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媚薬の研究  作者: 枕木悠
5/9

第四幕

【23】


バルチャーズとイーグルスが神代峠で死闘を繰り広げた次の日、中等部校舎の昇降口には目蓋を半開きにした志の姿があった。ピアンネは朝の慌しい喧騒を終えて、めいめいの教室では授業が行われる静かな時間帯を迎えていた。つまり、志は遅刻してしまったというわけだ。

 その細い眉とカラーコンタクトとピアスとロングスカートとミリタリーブーツ(今日はカラーコンタクトもピアスもしていないし、ロングスカートもミリタリーブーツも履いていない。至って特徴のない制服の着こなし方をしている)からは遅刻常習犯の香りがぷんぷんと匂うが、意外と遅刻するということはなかった。綾のモーニングコールがあったし、同室の京子が毎日律儀に起こしてくれるからだった。

 しかし、今日はその行為を全てはねつけてしまったようだった。ようだったというのは、志の中での朝の記憶が曖昧だったからで、いや、昨日、何があったのかも良く思い出せない、うっすらと覚えているのはあーやにチュッチュされまくっていた変な夢(?)を見ていたということだけで……、そんな二日酔いに似た『きもちわるー』に志の前頭葉は襲われていたのだった。

 それでも学校に来てしまうのは元来の真面目な性格のためだろう。人間、マジでしんどくなると、着飾るなんて出来ないのである。ゆえに、今日の志はサラッサラの金髪を除いては普通の優等生に戻っていた。

「うっ……、きもちわるぅ」

 青い顔をしながら、口元を押さえ、志は下駄箱を開いた。

「…………ん?」

 さっさと上履きに履き替えて、教室へと気持ちが向っていた志は、ここで一テンポ考えさせられた。

上履きの上に何かある。手紙だ。エアメールのような白い封筒に入った手紙だ。しかし、志の下駄箱はポストではないし、入れておけばポストまで届けておきますなんて吹聴した覚えもなかった。さすれば、この手紙は至極単純に志宛のものだろう。誰だろう? 封筒には何も書かれていない。裏表三度ひっくり返しても何も書かれていない。ただ、気になることがある。封筒はシールで封がされていた。そのシールは……、世間一般で言うところのハートマークだった。

「なっ!?」

 回らない、働かない、それに鈍痛を抱える、産まれてこの方最低レベルの脳波を記録していた志の脳みそは、ハートマークをしかと認識したところで一気に産まれてこの方最高レベルの脳波を記録した。

 嘘、マジで、マジか、マジなのか!?

「……ふぅ」落ち着け、落ち着くのよ、志。しっかりしなさい。私はたった一枚のラブレターに浮かれるようなキャラじゃないでしょ。ファンレターをもらうときはなんとも思わないじゃないの。そうよ、コレもファンレターかもしれないじゃない。恥ずかしくて、面と向って渡せないから、下駄箱に入れたのかもしれないじゃない。

 いや、一気に頭を沸騰させた手前、それはそれで悲しいというか、悔しいというか……?

 ともかく誰だろう?

 そう考えを巡らせたところで、この学園に男の存在が全体の一パーセントもいないことを知って、「うがーっ」と落胆した。

 そうよ、一喜一憂しちゃってバカみたいじゃない。

 ココは男子禁制の乙女の園。下駄箱に恋文を忍ばせるなんて出来ないんだ。

 百合的なことにあまり造詣と関心がない志は相手がよもや、女の子とは考えていない様子である。

 とにもかくにも、今日は朝から表情豊かな志は、この手紙がファンレターである確立九十九パーセント、ピアンネの敷地を取り囲む城壁を越えてきた男子からのラブレターである確立一パーセントの面持ちで、ちょっぴり甘酸っぱい視線で、封を開けたのである。

 が、中に入っていた手紙は、そんな甘酸っぱい気持ちを神代峠の向こう側に放り投げるほどの破壊力を持っていた。

 以下文面である。

『拝啓。天志殿。秋風が頗る君のロングスカートをはためかせようと躍起になっている今日この頃、君は幸せに暮らしているだろうか? 幸せだろうなぁ、君は才能に溢れているし、信望者も多いし、血統も申し分ない。君は実に素晴らしい女性だ。金髪とカラーコンタクトとピアスとロングスカートとミリタリーブーツを脱ぎ捨てた君は、この国の十四歳の中で一番の幸せ者だ。羨ましくはないよ、僕はロリコンだから、君みたいな女性をロリコンすることに幸せを覚えるんだ。もちろん、君に危害を加えたりはしないよ。だって君と僕は一生出会うことができないだろうからね。僕の心配はいらないよ。僕の妄想力はBLの十歳に比べれば劣るけれど、君を脳内でロリコンするくらい簡単なことなんだ。この文章をタイピングしているときも、君は僕にロリコンされているよ。どう、嬉しいかい? あははっ(爆笑)、そんなに怖がらないでよ。手紙を読む手が震えているよ。それともちょっぴり漏らしちゃったかい? 心配しないで、落ち着いてくれよ。僕は出来れば君にはずっと幸せでいて欲しいと思っているんだから。本当だ。本当だって。でも、もう察しがついていると思うけれど、こんなことを書くからには、もしかしたら君は幸せになれないかもしれない、その選択を迫られてるってことなんだよ。どうしてだと思う? 最近君の手に転がりこんできた、幸せが原因さ。君はその幸せでもっと幸せになろうとしているね。でも、それは許されないことなんだよ。もう分かるね。あの手帳を返して欲しいんだ。君が手にしている手帳は私のものなんだ。返してくれたら、君は幸せになれる。その権利があるんだ。いいかい、今日の午後二十四時、明日の午前0時だ、ピアンネ前のローソンのテレフォンボックスのタウンページの下に、手帳を置くんだ。僕を捕まえようなんてバカな真似は考えるんじゃないよ。もし、君に限ってそんなことはしないと思うけれど、もし、言い付けを守らなかった場合は、分かってるね。ロリコンの、ロリコンのための、ロリコンによる、ロリにしちゃうからね。敬具』

 志は手紙をクシャっと握り締め、保健室にダッシュした。


【24】


 陵はゆっくりと水質検査をしながら、「ふわわわぁ」と欠伸をしていた。いけない、いけない、しゃきっとしなくちゃ。「んーっ」と伸びをしていると、プロパンガスが破裂したような音が耳をつんざき、ドアが開かれた。

「せんせぇ!」

 ピアンネの森の雀を脅かすような声を上げて陵を呼び、ぽむっと懐に飛び込んできたのは志だった。

サラッサラのゴールドヘアに、ってあれ? カラーコンタクト、ピアス、ロングスカート、ミリタリーブーツはどこへやら、普通の品行方正を象った、ノーマルお嬢様に脱皮している。そのお姿は教師という立場から見れば好ましいが、陵個人の感想としてはビールからアルコールが抜けたような、コーラから糖分を抜いたような、コロッケの中身が豆腐になったような、つまり毒が抜けて物足りなかった。

 しかし、その表情は朝食に毒を盛られたように青ざめていた。

「一体全体どうしたの? まだ一限目も始まったばかりだし、ゴールド&シルバーの決闘のすえに運ばれてくるにはまだ早過ぎるし、そもそも授業はどうしたの?」

「そんなのことよりもぉ! ロリコンの、ロリコンのための、ロリコンによるロリにぃ!」

「ロリコン? 私がロリコンって言いたいの?」

まあ、あながち間違ってはいないけれど、一体いつバレちゃったんだろ。

「せんせぇじゃなくて、」ブンブンと首の骨がどうにかなりそうなほどの勢いで志は首を振る。「ロリコンが、私の幸せな義務教育をぶち壊す気なんですよ」

 一体、志は何を言っているのやら……。

「ともかく、義務教育より大切なものはないわよね」先生みたいなことを言いながら義務教育に対しては何ら崇拝の念も不満もない陵であった。だから、そのポーズには重みが全く感じられない。「ま、とにかく落ち着いて話してご覧なさいな」

 志を教室に返す気などさらさらなく、というか、水質検査が終わればやることもないので、陵はベッドに誘いソコヘ座らせた。陵も横に座る。

「で、何があったの? トリュフのことで問題発生?」

 昨日、陵はずっと志の帰りを待っていたのである。が、結局、鍵が閉まる午後九時までに戻ってこなかったから引き上げたのである。その間、陵は何をしていたかというと、すでに薬を調合して始めていた。あとはトリュフを煎じて加えるだけである。

「まあ、間違ってはいないんだけど、」志の背を擦っていると、段々と落ち着いてきた。机の上のペットボトルのお茶を飲ませると、正常の呼吸に近づいた。「せんせー、コレ見て。さっき下駄箱に入ってたんですけど」

 陵は志からくしゃくしゃになった便箋を受け取った。明朝体のワープロ文字を読んでいく。次第に陵の顔が怒りで歪んでいく。

 許せないっ! このロリコン野郎、絶対に許せないっ! 絶対にっ!

「私、大丈夫かな?」

 震えた声と素の黒い瞳で陵を見る。

 こんな純情な子の幸せをロリコンしようなんて許されないわっ!

 無間奈落に突き落としてやるっ!

 陵は保健医とは思えぬほどの形相で、そう決意した。そしてぎゅっと志を抱きしめる。

「大丈夫だよ。私がコイツの手紙の主をとっちめてやるからね」

「何言ってるんですか」

「えっ?」

「喧嘩は一人でさせませんから、」志はぐぐっと胸の前で拳を作った。「せんせーは、私がロリコンを殺そうとしたら止めてくれるだけでいいんです」

 ……そうだった、志ちゃんはこんなことで、たまにおしっこをちびらしてしまうけれど、BB弾の攻撃を核弾頭でやり返す、悪名高き堕天使だった。ロリコン如きにむざむざと諸手を挙げる小娘ではなかった。「私の平穏な義務教育に介入したことを後悔させてやります!」

 陵は頼もしいと思いながらも、少し複雑な心境だった。初めて頼りになる先生になれそうだったのになぁ。

 と、そこで、

「うっ、」と志が青ざめた顔に戻り、口元を手で押さえた。これはもよおしてしまう感じだった。「と、トイレ行ってきます」

 どうして志が原因不明の体調不良に陥っているのか、陵は検討もつかなかった。


【25】


 弥恵は今日、初めて学校に遅刻した。迎えに来た比呂巳と会話を交わしたくなくて、寝坊したフリをしたのだった。でも、今日、一日を休んでしまったら、全てが駄目になりそうな気がして、結局は登校した。

 授業の途中に扉を開けた弥恵に、比呂巳は『あっ、ねぼすけが来た』という顔で微笑んできた。弥恵は仏頂面で無視して自分の席に戻り、休み時間は教室から逃げた。

 さいてーだ、私は、さいてーなやつだ。

 どうして比呂巳のことを考えて、こんな気持ちに、逃げたくなるのか分からなかった。

 私は比呂巳にどうしてほしいのだろうか?

どうして欲しかったのだろうか、昔の自分の気持ちが思い出せない、取り戻せない。

私は比呂巳をどう思っているのだろうか?

 どう思っていたのか、浮かんでこない、真っ白だった。

 好きだったのかさえ、分からなくなる。

 昼休み、いつもだったら比呂巳と食べる楽しい昼食。けれど、志は弁当箱と水筒の入った手提げとコルネットのケースを持って、屋上に上がった。屋上で吹き鳴らそうと思ったのだ。

 扉を開け、正午の強い明かりに飲み込まれながら、ふと、耳に聞えてきた音楽があった。

アコースティックギターの音色と天使のような歌声。

 それは、向かいの屋上、中等部校舎の屋上からの旋律だった。一昨日、飛び降りかけたフェンスをがしゃんと鳴らし、瞳を凝らして、天使を探す。

やっぱり、やっぱり、志姉ちゃんだ!

弥恵は手を振った。幼い頃から、脳内で液体窒素に放り込んだクソ兄貴よりも数億兆倍大好きな志姉ちゃんを見つけて途端に嬉しくなる。最近、めっきり道場に来ないから、彼女の姿を見るのは久しぶりだった。昔から、道場で、胴着を着たまま、よくギターを弾いて聞かせてくれていた。懐かしさ、センチメンタル、よく分かんないけれど、そういう感情が押し寄せてきて、涙が出てくる。

志姉ちゃん、気付いて! 目一杯手を振る。しかし、弥恵に気付く様子はない。

そうだっ!

私には武器がある。

弥恵はコルネットのケースを開け、マウスピースをブーブーやって、本体に装着。

志が奏でる旋律に合わせて、アドリブで、つまり適当に、メロディとリズムを吹き鳴らした。

周りにどう聞えているかなんてどうでもいい。

私の音色、志姉ちゃんに届いて!

耳に届くギターの音色に変化があった。飛び込んでくる志姉ちゃんの天使な視線。

下手な弥恵の演奏に、志が合わせてくれているのだとすぐに分かった。志はフェンス際に立って、歌っている。弥恵もフェンス際に立ち、吹き鳴らす。

しょうがないことだけど、弥恵は演奏暦が短いから、勝手に吹きやすい楽曲に指が動いてしまっていた。そっちの方が考えなくていいし、気持ちがいいから。

志姉ちゃんは笑顔で応じてくれる。

弥恵の『聖者の行進』に合わせて歌ってくれる。

澄んだ空気が鼻腔を通り、肺の淀んだ空気が音になって、体の外に消えていく。

 空を仰いだ。雲が鳥の形をしている。鮮やかな群青色が鳥を覆っている。最高の天気だ。迷うのは止めにして、コルネットをひたすら鳴らせ、昨日のことは笑い話にすればいいじゃないか、今日の天気はそう弥恵を包んでくれた。

 ふと、思い出すのは一冊の手帳。

すっかり忘れてしまっていた。

私が一年前、駅前の伊勢丹で買った重厚な近世ヨーロッパの哲学書のような手帳。気持ちを共有したくて、比呂巳にもプレゼントした、お揃いの手帳。比呂巳が手帳を開いて、何かを書いているなんて、一度きりしか見たことはなかったけれど、確か、唯一のお揃いのもので、私は比呂巳への思いを一年間綴った、大切な手帳。

 どこ? いま、私の気持ちはどこへいってしまったの?

 純な気持ちも、不純な気持ちも、全部、全部、一緒くたに、そこにあるんだ。

 見つけなきゃ、見つけ出さなきゃいけない。

 ふと、弥恵の脳裏を過ぎったのはバルチャーズの二人だった。

 その瞬間だった。

『死ぬなっ!』

 エルと三国が弥恵をフェンスから引き剥がした。

 唖然とする弥恵。覆いかぶさるエルと三国は千メートルを全力疾走した風に息を切らせている。どうやら、前科持ちの弥恵が一昨日と同じ飛び降り自殺を決行しようと勘違いしたらしい。

「昨日すっごく凹んでたから、もしかしてもしかするかもしれないって」

「さっき、弥恵ちゃんを呼びにクラスに行ったら、口々に今日遅刻したとか、様子がおかしいとか、自殺しそうな雰囲気だったとか言うし」

「そしたら案の定、屋上じゃないかっ! このバカっ!」

「弥恵ちゃん、死んじゃ駄目だよ。死ぬ気になればなんでも出来ちゃうんだから。っていうか、死んだら私、泣くからね」

三国が涙ぐんで抱きついてきた。そしてエルももらい泣きしたようになって、

「そうだぞ。お前が死んだりなんかしたら、私も泣くぞ。夜な夜な化けて出てやるんだからな!」と弥恵と三国に覆いかぶさった。

『うわあああああん!!』

上級生の二人は勘違いをしたまま泣いてしまった。どうしよう? この状況、両手に花でとてつもないけど、幸せだけど、この二人になんて説明しよう。まずはどうして屋上に来たのかから、……ええいぃ、もう面倒臭いっ!

 だから、このシチュエーションを利用したるっ!

「あ、あの、」弱々しく、おずおずを心掛ける。「エルさんと三国さんにお願いがあるんですけどぉ」

『何?』キスできそうなくらい顔を近づけてきてくれる。今なら油田の採掘権もいただけそう按配である。『何でも言って!』

「手帳を、私の手帳を一緒に探してくださいっ」


【26】


 志は陵の『保健室で休んでいけば?』の助言を断って授業に出席、ではなくて第七軽音楽部の部室に侵入して玉姉のアコースティックギターを勝手に拝借し、屋上で弾き鳴らしていた。

 保健室で眠っているとロリコン野郎をとっちめる気分が萎えるし、こうやって空の下でギターを鳴らしている方が、原因不明の嘔吐感から逃れることが出来た。まあ、お昼までの時間に三回トイレに駆け込んだが。

 ともあれ、順調に胃のムカつき、お凸を襲う頭痛は和らいでいった、……気がする。

 そんなところで、いいメロディーが浮かんできた。「♪んむ~んむぅーんむー♪」ってな具合に歌いながら、ゆっくりと組み立てていく。

 そうこうしている内に時間は流れ、曲は脳内でほぼ完成した。詩も産まれていた。

「よいしょ、」ギターを構えなおし、じゃらーん、「1、2、3、4」と歌い始める。

 志には珍しく、ダーティで、ガツンという旋律でなくて、スローテンポで、ちょっぴりジャズテイストの、なんちゃってバラードだった。

 不意に、トランペットの音が志の耳に流れてきた。流れてきた先に視線をやる。向かいの、初等部校舎の屋上でトランペットより小さめの、確かコルネットとかいう楽器を吹いている女の子がいた。歌を止めずに、目を凝らしてよく見れば、見知った顔だった。比呂巳の道場で、比呂巳の横にいつもいた、甘えん坊の弥恵だった。

 そういえば、道場に通わなくなってから、結構な時期、会っていなかった。志は懐かしくなって、笑みを零した。弥恵は顔を真っ赤にして一生懸命に出来立てほやほやのこの曲にコルネットを合わせてくる。

いつの間に、音楽を始めたんだ?

 ともかく弥恵の演奏は志から見れば下手くそだった。でも、下手だけれど、外れてはいない。

 志は立ち上がり、フェンスに寄り、それに応えるように声のボリュームを上げ、ギターを掻き鳴らす。

 曲が再構成される。曲がコルネットの音色を吸い込んで、新しいものに昇華させる。

 次第にアップテンポになってきた。しかし、ジャズっぽくて、ゆっくりと進む心地よい疾走感に、志は空に舞い上がったような気持ちになって、

 ――いつしか曲は『聖者の行進』になっていた。

オアシスの『ワットエヴァー』からビートルズの『オクトパスガーデン』に重なり、移行していく感じだった。いや、神様に対して不徳で、言い過ぎだろうが、ともかく、そんな気持ちがいい一曲出来上がった。

テルミンをやらずとも済む名曲が出来上がったのだった。

ふっと志の意識は体に降下した。弥恵のコルネットが止んだからだった。志も弦の震えを止めた。

「?」人が折り重なっていた。なんだろう? まあ、いいか。弥恵、ありがとう、感謝するわ。近くうちに、コルネットの音色を録音しに行くからね。


【27】


 ピアンネの正門前のローソンのテレフォンボックスが未だ取り壊されず健在なのは、ピアンネの女生徒たちの間で語り継がれる言い伝えが、その理由だった。

『午前0時のテレフォンボックスから相手のケータイにかけて告白すると、必ずその恋は成就する』

今日もその言い伝えに誘われて、午前0時のテレフォンボックスに一人の女生徒がやってきた。彼女の名前はカノ。中等部の三年、趣味は読書、飾り気のない黒髪と大人しそうな外見は彼女の内面をそのままトレースしたような具合である。カノは慣れないテレフォンボックスに入り、受話器を取り、父親の書斎を漁って見つけたテレフォンカードを挿入させ、ケータイの電話帳画面で愛しのミヤの番号を表示させる。喉を乾かしながら、ミヤのケータイ番号を押していく。

ぷるるるる。

カノはミヤが出るのを待ちながら、カバンから一冊の本を取り出した。まるで近世ヨーロッパの哲学書のような、一見、重厚な本である。それを電話機の上のタウンページの上に置き、とあるページを開く。

そこには彼女を勇気付ける文句が書かれていた。

『きっと、告白を待ってくれているから』

カノはその本を音楽室の机の中から見つけたのである。中等部の生徒の写真が張られ、その下には詳細なデータが記されていたり、詩のように思いつくままに書きなぐったような文字の羅列であったり、最初は怪しげな日記帳だと思ったけれど、特に書かれた詩(?)はカノの心にグサグサと突き刺さった。誰のものかは分からないけれど、書き連ねられたある種の自己啓発の言葉は、カノの悩みを、曖昧ではなくピンポイントに突き、カノを動かせた。

ごめんなさい、誰かは分からないけれど、告白するまでは。

カノは決心がつくまで、その日記帳に勇気を少しづつ分けてもらっていた。

そして、日付が変った瞬間の、午前0時のテレフォンボックスに満を持してカノはやってきた。

『もしもし?』

ミヤが出た。

「……もしもし、ミヤ? カノだよ」

 震えた声はゆっくりと愛の言葉を紡いでいく。


【28】


 先ほどからローソンの店長(三十代、男性)が業務に勤しみながら、注意を伺っていたのは雑誌コーナーで立ち読みしている、不審極まりない若い女の二人組みだった。めいめい白と黒のフロックコートを着て、キャップを目深に被り、さらにサングラスを掛けていた。これは少なくとも店に小金を落としに来たことでないことは容易に想像できた。

 一体、何をしでかす気だろうか? 強盗か、ついにコンビ二業界に躍り出てはや十年、クレーム含め物騒なことに無縁だった俺に、ついに転機が来るのか?

 店長はレジの下の警報ボタンと防犯用においてある竹刀とペイントボールの位置を確かめてから、在庫チェックのフリをして不審者の後ろに気配を殺し、回り込み、彼女たちが一心不乱に目を落としている雑誌を確かめ、そこで、店長の脳裏に一抹の疑問が点灯した。

なんでエロ本を読んでいるのだろうか? 女なのに、……あっ。

 と、そこでリベラルな店長は気付いた。なるほどこの怪しい二人組はレズで、一人じゃエロ本を読むのは気恥ずかしいから、一緒に読みに来たということか。そうだ、きっとそうに違いない。それゆえのキャップにサングラスというわけか。いやはやコレはとんだ勘違いをしていたようだ。危うく、お楽しみに来た二人を御用してしまうところだった。どうぞ、どうぞ、好き勝手読み漁ってください。

 この調子だと、十冊は買っていきそうな気配がするし。

 店長はさすが女子校の前だなぁってな具合に強張った顔を営業スマイルに変え、業務に戻った。

 店長は確かに勘違いをしていた。エロ雑誌に目をやる二人は、両方ともがレズではないし、エロ雑誌を読みに来たわけでもなかった。

いわゆる張り込みってやつである。

 白いコートを着ているのはどこからどう見ても志で、黒はどう穿って斜めに見ても陵だった。ピアンネの演劇部に借りてきた季節を先取りしすぎた厚手のコートで体の凹凸を隠し、午後十時にはそぐわないサングラスで覆い、髪の毛をお下げに結んでいても、見る人が見れば容易く、正体に検討はついた。

 しかし、二人は完全に変装しきった気で、エロ本越しのテレフォンボックスにジト目を向けていた。テレフォンボックスはローソンの入り口付近、タバコの自動販売機の隣にある。店内の雑誌コーナーから見ると、それが少し影になっていてテレフォンボックスの中の詳しい事情は見えないけれど、人が出入りするのははっきりと確認できた。

 どうしてエロ雑誌なのかは、陵によればカモフラージュということらしい。

「エロ本を見ている人が、よもや張り込みしてるなんて思わないでしょう」

 陵は志に気付かれないようにページを捲りながら、テレフォンボックスを見やる。

 すでに『媚薬の研究』はタウンページの下に置いておいた。

 陵の腕時計の針はそろそろ午前0時を指す。

「志ちゃん、いよいよだけど、」小さく陵が心配そうに言った。「顔色悪いよ、大丈夫?」

 しばし寮に戻って仮眠を取ってきたらしいのだが、志の顔色は明らかに青っ白かった。せめてカラーコンタクトとピアスははずしてくればいいのに、と陵は思った。

 志は突っ伏すまで十秒前という按配の虚ろな瞳、エロ本を持つ手は力が入らないという風に震えていた。

「大丈夫です……」消え入りそうな声は全然大丈夫そうじゃない。

「志ちゃん、」ここは私が、と言い掛けたところで、テレフォンボックスに変化が見えた。

 犯人とは思えない、一人のピアンネ娘が入っていったのである。

 それも中等部の少女だ。

「き、きたぁああああ!」

 志はソレを確認すると、雑誌を陵に叩くように預け、テレフォンボックスに足を向けていた。しんどそうな顔だ。それでいて怒りがはっきりと眉間に表われている。理性は働いていないと思われた。

陵はぶらんぶらんしている志の腕を掴み、耳打ちした。

「まだよ」あの女の子が犯人なの? いいえ、そんなはずはない。もし、そうだとするなら、「犯人だったらアレを抱えて一目散に逃げるはず。志ちゃん、もう少し待ってよう」

 陵が思ったとおり、ピアンネ娘はすぐに『媚薬の研究』を抱え逃げることはなく、つまり志を脅迫した犯人ではなく、ただ電話をしに来ただけのようだった。ほっと胸を撫で下ろしながら、でもどうして、ここで電話を? ケータイを使ったらいいのに、と疑問だった。まあ、思春期の乙女には様々な事情があるのだろう、私もあったよなと陵は回想して、深くは考えない。

 彼女の電話は長かった。いや、うら若き乙女の長電話は付き物だ。一日中話したってしゃべり足りないのだ。そう考えると、彼女の電話は短かったといえる。約二十分間、彼女はテレフォンボックスにいた。そして出てきたときの横顔は、なぜか満面の笑みだった。やってきたときとはまるで別人のように、身を悶えさせ、テレフォンボックスを後にしていた。彼女のその後が気になるところだが、さて、ココからである。

 きっと、犯人は戸惑っているに違いない。テレフォンボックスに先に入られ、早く出ろ、早く出ろ、と額に汗を浮かべていたに違いない。

 陵の雑誌を掴む手が汗で濡れていく。さあ、さあ、さあ、来い、ロリコン野郎!

 と、陵が目を血走らせてときだった。

「……せんせぇ、」と志が弱々しい声を上げ、袖を引いた。何事? と見やると、志の青っ白い顔にはおもいっきり脂汗が浮いていた。「気持ち悪い……」

 陵はロリコン野郎のことは、一旦溝川に放り込んで、膝をついて、志に向き合う。

「ちょっとぉ、大丈夫っ!?」

 志は首を小さく横に振って、

「……ちょっと、吐いてくる」とコンビ二のトイレに歩き出した。陵も保健医として介抱しに向おうとしたが、志は「せんせーは見張りを、」と頑なな瞳を向けてきたから、なんとも言えない心境で、つまり、志の言うことに従った。

 志ちゃんをあんなに苦しめて、ロリコン野郎めっ!

 ロリコン野郎が志の原因不明の体調不良の直接的な原因ではないのだが、そんな義憤が陵の胸に立ち込めた。陵のキッとした瞳が、テレフォンボックスへと向く。

 そのときだった。信じられない光景が目に飛び込んできた。

「……………………嘘でしょ?」


【29】


 学生時代の友人と食事に行く。

 嫁からそういうメールが来て、藤原は安堵した。今日、どのように深夜に抜け出そうか、その妙案が思い浮かばなかったのである。しかし、そのメールに救われた。さらに幸いなことにその文面には、もしかしたら帰るのが朝方になるかもしれない、と書いてあったことだ。学生時代の友人とはきっと、同性愛の相手なのかもしれない。藤原は嫉妬心に近い寂寥感を感じながら、どうぞ心置きなく、という風な返信をして、さて、午後十一時を過ぎた頃にシルバーのカローラを自宅から走らせた。

 コンビ二の駐車場には止まらず、向かいの道路脇に車を止めた。一度、テレフォンボックスを確信してから、外の姿が見えないように背もたれを倒し、藤原は目を瞑った。心に点灯するのは後悔の念。まさか、脅迫状を書こうとは……。しかし、仕方なかった。面識のない生徒ならいざ知らず、志とはうげーとか言われながらも心を通わせた仲である。ヴィトンのバックで釣ろうとか、フランス料理のフルコースで釣ろうとか、口封じの術を考えたが、志の顔を思い出すと、彼女は全てを断って、学園中に噂をばら撒くに違いないと思わざるを得ないわけで、結局、脅迫状に落ち着いてしまったのである。

 もちろん、脅迫状に書かれたロリコンは志を脅かすための方便である。逆に激昂させてしまったなんて、藤原は露程も思わなかった。ロリコンは女子が最も恐怖する種族だ。ゆえに、いくら志でも言う通りに従ってくれるだろう。藤原の考えは甘かった。

 いつの間にか藤原は眠っていた。

そして気が付いたときは、すでに日付が変っていた。時計を見ると、午前0時二分。

慌ててテレフォンボックスの方を見れば、誰か、ピアンネの中等部の制服を着た生徒がいた。彼女が志でないことは直ぐに分かった。志の代わりに手帳を置きに来たという感じでもない。今どきテレフォンボックスで電話を掛けている。

藤原は焦った。なかなかテレフォンボックスから出てこないからだ。別段、時間を気にする必要はないけれど、早く回収するものを回収してこの場を去りたかった。

二十分ほど経っただろうか、やっとテレフォンボックスは空になった。生徒が暗闇に消えていくのを待って、藤原はテレフォンボックスに駆け込み、タウンページの上に開いて置かれていた手帳を持って、脱走するように車を発車させた。


【30】


 一度、胃の中身を全て吐いてしまうとスッキリした。志は頬をこけさせながらも、ケロッとした顔でトイレから出てきた。瞳に精気がみなぎっている。

「ご心配をお掛けしました」志は所定の位置につき、エロ雑誌ではなく、一般の漫画雑誌を手にした。脳みそが落ち着いてきたので、元来お嬢様の気がある志は、エロ雑誌を一瞥、ぽっと顔を赤らめ、カァーッと湯気をこさえた。

 と、なぜか陵はマネキンのような反応で、つまり志の帰還になんら反応しなかった。

「せんせぇ?」

陵は考えていた。そして『どうして?』を脳内で連発していた。

どうして藤原が午前0時の、いや正確にはプラス二十五分だけど、いやそんな微細なことはどうでもよくって、どうして藤原がテレフォンボックスに現れ、そこから『媚薬の研究』を抱え、驚愕で呼吸の止まった私の目の前を走っていったの? あの人はそもそもホモでしょ? 脅迫状を送って、ロリコンで、志ちゃんにちょっかい出すってどういうこと? いや、そうじゃないよ、きっとロリコンはカモフラージュで、…………あの人の目的はあくまで『媚薬の研究』! でも、何で、あの人が媚薬なんて……。

そこで陵は思った。……………………もしかして、あの人?

「せんせぇってば!」

「あっ、あっ、志ちゃん、」陵は気が動転していて、今の今まで志が自分との壮絶な戦いから帰還してきたことを気付いていなかったようだ。「もう、脅かさないでよぉ」

「そんなつもりはさらさらありませんでしたよっ」

「ああ、そうね、ともかく、」陵は大きな深呼吸を一回。「気分はどう?」

「はい、随分と楽になりました」

九時間の睡眠から目覚めたようなに声に艶と張りがあった。

「そう、………………で、もう帰る?」出来れば志にはココで頷いて欲しかった。藤原のことを志にしゃべれるはずはない。まだことの真相が掴めていないし。「ま、まだちょっと顔が青っ白いし、本調子ではないでしょ」

「なぁに言ってんですか、これからじゃないですか、コレはパーティーですよ」喧嘩に飢える獰猛な顔付きに、陵はそれ以上帰る宣言を申し立てられなかった。ごねても、『そんなに帰りたいならせんせーだけ帰ればいいじゃん!』って怒られそうだった。「それより、変化なしですか?」

その問いに、今度は陵が顔を青くした。精一杯気丈に短く答えた。「……なかったわ」

「そうですか」

 陵の態度が、そわそわと落ち着きがなく、じとじとと顔面に脂汗を掻いているのが、志は少し変だなぁとは思ったが、陵がココで嘘を言う必要も理由もなければ、まさか嘘をつくなんて志は全く思っていないので、普通に陵の嘘を疑わなかった。

 そして、新たなテレフォンボックスへの来訪者が現れぬまま、すでに午前一時になった。

「……来ないですね」

「う、うん」

 現われるはずはないのだ。すでに藤原がやって来て『媚薬の研究』は持ち去られてしまっているのだから。ここにこうしていても仕方がない。「……もう帰ろうか」

 陵は提案した。

「そうですね」しぶしぶと、志は頷いた。瞳もとろんとしていて眠たげだった。でも、しっかりと頭を回るらしい。陵が一番言ってほしくないことを抜かりなくおしゃったからだ。「じゃあ、アレを回収して帰りますかぁ」

「だっ、駄目よ!」

陵は癇癪を起こしたように声を張り上げた。立ったままいびきを掻いていた店長も目を覚ます。

「…………」訝しみが込められた反抗的な瞳が痛い。「どうしてですか?」

 もしテレフォンボックスにアレがないのが知れたら、私が嘘をついたことがバレちゃうでしょ!

「私たちが帰った後に、ロリコン野郎が取りに来て、もしアレがなかったら、ロリコン野郎は激怒して、志ちゃんをロリコンしちゃうかもしれないでしょ!」

「大丈夫ですって、私はそう簡単にロリコンにロリコンされませんから、それに、」全く危機感とか、恐怖心とか抱いていない様子で、陵の肩をポンポンと叩く。「私を志様と呼んでくれる二人の親友がいますから。いくらロリコンでも、三人娘には手を出せないでしょ」

 その軽薄なものの考え方とか、勢いで突っ走っちゃうところとか、根拠の薄い自信とか、思春期丸出しの志の姿は、陵の双眸にはとても魅力的に映った。眩かった。許されるならばお持ち帰りしたかった。でも、でも、今欲しいのはそれじゃないんだよ、志ちゃん。

「でも、相手が三人男だったら? 簡単に陵辱されちゃうわよ、そんな志ちゃん嫌よ!」

「みすみす『媚薬の研究』を献上することの方が絶対嫌ですっ! アレを回収しておかなきゃ、ロリコンをこらしめる手立てがなくなっちゃう」

「そんな意地よりも、自分の身の安全を考えなさいって言ってるの! 女の子の貞操は男の童貞より数億兆倍大事なんだからっ!」

「せんせーだって、やる気だったじゃないですか! 今さら意見を翻さないで下さいよ!」

「意見が変ったのよ、志ちゃんの身の安全が、私の最優先事項に認可されちゃったの!」

「ふんっだ、せんせーも、フツーの大人って奴だったんですね。見損ないました」

 なんと心無い、悲しすぎることを言う。それはレズで保健医の陵の胸にグサッと突き刺さった。今にも泣きそうだった。

志は慌てて、「じょ、冗談ですよ」と謝る。

「冗談でも言っていいことと悪いこともあるよぉ。私、志ちゃんは知らないと思うけれど、ゆとり世代ど真ん中の教育を受けてきたから、ナイーブなの、繊細なの、ガラスなの。思ったことを真綿に包んで発言してくれないと、せんせー泣いちゃうよ」

「せんせー、言わせてください。……ゆとり世代に胡坐を掻いて、ゆとりと言えばなんでも許されると思ってませんか?」

 陵の顔が一瞬凍りついて、二秒後に氷解して、なんだか人間性が面倒くさくなった。

「真綿に包めというのにっ! 志ちゃんってばっ!」

 コレがゆとり教育の弊害か、志は仰け反った。だからと言って意志は曲げるものか。

 志は陵の隙をつき、踵を返し、ダッシュした。

「あっ、待ちなさいッ!」

陵も慌てて追いかける。が、十四歳のすばしっこさに保健医が叶うはずもない。志はテレフォンボックスに駆け込んで、すぐに『媚薬の研究』を抱えて出てきた。

「……………………えっ?」

なんでソレが?

 そんな思案顔の陵を残し、「じゃあ、せんせー、また明日っ!」と去っていった。




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