなことを思いながら、「お姉さまって呼んで、私がいたたまれなくなると思ったら大間違いだぞ。最近、下級生が上級生をお姉さまって呼んでからかうのが流行っているからって、私はそんなことに、いちいち構ったりはしないからな」と、ぶっきら棒に言い放った。
「そうだね」なんとなく弥恵の心持を分かっている風な三国は、クスクスと相槌を打っている。「全然、お姉さまぁん、って呼んでくれていいよ」
「ふ、ふええええっ!」弥恵は頭を抱えて、瞳をグルグルとさせた。
どどどどどど、どうしよう!?
お姉さまって呼ぶことはとても魅力的だった。なんてたって、美しいピアンネ娘の中でもトリプルSクラスのお二方である。でもでも、この流れでお姉さまと呼んだって、この関係はアニメの中の話のような甘くて濃密な間柄ではなくて、流行に飛び乗ったような、浅はかで、根の短い、なんちゃってお飯事に過ぎないのではないのだろうか? 理想はお姉さまの困難を、私のそれとない普通の頭脳とラッキーで乗り越えて、その過程で固く結ばれた絆で、自然にぽっと口をつくといったような、甘々な関係であるはずで。確かに志姉ちゃんに勝利したのはエルさんとの結託だった。けれど、全面的に私は助けられていたし、エルさんに必要だと、きっと思われていない。三国さんもきっと同じだ。ぬいぐるみほどにしか思っていないような気がするし、それは本位ではないし、プライバシーも、比呂巳の気持ちを隠しておきたいし。でもでも、お姉さまって呼びたい。そうだ、呼んでいるうちにエルさんも三国さんもまんざらではなくなって……いや、それはないかな、だってお二方とも、女の子というよりは、職人、っていう感じだから、妹なんて欲しがらないだろうし。もちろん、そういうところは大好物なんですけどね。ああ、どうしよう。ああ、どうしよう。……だったら、また、徹底的に付き合ってもらっちゃえばいいじゃん! 面倒臭い、もう全てカミングアウトしちゃおう。比呂巳には一人で勝ってこないんだ。でも、エルお姉さまと三国お姉さまのお力をお借りすれば、私の手帳に閉じ込められた思いは、きっと成就するに違いない。
弥恵はくるっとカゴのほうを向いて、ゴソゴソやって、手帳を胸に抱え、二人のお姉さまに向って振り向いた。そして、おずおずと口にした。「どうぞ、お読みになって下さい。お、お、お、お、お姉さまぁあ!」
ぞわわわわわ、エルの背筋は湯冷めしてしまった。いざ、言われるとあんまり気持ちのいいものではなかった。一方の三国は本当の妹に接するみたいに、「はい、ありがとう」と何食わぬ顔で手帳を受け取り、ページを捲っている。
さてさて、何が書かれているのかな。
しげしげと二人は文面に目を落とし始めた。
弥恵は段々と純白のパンツを凝視されているような気分になって来た。二人の反応を知りたいような知りたくないような、そんな風に顔を両手で隠して、フルフルと首を振っていた。「読みましたか? 読みましたか?」
『まだ』
「ああんっ」弥恵は水風呂に頭まで浸かりたい気分だった。幸いなことにココは浴場と扉一枚隔てただけの脱衣所。その気になれば直ぐに飛び込めた。「読みました? ねぇ、読みました?」
『……うん』二人はパタンと日記帳を閉じた。しかし、反応がまるで難解なポエム(詩ではない)を読んだような、困惑の表情を浮かべている。『読んだけど』
「どどどどどうでした?」
『どうって言われてもなあ(ねぇ)』
二人は顔を見合わせて、なんと応えればいいか
その反応は弥恵の予想していたいくつかのパターンから途方もなくかけ離れていた。ドン引きされるか、からかわれるか、ケラケラと笑われるか、そんな風な反応を返されると思っていたのに、コレは一体どういうことだろう。弥恵は初等部の四年、それほど小難しい表現技法も会得していなければ、先輩方の知らない外来語をふんだんに盛り込んでいるわけでもないし……。
コロンと可愛らしく首をもたげる弥恵に、エルは訊ねた。「この難解なポエム、っていうか暗号文がお前の大事なものなのか?」
はて、難解なポエム? 暗号文? 比呂巳への気持ちが難解で、暗号だというのだろうか? 弥恵はエルの手元を覗き込んでみた。
「違う、」弥恵は一気に冷めた顔になった。「私のじゃない。私はこんな難解な暗号文を書いたりしないもん」
その手帳に広がっていたのは、弥恵の流麗な文字ではなく明朝体のワープロ文字だった。書いてある内容も弥恵の比呂巳への微熱を帯びた気持ちではなくて、…………うん、意味不明だった。
「じゃあ、弥恵ちゃんの手帳は一体?」
「もしかして、」エルは眉を小難しくしてアイツの顔を思い浮かべた。「アイツが、志が、私たちを欺くためにすりかえたんじゃないか?」
「志が、わざわざそんなことするかな?」
「でも、実際、志は私たちをおびき寄せ、この意味の分からないポエムを抱えて逃げた。そして、私たちは捕まえた。でも、それは虚構の勝利だったんだ。志が練ったシナリオだったんだ。こうやって脱衣所で脱力するように組み込まれた罠だったんだよ。どうしてって? 決まっているだろ、アイツは私のことが大嫌いだからな」
弥恵は煮えたぎったエルの言葉を信じて、「そんなぁ、志姉ちゃん……」と項垂れている。そして、三国は『いやいや、それはないって』と思いながらも、理由というか、この状況が分かりかねていたし、なんだか面白くなりそうなのでエルに向って生真面目に頷いた。「志ってば、酷い。こうなったら総力戦もやむを得ないね」
三国がエルのガスバーナーの炎を青色に焚きつけた。そのときだった。三国のカゴから《メロディー》が流れてきた。三国はててててと駆け寄って、携帯を開いた。
画面を確認。すぐに堪えきれないという風に笑みが出た。エルと弥恵に背中を向けてひとしきりおかしさを味わった。いいタイミング過ぎる。まるでマリア様が仕組んだよう。
「エル、弥恵ちゃん」三国はキッと真面目な顔をわざと作って振り向いた。「リベンジのチャンスがやってきたわ。神様は私たちに味方してくれているみたい」
携帯の画面を二人にずしっと向ける。サバゲーを統括しているいわゆる神様は、ゲームの三日前に、クランのリーダーにメールを送ってくる。場所と対戦クランと時間がそこには記されていた。「明後日はイーグルスをボッコボコにしてやろうね!」




