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媚薬の研究  作者: 枕木悠
4/9

第三幕

【8】


結局、比呂巳から預かった起死回生の手帳は見つからないまま放課後になってしまった。きっと図書館に持っていかれたのだと思うのだが、藤原は捜索に向おうにも入室禁止を食らって入ることが出来ないでいた。

「せんせー、どうだった?」

 ホームルーム後、黒板の前で比呂巳は実験結果を確かめるように聞いてきた。

「昨日は出張でな、もう少し、手帳を借りていてもいいか?」

 教師、という威厳とプライドが少なからず働いて、なくしたとは言えなかった。冷や汗が額に浮かんではいないだろうか、この態度に怪しさが浮かんでないかと藤原は心配だった。最強の比呂巳には、全てが見透かされてしまうのではないかと不安にならざるを得ない。しかし、屈託のない笑みに救われる。

「いつでもいいよ、気が向いたときでもいいから、急ぐ必要もないだろうし」

 最強の笑顔だ。慈愛に満ちている。彼女があと十年早く生まれていれば、と悔やまれるほどの笑みだ。藤原は子供好きだが、決してロリコンではない。教師の立場からも、一人の成人男性としてロリコンは滅却されるべきだと思っている。

「でも、とっても大切な手帳だから、なくしたりしないでね」

 ギクリとした。必死にクールを装う。「なくしたりはしないよ」

 と、そこまで言って藤原は不思議に思った。比呂巳は大切な手帳といったが、起死回生の術の他に何も書かれていなかったような気がしたから。

「好きな子から貰ったものだから、真っ白でも大切なんだ」

 藤原は、比呂巳がホレる男はどんなやつだろうとしばし考え、コレは必ず回収して、起死回生の術で比呂巳に朗報を伝えねばいけないと思った。

 比呂巳のケータイがブルブルとなったから、藤原は教室を後にして駄目もとで図書館へと向った。


【9】


「志様! どこに行く気ですかっ!?」

 ホームルームが終わり、志が教室を脱兎のごとく飛び出して行こうとするのをクラスメイトの一人が呼び止めた。脳味噌がとろけてしまいそうな苺のような声質である。彼女の名前は片吟(ぺんぎん)(あや)、という奇特な名前の持ち主で、その双眸は生まれたばかりのペンギンという感じで、つやつやとした潤った黒髪が制服に張り付くように伸びている。志と同じようにロングスカートを纏い、志と同じブレスレットを装着していた。

 志のロングスカートの裾を引っ張って静止を呼びかけたため、後足で立ち上がったレッサーパンダのお子さまパンツが綾の目にするりと飛び込んできた。志はコホンと一つ咳払いしてから、スカートをつかんだ綾の手をスパンと払う。

「はうぅ……」

「ジロジロ見るんじゃないの、今日はレッサーパンダのパンツなんだから」

「いいじゃないですか、かわいいおパンツくらいジロジロ見せてくれても! 生尻を見る訳じゃあるまいし、あいたっ」

 志のデコピンが飛んだのだ。「生尻とか言わない」

 周囲では「またやってるよ」とクスクス笑い声が漏れている。

「はうぅ……」

「で、志様はドコに行こうとしていたんです?」と、そこへ風船ガムを膨らませながらうにゅうと割って入ってきたのは、おっぱいがはちきれんばかりに膨らんでいる(ひょう)(ぜん)京子(きょうこ)だった。長い茶色髪をなでつけながら、「今日はゲームの日です、サボる気ですか?」と鞄で志の後頭部をコツンと小突いた。

「ごめん、京子、今日は遊んでる暇ないんだって」

「そんなぁ」

「志様がいないのでは、ゲームが成り立たちませんよ」

「そうです、志様がいないんじゃ、どさくさに紛れてあんなことやこんなことができな、あいたっ」

 志のデコピンがまた飛んだのだ。「あーやってば、やっぱり確信犯だったのね。私を困らせることがそんなに楽しい?」

「はうぅ……。決して、そういうことじゃないんですけど、」綾はペンギンみたいなうる目を作り、口をすぼめながら、「まだ志様は気付いて下さらないんですかぁ?」と上目遣い。

「?」志は何のことやら分からない。綾の意図を分かっているのは、志以外のこの教室に残っているクラスメイト全員である。

「綾ちゃん、志様に秘め事を汲んでもらおうなんて思わないことよ」

 京子の物言いに、周囲のギャラリーが少なからず頷いていた。

「でも、いくら志様でも、」と綾はじっーと志のカラーコンタクトを見つめに掛かる。秘めた気持ちをテレパシーのように送ろうとしているのだ。「何々?」と後ずさる志。「私の想い、届いてますか? 私が志様をどう思っているのかお分かりですか?」

「あーやが、私のことをどう思ってるかって?」

 綾はペンギンのように小刻みに頷く。

「そうねぇ、」志は「う~ん」と長考してから、結局適当に告げた。「仲のいいクラスメイト?」

「ただ単に仲のいいクラスメイトなんて思ってません」

「えっ、仲いいじゃん、私たち」

「そういうことじゃなくて、」綾は気持ちが伝わらなくて、噛み合わなくて、段々ムラムラとしてきた。「ただ単に仲のいいクラスメイトに《様》なんてつけて呼んだりしませんってことです」

「ソレって京子が遊びで呼んでたのが、あーやに伝染しただけでしょ」

「私がそうお呼びしたいから、そう呼んでいるんです」

「遊びじゃん」

「遊びじゃないんです、私が志様にご奉仕しているのは遊びじゃないんです!」

「確かにご奉仕は遊びじゃないかもしれないけれど、でも、あーやが私にご奉仕してくれるのは、私が治療の余地のない片付けられない女だからでしょ。ソコヘ今年の春にひょんと現れた世話好きのあーやが見かねてやって来てくれるようになったわけで、とどのつまり、あーやは私のことをだらしない女だと、」

「ち、ち、ち、」

「血?」

「ちっがーう!!」綾はペンギンが海底か流氷に躍り出る勢いで激昂した。「志様はだらしない女でも、志様じゃなきゃ、毎朝モーニングコールしたり、お部屋の掃除に出向いたり、髪の毛を洗いに出向いたり、耳掃除に出向いたりしません!! するはずがありません!!」

「う、うん」

「つまり、どういうことだとお思いなんですか?」

「あ、ありがとう、感謝してる、あーやはきっといいメイドさんか、いいお嫁さんになれるわ。奉仕されてきた、私が保証するわ」

「えへへ、ありがとうございます」志様にほめられちゃった。「……って、ちっがーう!!」

「何々? 今日のあーやはちょっと変だよ」

「も、もう言っちゃう、京ちゃん、止めないでね」

「どーぞ」

「志様、私、実は、志様のことが幼稚舎の頃からずっと、」

 ピトぉ。

「?」

志の天使のように綺麗な顔がそこにあった。おでこはピタリとくっついている。

「熱はないかぁ。……いや、あつっ、熱いって、あーや大丈夫?」

 ヘナヘナと綾はその場にヘタリ込んでしまった。サウナに放り込まれたペンギンみたいにしゅわしゅわと湯気を上げている。

「ご愁傷様、」京子は綾の肩に手を置き、労を労う。その言葉には、同じ目標を共有しているもの同士に通じ合う優しさが伴っていた。京子も、今の綾と同じ経験と挫折を経験しているのだった。「どう、綾ちゃん、志様の鈍さといったらないでしょ?」

「ちょっと京子、私が鈍いってどういうことよ?」

「はぁー、」京子は首を振って嘆息する。「コレは一生直らねぇな」

「だから、鈍くないって」

「とりあえず、」京子は噛んでいたガムを吐き出さんばかりに言った。「志様の鈍さに振り回されている人間が少なくとも二人いることを知っていて下さい!!」

 京子の剣幕に志は思わず「は、はい」と頷いた。当然、目の前の二人が被害者であるなんて思うこともなく。

「ま、とにもかくにも、今日のゲームは中止ですね、では、敵のチームに中止の旨を、」

「そういえば、今日の相手は誰?」

「少々お待ちを、」京子は鞄の中からケータイを取り出し、ポチポチと画面を確認する。「バルチャーズです」

「……あー、今日だったか、」

 バルチャーズには、志の天敵のエルがいるのだ。このままでは戦いもせず、かけがえのない一勝をエルに無条件で与えることになる。

「どうします?」

「う~ん」と唸っていると妙な案が閃いた。あの子を呼ぼう。志が完敗を認めた最強のあの娘を。

「ちょっと待ってて、」志はケータイを取り出し、ダイヤルする。相手はすぐに出た。「あ、比呂巳、お願いがあるんだけど、」

 京子と綾は顔を見合わせた。終始、猫撫で声ではなしていたからだ。

「それじゃ、よろしくね」志は電話を切った。そしてジロジロと視線を浴びせる京子と綾を一瞥して、「何?」と不振がる。

『別にぃ』声を併せて、首を振った。

「そう、ま、いいけど、とにかく、助っ人をココに呼んだから」

「助っ人?」

「安心して、最強の女の子だから」それだけ言って、二カッと笑い、志は鞄を肩に掛け、二人を置いて教室を出ていってしまった。


【10】


 藤原は図書館に向かって歩いていた。立ち入り禁止を食らっても、比呂巳の大事な手帳をそのままにしておけない。図書館へ行くためには、初等部の校舎から中等部の校舎を通って行かなければならない。三階の渡り廊下を通って、中等部の校舎に赴いた。と、そこに階段をいきおいよく駆け降りてきた生徒を衝突した。

「ぷぎゃー」という悲鳴を上げて、藤原のがっちりとした体躯にぶつかった生徒は軽自動車にはじかれたように飛んだ。盛大に鞄の中身をぶちまけた。

「すまん、大丈夫か!?」

 藤原は駆け寄り、顔をのぞき込んだ。すかさず、拳が飛んできた。拳は藤原の頬を抉った。この拳に、藤原は覚えがあった。

「前向いて歩きなさいよ! バカッ!」

 そんな汚い言葉使いを使うのは、三年前の初等部六年G組のクラスでただ一人しかいなかった。

「アメじゃないか、久しぶりだな、元気でやってるか?」

「うっげー、藤原かよ」

「うっげーとはなんだ、うっげーとは」

「言葉の通りですよ、血反吐を吐きたくなるほど、私は藤原せんせーのことが嫌いだってことですよ」

 言葉とは裏腹に志の瞳は笑っていた。

「相変わらずで、何よりだ。でも、その金髪と細い眉とカラーコンタクトとピアスとロングスカートとミリタリーブーツは感心せんな」

「中二だからいいんですよ」

「クラスの担任は何もいわないのか?」

「マユちゃんは何も言わないし」

「……あいつも仕方ないな」

「って、せんせーとはなしてる場合じゃなくて」

せかせかと鞄の中身を広い始めた。藤原も手伝う。と、手を伸ばした先にあったのは件の――『媚薬の研究』だった。

 なんで、コイツが、コレを?

 藤原は固まり、しばし黙考する。ココはアメに尋ねてみるべきだろうか?

「なあ、」

「なっ、」

 志は藤原の手から手帳を引っ手繰った。その慌てぶりに藤原は、コノ手帳はアノ手帳で間違いないと踏んだ。「ソノ本はなんだ?」

藤原が、本、と言ったのは、背表紙に図書館の本のすべてについている管理用のシールが付着していたからだ。図書委員が勝手に図書館の本に仕立てあげたに違いない。この調子だと、藤原が購入して机の上に一緒に置いていた他の本も勝手に拝借されているのだろう、が、今はそんなことよりも比呂巳の手帳が、どういうことだか志に渡っていることが問題である。

アメはこの本の中身を知っている。

だから、実はこうこうでこうなんだよ、なんて気軽に返してもらえるよう頼むことはできない。

手帳の中身は起死回生の術。

その術を使おうとしていたことがバレてみろ、教職者の威厳、プライドその他諸々はもちろんのこと、教職免許まで剥奪されるに決まっている。

例えそれが、嫁相手だとしても、だ。薬で人の心を操るなどというお手軽な手段をとろうとした人格は、子供を健全な大人に導く人格ではないのだ。

世間はそう断罪するに違いない。

俺は大バカだ、大バカ者だ。

最初から、遠回りをしてでも、その道をゆっくり歩み始めればよかったのだ。

ああ、神よ。これは心を入れ替え、女性と向き合えとのお示しなのでしょうか?

藤原が、そんな風に怖い顔を歪めて考えている間に、

「じゃ、じゃあ、さよなら、せんせー」と志はそっーと、背を向け走って行ってしまった。

「あっ、アメっ」静止を呼び掛けても、志は振り返らなかった。

 どうすればいい、どうすれば…………。「むぅ……」

藤原の切羽詰った脳みそが考え出したのは、あまりにも大人気ない愚行だった。


【11】


 京子と綾、机に座って、教室でしばし待っていると、志が《最強》と讃え、猫なで声で接していた助っ人ちゃんが、急いでやってきたのだろうか、少し息を上げて現れた。綾はその娘を見るやいなや、ぺんぺんと京子のふくよかな胸を触りながら歓声を上げた。

「京ちゃん、京ちゃん、最強に可愛いじゃない!」

「ホントに、」京子も胸を鷲掴みにされていることも忘れ、目を見開き、ぷわっと女の子に見入っている。

「広瀬比呂巳、十歳です」

 比呂巳は礼儀正しく頭を下げた。青いキラキラとしたリボンで括られた、左にすらりと伸びたポニーテールがキュート過ぎる。綾は自己紹介も忘れて、

「白いスクール水着が似合いそう、将来は水泳部に入るといいわ」

なんて目を血走らせて突拍子もないことを言う。

「……バーカ」

京子が思わず小声で、その半狂乱振りを罵った。比呂巳は上級生の斜め上発言に困った素振りを見せずに「選択肢の一つに加えておきますね」と最上級の笑みを見せている。その笑みにとろとろしている綾の耳を摘みながら、気を取り直すように京子は咳払いをした。

「私は京子、このペンギンみたいなのが綾」

「あーや先輩って呼んでね」

「はい。京子先輩、あーや先輩」

「きゃー、あーや先輩だって、あーや先輩だって」

「はいはい、」京子は綾を鷹揚に落ち着かせながら、比呂巳に向き直る。「で、志から話はいっていると思うんだけど、ご経験は?」

 志の口ぶりから察するに、比呂巳は相当な手だれだと思われたが。

「ええっと、」

比呂巳は口元に小指を当ててしばし考えていた。何気ない素振りが可愛くて、綾は常に悶絶しそうである。その両手は常に罪のない十歳を歯牙にかけようとしていて、京子は常に綾を背中で押し留めていた。そんなつばぜり合いを無言で行っている二人は、比呂巳の答えに率直に驚いた。

「経験というんですかね、志姉ちゃんと一度しだけしか」

「えっ! たった一度っきり?」と、そんなの助っ人にならないじゃん、と京子。

「えっ! 志姉ちゃん?」と、そんなに志様と親しいご関係なの? と綾。

 比呂巳は「えっと」とどちらに頷いたらいいのか迷っている様子を見せてから、とりあえず二度頷いた。

「もうっ!」と京子は綾に一喝。「話が進まないから、綾ちゃんは少し黙っててくれない!?」

「でもでも、」綾は怒鳴られながらも、おずおずと主張する。「志様とヒロミンの関係性に一抹どころか、小惑星ほどの興味関心がありまして、」

確かに、まあ、気にならないこともないけど……、「って、ヒロミンって何よっ? 勝手に変なあだ名をつけるでないのっ!」

「クラスでは、《ピロ2》と呼ばれてます」

比呂巳が随分と奇抜なあだ名呼ばれているので二人はしばし固まった。顔を合わせ、そして聞いた。『……どうして、そのあだ名?』

「広瀬比呂巳の二つのひろをとってひろひろ、でひろ2、それがなまっていつの間にやらピロ2に」

『へぇ』二人は初等部の斜め上空の発想力に『若いわね』と思った。

「じゃあ、コードネームは《ピロ2》で決定として、」

京子は綾の手前、すまし顔で聞いてみる。「志様とはどういったご関係で?」

「ゆきさま?」

「あっ、いや、志とはどういう関係なの?」

「志姉ちゃんは、私の父ちゃんがやっている空手道場に昔から通っていたんです」

『空手?』いろんなものに手を出していたのは知っていたけれど、空手道場に通っていたとは知らなかった。志様は一体何者になりたいんだ、と二人は思わざるを得なかった。

「はい、確か五年前くらいからうちに来始めて」

「で、で、で、」綾は興奮し始めていた。志と比呂巳のカップリングが溜まらんという具合に。「姉妹の契りは交わしたの?」

「バカっ!」

京子は溜まらず声を上げ、叱咤した。

それは十歳に聞く質問じゃないでしょ?

レズなら学園に私たちだけで充分でしょ? 確かに綾ちゃんの気持ちも痛いほど分かるけど、私も比呂巳ちゃんを巻き込んでしまいたいと思うわ、でもソレだけは駄目よ、本能は駄目と言っているわ、この子は将来、健かに育つべきなのよ。

しかし、比呂巳は上級生の斜め上発言に困った素振りを見せずに「いやいや、私と志姉ちゃんのカップリングなんて、絶対ありえませんよ」と最上級の笑みを見せている……って、『えっ!?』

 質問した綾も、まさか比呂巳がその百合的でレズ的なかしましをを分かっているとは思わなかったので驚いてしまった。だって、十歳よ、私が目覚めたのだって志様と出会った十三歳の春だったのに。

 比呂巳はそんな風な二人の気も知らずに、ポニーテールを揺らして語り始めた。

「志姉ちゃんは、私を妹っていうよりは、師匠って感じにちょっぴりと離れた距離から崇めていますから、私、空手では一度も志姉ちゃんに負けたことなくて、だから牙も立てられることなくて、受けとか攻めとかの土俵に乗ってくれないんです、それに、私、人よりもちょっぴり器用なんで、志姉ちゃんに誘われたゲームでも勝っちゃって、それからもう関係は出来上がっちゃった、と言いますか、よく言えば何のフラグも立ち上がらない健全な友情関係に、悪く言えば、過ちの起こりようのないつまらない関係になってしまったんです、志姉ちゃんは私にだけはもろ手を上げてしまっているんです、だから、私がドSに目覚めて虐げようが、ドMを装って取り入ろうが、きっと無理なんです」

 そんなことを至極淡々と話す比呂巳に、なんだか二人は全てを持っていかれた気がした。二人は元来の服従心がざわつくのを抑えようがなかった。比呂巳には天下を統一した王者だけが持ちえる、王者ゆえの寂しさを感じたのだ。その寂しさを紛らわせる左右の家臣になるのに、二人はやぶさかではなかった。

 ソレに比呂巳は将来有望な、というかもう染まりきった百合娘であることは先の話から間違いと判断された。

 何の迷いが必要だろうか、京子と綾は神妙な面持ちで『ピロ2』と言いながら跪いて、ちっちゃい手を取り、そこに軽くキスした。

 いきなりのことに比呂巳は「え? え?」と顔をピンク色に染めて、ポニーテールをフルフルと揺らしていた。自分が発した言葉の憂いが、二人の心を射てしまったとはまるで気付いていない。

「あ、あのっ、京子先輩に、あーや先輩、いきなりどうしちゃったんですか?」

「私たちのことは呼び捨てで結構でございます」京子は服従する快感を得ていた。

「はい、あーやとぞんざいにお呼びください」綾はちょっぴり虐げられたい気分である。

「だめ、それはいろんな意味でダメですって」

 はわはわと比呂巳は首と手の平を使って拒絶した。広瀬道場の師範代は礼儀を生まれたときから叩きこまれていて、先輩を呼び捨てになんて出来ない。その理由も、かしずかれる理由も今のところ、全く分からないのだから。

「理由などいりません」

「そうです。私たちがピロ2に従いたい、それだけではいけませんか?」

「従うなんて、そんな、」比呂巳は困りきった表情で二人を見た。ふざけているようには見えなかった。頑なな二人の意志を感じ、それを無下にするのは酷いことだと思われた。二人に応えよう、比呂巳はぐっと決心した。「じゃ、じゃあ、」

 今までの慣習を破るのは容易ではない。「きょ、京子」

「はい、ピロ2」

「あ、あーや」

「はい、ピロ2がなすがままに」

 しかし、言ってしまえばどうということはなかった。上級生のちょっと変ったお姉さんたちを喜ばせることと思えば、それは逆に幸福なことだと思えたからだ。

 比呂巳は「あはは」と当惑気味に笑いながらも、微笑みを返してくれる京子と綾を見て、まるでお姫様になった気分だった。


【12】


保健室は暗幕で仕切られ、異例の《重患者以外立ち入り禁止》の札が掛けられていた。中央の円卓にはガスコンロと薄手の鍋と媚薬の材料が並べられていた。陵は材料を一つ一つ確認していく。が、どうしても入手できないものがあった。

 ガラッと扉が開いて、志がやってきた。なにやら、ココまでくる間にひと悶着あったように「ふうっ」と息をついた。

「何かあったの?」

「せんせー、の旦那と接触事故して、危うく、コレの中身を見られるところだったんですよ」と言って『媚薬の研究』を円卓に差し出した。「ともかく、さっそく始めようよ」

「そうしたいところなんだけれど、」

陵は『媚薬の研究』をコピーしたA4の紙の《材料☆》という項目を指さしながら「どうしても手に入らなかったものがあるのよ」と申し訳なさそうに言った。姉妹百合への謝罪である。

「志ちゃん、《神代峠》って知ってる? 今日、保健医という職業柄、暇にあかして一日中調べてみたんだけれど、一向に分からなくて」

 もしかして、この国ではなくて、日本なのかしら、と言いかけたところで、

「知ってますけど、」

 と、志はあっさりと言った。ソレもそのはず、《神代峠》はゲームのフィールドの一つである。志が知らないはずはなかった。しかし、と志は不思議に思った。その場所の《名前》はゲームに参加している生徒しか知らないはずだし、その場所でゲームが催されることを知られては何かとまずいので、他の何者かに《神代峠》という名称と場所が伝わる可能性というのはまずないだろう。しかし、確かに書いてあった。

 媚薬の調合を何もかも陵に任せていたから、今の今まで気が付かなかったけれど、確かに《神代峠》と書いてある。志の中で、一つの疑問が浮かんできた。この本の作者、もしくはこの白紙ばかりの本に『媚薬の研究』を記した人物は一体何者なのか? ゲームの参加者なのか? というか、そもそもなんでこんな本が図書館においてあったのか?

志はダメもとで図書館を訪れ、この不思議な本を見つけたのである。見つけたときはコレだ! と思ったが、考えれば考えるほど謎である。

そんな風に珍しく小難しい顔をしている志に向って、陵は言った。

「そこで採れるトリュフがいるのよね」

《材料》の項目の最も下段にはこうある。「《神代峠で取れるトリュフ たくさん☆》」

「それに、トリュフを取るんだったらブタが必要よね。この前エンデバーチャンネルでやってるのを見たの」

 陵の助言を受けて、しばし考え、志はいった。「私が神代峠でトリュフを取ってきますよ」

 神代峠の場所を、いくら陵とは知られるわけにはいかない。志は意外と義理堅いところがある。

「私もいくよ。志ちゃん、一人だと心配だし」

 心配というより、安心できない、という風な陵の視線である。

「トリュフくらい、一人で採ってこれますって」

「そう、……でも、ブタは? トリュフ探しにブタが随行しないんじゃ、ヒントなしのクロスワードパズルをするようなものよ」

「大丈夫です、当てはありますんで」


【13】


 エルは待っていた。ジャグジー風呂に「あううううう」と両目をマイナス記号にしながら待っていた。タオルをターバンみたいに巻いたエルの対面には、同じく「あううううう」と両目をマイナス記号にしている三国がいた。

 ここはエルの両親が経営する、温泉宿の浴場である。秋の平日、四時を少し回ったばかりの時間帯なので、浴場にはエルと三国しかいない。

 八角形の浴槽を中心に、教室四つ分のスペースには様々な種類のお風呂が設置されていた。ライオンの口も、サウナも、純和風の露天風呂もある。

 ゲームの前は安全祈願のためにココで身を清めるのが日課になっていた。というか、慣例を怠った二週間前のゲームでは、そのためか分からないけれど、ケガ人を出してしまったのだ。そのケガ人はココにはいない。未だエルと三国の元には帰ってきていなかった。ゲームに参加するためには、三人じゃなきゃいけない。本来であれば、今日も不戦勝を相手クラン(このゲームにおいてチームを《クラン》と呼ぶ》に予定であったが、エルは昨日、出会ってしまったのだ。

 三国は気持ちよさそうな声を震わせ、エルに問う。

「本当に、エルの想い人は来てくれるの?」

「分からない」

 エルは素直に首を横に振った。高野弥恵、思い上がりも甚だしい自尊心の塊のような十歳に、エルは手紙を出して、ココに呼び出していた。一見、ラブレターのような便箋の中に、この場所と《お前に会いたい》という短い文を書き付けて下駄箱に放り込んでおいた。この国の人間でこの宿のことを知らないふとどき者はいないはずだし、弥恵はエルが温泉宿の娘だと言うことを知らないことはないと思うから、場所が分からない、かつ、何この手紙と訳が分からなくなるということはないだろう。問題は、彼女がエルに会いたいかどうかだ。

 エルは今のところ、弥恵を殺しかけた罪状で教師や生徒会や風紀委員会からお呼ばれされていない。今日のホームルームで来月の全校集会で表彰もされると担任から聞いていた。つまり、弥恵も屋上での出来事を周囲の人たちに秘匿している、ということだ。

 なぜだろうか?

 エルは弥恵のことをいろいろ考える。

 浮かぶのは、弥恵はきっと私に復讐しにくるに違いない、ということ。大人の力を借りず気はない、落とし前は当事者間できっちり付けたる、そんな復讐心をエルは想像する。

弥恵に感じたえもいれない絶頂はもう過ぎて遠くに行ってしまっている。でも、確かに経験したということは覚えている。その記憶がエルの記憶の弥恵を美化していたのだった。

その想像から、弥恵は必ず復讐染みた行いを企てに来るのではないか、そうでなくても何らかのアクションを取ってくるのではないか、だったらこちらに居場所を伝えてやれば面倒な手続きが互いに必要なくなる、とエルには思われた。

 ソレを思うだけでもエルはゾクゾクとした。尿意がこみ上げてくるのを感じた。「……やばっ」。エルは必死に我慢する。その顔付きを見て、三国はまさか? という顔つきになる。

「まさか、漏らした?」

「…………ちょっと、」風呂のせいではなくて、頬が染まりエルは静かに謝る。「ごめん」

「ううん、いいよ、全然気にしないでね」

 三国は優しく言ってくれた。やっぱり、先輩はいい人だな、と思って微笑もうとしたら、三国はそーっとジャグジーから出て行こうとしていた。行動に移されるのはショックだった。

「先輩、ホントに、ほんとーにちょっとなんだからな! まるまるスッキリしてないんだからな!」

「べ、別にエルのおしっこが嫌なんてことは全然ッないよっ」

 三国は冗談をよく言うけど、肝心なところでは嘘がつけない可愛い人だ。つまり、

「うう……、やっぱり嫌なんじゃないか、」先輩は自分のことを何でも受け止めてくれると思っていたから、エルは漏らしたと素直に言ったのだ。少量のおしっこくらい受け止めてくれるだろうと思っていたから。「おしっこくらいいいじゃないか! 私のおしっこだぞ! 私のおしっこは聖水並にきれいなんだからな!」

 浴場にエルの叫び声が響いた。客がいなくてホントによかった。

「分かった、分かってば、」三国はエルを宥めるように肩まで湯に浸かって、エルに向き合うと、決心したように言うのだった。「じゃ、じゃあ、さ。エルのおしっこが嫌じゃないってことを証明するから、今から全部出して」

「全部?」なんでそうなるの? 私はただ少量のおしっこでいいのに。

「うん。でも、それだと不公平よね」

 何が?

「だってエルがおしっこ漏らすのに、さっきからずっと我慢している私が漏らさないっておかしくない?」

 確かに…………って、だっての意味が良く分からないし、不公平の意味が、そもそも全部出したいなら一度浴槽を出てから脱衣場の脇のトイレに行けばいいじゃん。

「エル、行くよ」

「う、うん」

 どことなく切羽詰っている様子で、今まで見てきた中で一番の真面目な表情を見せるから、エルは思わず頷き、準備をしてしまった。

そして。

エルと三国は互いに見詰め合って、「―――」っと、言葉にしがたい十五秒間の沈黙を迎えたのだった。なんというか、えもいわれぬ背徳感であった。

ブルブルッと二人は同時に済ませるものを済ませ、絆を堅固なものにした。

「その、めちゃくちゃ気持ちよかったよ、」エルは恥ずかしそうに口にする。「ありがとな、先輩」

「えへへ、私も気持ちよかったよ」

「あはは」

「えへへ」

「あはは」と、エルは三国の手首をがっしりとホールドした。エルに気付かれないように、浴槽から退こうとしていたからだ。三国はやっぱりおしっこが嫌だったのだ、ていうか、丸々出してしまってなんだかエルも浴槽から出たくなっていたけれど、最初に少量漏らしてしまった手前、出辛くて、そして三国が体よく逃げようとしているのに、つまり、その、なんか卑怯だ!

「やっぱり嫌だったんじゃないか!」

「嫌よ!」三国はどうやら開き直ってしまった。「いくらエルのおしっこでも嫌、私のおしっこも混じってる、そんなお風呂にコレ以上浸かっていたくないものぉ!」

「だったら、全部出そうとか提案するな!」

「だ、だって、我慢できなかったんだもの!」

 と、そんな感じにやんややんやエルと三国がおしっこの成分について議論を始めた頃合に、からからと一人の少女が浴場に姿を見せた。

 エルと三国は議論を止めて少女を見やる。

少女は胸元にタオルを当てて、脇目も振らず、エルと三国のおしっこのまざったジャグジー風呂に飛び込んできた。

『あっ』エルと三国は少女が来てくれたことよりも、おしっこ風呂に入れちゃったと申し訳ない気持ちになっていた。

そんなことを知る由もない弥恵は、伏せ目がちにエルと三国を交互に見た。レズな彼女は上級生の裸体に緊張してしまっている。エルだけかと思ってきたら、三国というサービス満点のオプション付ではないか。優雅に登場して、エルさんにもの申そうと考えていたのに、途端に真っ白である。

どういうことだか、エルさんもこの綺麗な方も私を見つめるばかりで何も言われないし……。

その視線はまだおしっこ関係のことを言うか言うまいかで悩んでいる視線だった。

弥恵は緊張のピークに達していた。どうしよう? 試されてるのかな? でも、なんて言えば? 勢いのままジャグジーに飛び込んだはいいけど分からない。綺麗なお姉さま二人に見つめられたら分からない。

クラスメイトの熱い視線とは違う。弥恵は元来の弁慶的な性格で出てきて、身動きが取れなくなった。下半身の筋肉が緩んで、おしっこが漏れた。なんだろう、めちゃくちゃ気持ちい。

「………………」

 なんだか、ほっとした雰囲気が湯気とともに弥恵の周囲から漂い始めた。

「……お、お前も?」エルが恐る恐る聞いた。「まさか、お前も漏らしたのか?」

 気付かれてしまったっ!?

どうして? ココ、ジャグジーだから、撹拌されて綺麗さっぱり証拠隠滅のはずじゃ。

 バレてしまったのは、当然といえば当然であった。

 弥恵の表情は、先ほど二人が丸々スッキリしたときに見せた表情そのものだったから。

弥恵は自らの下腹部の緩さを叱咤した。

きっと、これからお姉さま方にお漏らし娘なんて罵られるんだわっ!

しかし、今日の弥恵は自殺願望を抱いていた昨日とは違って、受け入れ態勢が出来ていた。だから素直に自分の否を認めた。私のものを撹拌させてしまって、

「…………しゅみましぇん、」と謝った。怒られる、と思った。ココはエルさんの温泉。ソコにおしっこを撹拌させてしまったのだから当然『私の聖水を汚したな!?』と罵倒されると思った。でも、エルと三国はいたたまれないとばかりに顔を合わせ、苦笑していた。その二人の引きつった表情に気付き、そしてさっきのエルがなんて言ったかを思い出した。「……お前も、って、まさか……」

 弥恵はじーっと聖水が混ざった水面を見つめた。第三期バルチャーズは、ここに結成されたのである。


【14】


 ピアンネの広大な敷地には農学校並みに設備の整った養豚場がある。校舎群の北側、貯水湖の向こう側、乗馬部が馬を走らせている芝の北西に、鶏、羊、アルパカ、乳牛、イベリコ豚など多数の動物が飼育されている施設群のなかの養豚場である。

 上着を制服から迷彩服姿に着替えた志は荷物の運搬用に走っているトロッコに乗せてもらい、まるで戦場へ送られる兵士のように、養豚場を訪れた。トロッコから降りると、志の斬新な姿が露になった。迷彩服とミリタリーブーツで、紺色のロングスカートを挟んでいる、そのファッショナブルな出で立ちは兎にも角にも新しかった。

「ありがとー」

 トロッコを運転してくれたフロリダの田舎娘のようなピアンネ娘に天使のような笑顔を見せ、手を振った。

「さて、」志はココに来るのは初めてだが、お目当ての人物がココにいることが分かっていた。誰かに取り次いでもらう必要もなく、彼女は小屋の前で藁を束ねていた。

 近づいていくと、動物の濃い匂い鼻をついた。だからといって臭くはない。何かが生産されている優しい匂いだった。

 一心不乱に仕事に励んでいる彼女の背に声を掛ける。

「ごきげんよう、アリーナ」

 いきなりの志の声にも驚きもせず、アリーナはゆっくりと振り向き、視線をくれる。

「あら、ごきげんよう、志」

ごきげんよう、なんていう挨拶が似合い、自然と様になっているのは、この学園でアリーナくらいのものだろう。アリーナ・レイアス、彼女はフランス生まれの留学生で、志が憧れてやまない透き通る金色の髪の毛の持ち主だ。瞳は大きく、薄い紫色をしていて、いつだって眠たげだった。中等部二年で、志と同い年でもあり、エルの親友でもある。

「なにか御用かしら、」抑揚のない声は拒絶していないように思えるような気がするから、志は一応、安堵した。「それとも、また謝りに来たの? もうケガは治っているわ、気にしないで」

「うん、それは分かってる」

 アリーナは元バルチャーズの一員で、二週間前まではゲームに参加していた。けれど、二週間前、志はアリーナにケガを負わせてしまった。ケガはそれほど大きなものではなかった。相手がエルならこんなには気にしなかったのだろうけれど、華奢で、背の小さく、妖精のような佇まいのアリーナにケガをさせてしまったことを、志はずっと気にかけていたのだった。彼女に負わせてしまった傷は、見た目以上に深いと思われた。養豚場に入り浸りになり、ゲームに参加しなくなったのは、やはり、志に責任があるだろう。

「ねぇ、志、私、最近詩を書いているのよ」

 志がなんと言って切り出そうか考えていると、アリーナはゴム手袋を水で洗いながら言った。

「詩?」

「ええ、詩よ」アリーナは儚げに微笑んだ。「読みたい?」

「いや、遠慮しとく」

「そう、」別段、残念そうでもない。「いい詩なんだけどな」と小さく呟いた。いや、やっぱり読ませたがっているようだ。

「じゃ、じゃあ、いつでもいいから読ませてよ」

 言うとアリーナはぽっと頬を染め、ツンと「いいわよ。多分、志の価値観を根底からくつがえすと思うわ」と抑揚なく恐ろしいことを言った。きっと恥ずかしくて、そんな大げさなことを言っているのだと思われる。

「それよりさ、」志は小屋の方を覗きながら言った。「ブタを一頭貸してほしいんだけど」

「ブタを? 食べるの? 何頭? 種類は?」アリーナが電卓と明細をつなぎのポケットから取り出そうとしたところで、志は首を振った。

「貸してくれるだけでいいから」

「別に構わないけれど、」アリーナは不思議そうな目をした。ブタを借りに来る生徒なんて、この二週間どころか一年のうちに現れたことはないのではないだろうか。「目的は?」

「散歩?」

「どうして疑問形? 誰にも言わないから話して」

 アリーナにそう言われると、本当のことを言わないといけないような気がして、志は全てを洗いざらい話してしまった。「エルには内緒にしておいてよ」

「言わないわよ、私が志にエルの秘密を話したことはないでしょ」

「……エルの秘密、教えてくれない?」

「嫌よ、」儚げな声できっぱり断られるとそれ以上の追求の気はなくなった。「それにしても、お姉さんに媚薬を盛ろうなんて、さすが志ね」

「ソレ、誉めてるの?」

「志らしいって言ってるのよ、」アリーナは「ふふっ」と口元に手をやって笑った。「いいわ、トリュフを探してくれるブタを紹介してあげる。ついてきて」

 アリーナはブタ小屋の中に入っていった。志もミリタリーブーツを鳴らしながらついていく。中は非常に清潔に保たれていた。きつい匂いもしないし、泥が靴底につくということもない。ブタはぬいぐるみのように大人しく、ラジカセから流れてくるモーツァルトに耳をひくひくさせていた。

 アリーナは柵を開け、子ブタの群れの中に入っていった。器用に隅に追い詰め、アリーナは件のブタを抱え上げた。「ピエールよ」

 ピエールと呼ばれた子ブタは全身が真っ黒で、獰猛なイノシシのようだった。つぶらな瞳が可愛らしい。眠り足りないようで欠伸をしていた。

 志は額を撫でようと手を伸ばした。そこで目があった。ピエールの目がハートマークに光った。志に照準が合う。その瞬間、ピエールはアリーナの懐から跳躍し、志目がけてダイブしてきた。「なっ!?」

 志はとりあえずキャッチしようとした。が、咄嗟のことで受け止めたところでバランスを崩し、すってんと尻餅を付いてしまった。

「いたたたた」

「だ、大丈夫?」柵の中からアリーナが呼ぶ。うん、平気、と応えようとしたところで、「ん?」股間に何やら生暖かい感触が。志はバサッとロングスカートを捲り上げた。……パンツ越しに感じた生暖かいものの正体はピエールのもふもふとしたブタっぱなだった。

「こ、こ、こ、こ、この、エロブタァ――――――ッ!」

 志は人生で初めて動物に対して切れてしまった。まるで貞操を奪われたような気分だったのだ。ブタ相手に、志ったら、純情なのね。

じゃれ合う志とピエールを見て、アリーナは優しげに微笑んだ。「あらあら、もうすっかり仲良しね」


【15】


 志と京子は寮で同室である。草笛寮の二〇一、そこが二人の寮部屋であり、イーグルスの弾薬庫でもあり、衣裳部屋である。京子はクローゼットとは名ばかりの収納能力ゼロのクローゼットを開け、自衛隊が標準装備の迷彩服を取り出した。今日は黒を基調にした迷彩服を着る順番だった。敵は緑を基調にした迷彩をいる、コレで敵と味方の区別をつける。

 当然、比呂巳に合うサイズはないので、袖と裾を安全ピンで留めて、ぶかぶかであることに変わりないが、なんとか動けるような形になった。比呂巳は拳を握り、突きを何回か繰り出して、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、「うん、大丈夫みたい、ありがと、あーや」と、すでに臨戦態勢である。

「ピロ2、武器はどれになさいますか?」

京子が二段ベッドの下段のマットレスをどかすと、そこには物々しい年季の入った銀色のアタッシュケースが敷き詰められていた。開けば、マシンガン、ライフル、リヴォルバー、ガトリングガン……、詳しくは知らないけれど、そういった物騒なものが出てきた。

「好きな武器をお使い下さい」

「うーん」比呂巳は見慣れない武器に少し戸惑っている様子だった。その横で、綾は迷うことなくスナイパーライフルのアタッシュケースを選んだ。京子も同様にガトリングガンを手に取った。さて、比呂巳はというと……。

「接近戦用の武器はないですか?」

 京子と綾は顔を見合わせた。サバイバルゲームに接近戦用?

 …………しかし、あるのだった。京子は何年も開かれていないような、外装にあまり傷のないアタッシュケースを取り出し、開いた。中にはアサルトライフルと黒光りするナイフがあった。

 銃剣である。

「このナイフを銃身に取り付けます。刀身は過度の付加を与えると引っ込むようになっていて、ほら、こんな感じに、今は蛍光塗料を補充してないので出てきませんけど、刀身が引っ込むのと同時に蛍光塗料を吐き出す仕組みになっています。もちろん、弾も発射できます」

 京子は組み立て、比呂巳に渡した。「わぁ」とテディベアをプレゼントされたように瞳をキラキラと輝かせた。「京子、あーや、私、コレにするね」

 比呂巳は二人に向って、銃剣を構えた。十歳とは思えない、鷹の目をみた。


【16】


 神代峠まではピアンネからバスを乗り継いで三十五分、エルの温泉宿からは車で二十分ほどの距離がある。

 神代峠、正式名称拝氷峠、エルの父親のヴォクシーに揺られ、バルチャーズの三人はゲームのフィールド入り口となる通称メガネ橋、正式名称拝氷峠第六橋梁の下までやってきた。めがね橋は明治の中頃に建設された、今はもう水量が溝川ほどの拝氷川に架かる、煉瓦造りの六連アーチ橋である。煉瓦が幾重にも積み上げられたその橋の姿は、自然ばかりの峠において異様で、それらは百年以上もの間、反撥しあっているように思えた。

白くて粒の大きい砂利道の上、三国とエルは手際よく銃を組み立て、試し打ち、鼓膜にガツンと迫る発砲音、紅く染まり始めた樹木の葉に蛍光塗料が付着する、手袋をはめ、イヤホンマイクをし、ゴーグルを装着した。

 エルの父親はファンキーにタバコの煙を燻らし、窓から親指を立てた左手を出して去っていく。

 その間、弥恵はオタオタと何をしていいやら分からない。ダボダボの迷彩服を着て、説明を求める顔をしている。とりあえず、おずおずと、

「あ、あの、私はどうすれば……?」と聞いた。

「まだ用意が出来てないじゃないかっ!」

「ひえっ!」思わず悲鳴を上げてしまうほどの叱責が飛んだ。その悲鳴を叩きつけるように、エルの黒い手袋をはめた右手が、弥恵の無駄口を黙らせるべく顎を襲った。息が出来ないほどの強さで握られてしまった。体がつーっと宙に浮く。屋上での出来事を思い出し、パニックになる。けれど、嫌ではないのだった。しかし、苦しくなって弥恵はまさにジタバタと足掻いた。「むー、むー、むー」

「まったく、」エルはリンゴを落とすように握力を解いた。ドシャリと弥恵は尻餅を付いた。エルは手も差し伸べない。それどころかブラックホールを突き刺すような眼光を浴びせる。「厳しくすると言ったじゃないか!」

 エルは腰に手を当て自衛隊の鬼教官のように怒鳴りつける。三国はケータイをいじくって、見てみぬ振りである。

「は、はい」でも、確かに厳しくして欲しいとは言ったけれど、何も指示されていないのだから、おずおずと、教官の神経を逆なでするようなことしか出来ないのだ。

 弥恵は数十分前のことを思い出す。

 弥恵は三人分のおしっこが撹拌された浴槽で、頬を真っ赤に、首を傾け見上げれば一面に広がる紅葉色に染めて、エルへの思いを語ったのだった。

『エルさんに殺されかけたとき、エルさんが小指を外して、薬指を外したとき、私、滅茶苦茶怖くて、今みたいにおしっこを漏らしちゃったんですけど、不思議と怖くなくて、もちろん死んじゃうんだっていう感覚も残っていたんですけれど、怖くなくなって、不思議なんですけど、殺されかけているシチュエーションが物凄く気持ちよくて、空手でおっさんに勝ったときとか、コルネットが上手く吹けたときとは気持ちよさの種類が違うんですけど、体の心を貫かれたっていうか、ズドンと来たんです、来ちゃったんです、もうスカートを煽る強風もなにもかも全部気持ちよく感じて、エルさんが私を罵ってくれるのがたまらなくて、段々とエルさんになら殺されてもいいって思うようになっていって、気付いたら保健室で寝ていたんですけど。私、昨日、家に帰って考えました。どうしてあんな気持ちになったんだろうって。冷静になって考えると、私、他人に怒られたことってあんまりなかったんですよね。ママもパパも兄貴も、あっ、兄貴なんていませんけど、そのパパもママも私に甘くて。私も勉強でもスポーツでもなんでも人並み以上にこなせちゃうし、人よりも可愛い可愛い言われて育ってきたから、人に本気で怒られるって、初めてだったのかもしれなくて……、私、エルさんに『お前は可愛くない!』って言われたとき、ズキュンって来ました。分かったんです、私は人よりもズバ抜けて可愛くもなければ、スポーツも勉強も突き抜けているわけでもなくて。比呂巳っていう幼馴染がいるんですれど、私、昔から彼女には絶対に敵わない、容姿も、勉強も、スポーツも、空手も絶対に適いっこない、なんて思ってたんですけど、最近は比呂巳を倒してやるとか、向こうはそんな気ないのに気を張ってて、持ち前の自尊心が暴走しちゃってて、盗撮のことだって、今思えばどうしてそんなことやってたんだろうと思います。私は、私より綺麗な人を写真の中に納めて、手に入れたと思い込んで優越感に浸っていたんです。死ぬ気もないのに、自殺なんて、悲劇のヒロインじみた真似を起こしたわけです。本当にどうかしていました』

 そして、弥恵は宣言したのだった。

『エルさん、コレも何かの縁、いえ、運命かもしれません! 私を虐げてください、私を苦しめてください、私を踏み付けてください!』

 とんだドM宣言だった。エルと三国はちょっぴり引いた。おしっこが浴槽で撹拌されていることも綺麗さっぱり忘れていた。若干十歳でコレほどのものをいう娘がいたのかと。だからといって、エルは手紙を送ったこと後悔はしなかった。弥恵は復讐心など微塵も抱いておらず、逆にもっともっととせがんできたが、全然、問題ナッシングだった。何故ならエルはメス犬のようにハァハァ言ってくる弥恵にゾクゾクしていたからだ。体温は上がり、汗を掻きっぱなしだった。

『私を調教して、エルさん』

 エルはニヤリと口角を吊り上げ、早くものぼせたように瞳を虚ろにしている弥恵を浴槽の隅に追い詰めて、言ったのだった。『厳しくいくからな』

『はい、エルさん』弥恵は伏せ目がちになって、またスッキリしたような顔を見せたのだった。

 それが数十分前に交わされたブリーダーとメス犬の契約だった。そしてそのまま何も説明することなく、コノ場所まで連れてきた。

 契約を交わしたのなら、厳しくいく。ツンデレのような甘々な日々など送らせるものか。立派なバルチャーに育ててやる。そしていつか、私を空っぽにしてくれる、夢中にしてくれる女になれよ。お前には素質が充分にある。それは方向転換しようが何しようが、お前の言動のあり方にはある共通点が見える。極端で、危ない、ということだ。ハゲワシのように、狡賢そうで、しつこそうな、厭らしい瞳をしているじゃないか。

 エルは眼光にそんな風な思いを込めていた。それは常に理不尽な要求に繋がる。

「お前は今日から、我がバルチャーズの一員だ、分かるな?」

「い、いえっさー」弥恵はなれない敬礼を返す。途端に回し蹴りが飛び、「くへっ」と倒れこんだ。それを見過ごすことは出来ず、三国が駆け寄る。

「大丈夫? 弥恵ちゃん」

 しかし、弥恵は三国の手を制止し、立ち上がった。「コレくらい、平気です」

 回し蹴りを喰らったせいか、神経回路が書き換わってしまったのではないかと思えるほどに弥恵の黒目は鋭くなった。

 いい瞳、三国は気が引き締まる思いがした。

「いくらお前が鈍感で、頭の回転が遅くとも、この状況を察することができるな。コレから私たちはいわゆるサバゲーをする」

「イエッサー!」

「ひよこのお前はコイツを使え」

 エルはワルサーを投げた。弥恵は受け取り、その重量を確かめた。

「ルールは至極簡単明瞭、これから、午後五時半を回ってからの三十分間、この神代峠がゲームのフィールドになる。範囲はメガネ橋の向こう側から、五百メートルほど先にあるもう一本のメガネ橋の間だ。今頃、そこに相手のイーグルスがいるはずだ。北西と南東は二本のメガネ橋によって区切られている。北東と南西のフィールドは国道十七号線に区切られているから、そこへ行けば分かるだろう」

 弥恵はメガネ橋を見上げ、その奥の方を眺めた。紅葉の木々が邪魔をして五百メートル先なんて見えなかった。

「銃にはペイント弾を装填するんだ。胸、腹、背中、腰、頭部に当てれば、相手は戦闘不能になる。腕、脚に銃弾が付着しても動くことが出来るからな。先にクラン、いわゆるチームの全員が戦闘不能になった方が負けだ。敵は私たちとは違う迷彩服を着ているから、見間違えることはないだろうとは思うが、敵と見方を誤認するなよな」

 弥恵は三国になされるがままに安全ピンで袖と裾を止め、手袋を嵌め、イヤホンマイクを付け、ゴーグルで瞳を覆った。どれも大きめだが、運動に支障が出るほどではない。

「連絡はコレで取る、」エルはイヤホンを突っつく。「コレには常に回線が通っているからな、無駄な独り言はいうなよな。そして、やられたら、やられたと報告するんだぞ。やられたら、ゲーム終了までその場で死んだフリだ。その後ちゃんと迎えに行くからな、分かったか?」

「イエッサー!」

 三人は円陣を組んだ。互いの肩を引き寄せる。頬を近づける。弥恵はチュッチュしたくなったが、まだ百合であることはカミングアウトしていないのでうにゅっと唇は突き出さないでおく。しかし、間違いが起こる程度には近づけておく。

「作戦は?」三国がエルに振る。

「作戦も何もないだろ、コッチはお荷物を抱えているんだから」

 エルがわしゃわしゃと弥恵の髪を掻き乱す。

「恐縮であります!」弥恵は異常に興奮しきった面持ちで、意味の通じない言葉を張り上げる。

「それ、使い方違うと思うな」三国がどうどうと背中を軽く叩く。

「あっ、いい案を思いついたぞ」

「何?」

「何でありんすかっ!?」

「お前、囮」

「オ、ト、リ?」弥恵はしばし言われた言葉を反芻してから、そのぞんざいな扱われ方に恍惚の叫び声を上げた。「囮ってことは、私は阿呆のようにアヒル口をして、人差し指を甘噛んで、敵の前にのんべんたらりと現れろと、つまりそういうことですね?」

 玉砕の命は弥恵の望むところだった。私など、せいぜい犬死で結構で御座います。

「話が早いな、そういうことだ」

「いいの、弥恵ちゃん?」

「断る理由は銀河系にはありません」

「いい心がけだ」

「嫌、誉めないで、罵ってください!」

「…………………………………………」

「ああん、放置プレイも最高です!」弥恵は斑模様の蛇のように悶えている。

「……じゃあ、ともかく、弥恵ちゃんを囮として先導させて、十メートル後ろをエルが、その五メートル斜めに私がつくってことで」

「オッケー、三佐」

「三佐?」

「コードネームのこと、私は三国だから、《三佐》」

「私は面倒臭いから《エル》のままでいいよ」

「弥恵ちゃんはどうする? 何か、あだ名とかある?」

弥恵はしばし考えた。記憶を手繰る。最近はやえちん、やえっち、えっち、それはないわね、確か何か奇特なあだ名があったはずだった。なんだったけ、こいこいこい、弥恵はこめかみに神経を集中させる。そしてはっと思い出し、咄嗟に呟いてしまった。「ニューファング」

『はいっ?』エルと三国、同時に聞き返した、にゅうふぁんぐ、確かそんな風に聞えたが、はてどういった意味だろう。『もう一度言って』

「い、いや、それは駄目です!」弥恵は首をブンブンと横に振った。だって全然っ、可愛くないんだもん! 「ニューファングは絶対ダメですからっ!」

「ニューファング?」

「ニューファングか」

「あっ、しまった」

「しまったとはなんだ、しまったとは、」エルは弥恵の首をきつく締め上げる。

「く、苦しい……」

「どうせお前のことだ、可愛くないとかいう陳腐な理由で、親友からからかい半分にもらった奇特なあだ名を滅却しようとしたんだろ」

その通り過ぎて、弥恵はエルの首筋に頬ずりしていた。そして、今度は三国に頬ずりしたくなってしまうほどの的確な推測が彼女の口から出た。

「あっ、そうか、弥恵ちゃん、八重歯が出てるよね」その指摘にエルは弥恵の上唇を指で引っ張り上げて確認した。「ほら、やっぱり可愛い小悪魔八重歯が生えてる。これらのことから考えられることは、ニューファング、新しい牙は、八重歯の永久歯が生えてきたときに付けられたあだ名ね。そして、そのあだ名をつけた人物は、弥恵ちゃんの近くにいた人。でも、親、兄妹はないわね。あだ名をつける必要がないものね。きっと幼馴染の子が名付けたんだわ。『うわー、弥恵の新しい歯、牙みたいだね』『き、牙じゃないもん!』『ねぇねぇ、おとーさん、新しい牙って英語でなんていうの?』『うーんと、ニューファングかな』『弥恵は今日からニューファングだぁ』『うえ~ん』っていうやり取りが合ったはずね」

 その通り過ぎて返す言葉もない。頬ずりして、肯定の意を示す。

「なるほど、八重歯が出てるから、弥恵って名前なのか」エルは一人で納得していたが、そればっかりはさすがに違うだろう。

「エルさん、その通りなんです、」えっ? 「うちのパパとママ、揃いも揃って八重歯の子が欲しかったから、ママも八重歯なんで、八重歯になりますようにって、弥恵って名前にしたんです」

 えもいわれぬ沈黙が、三秒生まれた。それをなかったことにするべくカラッとしたエルの声が場を席巻する。「ニューファングで決定ぇ」

「エ、エルさん!?」

「そうね、ご両親の気持ちと幼馴染の想像力の詰まった画期的でピッタリのコードネームだね」

「み、三国さんまで……」と弥恵はうじうじとしおらしくなってしまった。

まったく、変なところで落ち込むんだから、そんなにニューファングが嫌なのか、ピッタリじゃないか、弥恵、お前はバルチャーズの新しい牙なんだから、剥き出しにしろ、相手を骨までしゃぶりつくすんだ。

と、そこでエルはなんの予告もせず、

「んむっ?」と弥恵の唇に自分の唇をくっつけた。力強いキスだった。吸うのではなくて、押し付ける感じ。盛り上がりも何もないから、弥恵は戸惑うばかり。ツンデレはないという話だったのに、楽しめない。それはエルのエセハンガリー流の闘魂の注入の仕方だったのかもしれない。しかし、アドレナリンは一気に放出した。そして何の余韻も表情に残さずに、

「ほら、気合を入れろっ」とエルは弥恵の背中を強く叩いた。

出ないわけがないじゃないですか!

出来れば、今度は互いの舌を這わせましょう。私の八重歯を、ニューファングを舐めてください。ニューファング、いいコードネームじゃないですかっ!

ピピピピピと三国の首に下がったストップウォッチが鳴った。ゲームの始まりの合図だ。三国はエルと弥恵をぐっと引き寄せ、「せーのっ!」と叫んだ。

『ウチラは超えるまだまだ超えたる、愛情、友情、絶頂、幸福、達成感に高揚感に自己陶酔にチョコレート、ミルフィーユにエンゼルショコラ、その他諸々まだまだ足りない、皆まとめて、大好きだぁ―――――――っ!』

 エルと三国と弥恵の三人は拳を付き合わせ、ゴーグルを下げ、銃を構え、歩き始めた。


【17】


 コードネーム、レオパルドこと豹然京子は舌を巻いた。比呂巳の自然にとけ込むスピードが尋常ではなかったのだ。

「じゃあ、各自好き勝手暴れるっていうことで」

比呂巳は邪気のない笑顔で二人にそう指示した。綾はどこでスナイパーを気取っているか知らないが、京子は比呂巳の後ろを付けていた。いくら比呂巳が最強と言っても、銃を持って二度目の初心者であり、相手は悪名高きバルチャーである。フォーメーションを組んで行動すべきだと考えたのである。

しかし、そんな心配いらなかった。比呂巳は速攻で相手に銃弾を浴びせかけ、仕留められはしなかったものの、相手のフォーメーションを崩し、また自然に潜り込んだのである。京子はそんな比呂巳の行動を追うばかりである。コレではまるで比呂巳を付け狙っているストーカーのようだった。

『こちらピロ2、レオパルド、近くにいるんでしょ?』

 イヤホンから比呂巳の声。どうやら、京子が付いてきていることは気付かれていたようである。「はい、ピロ2」

 見上げると、比呂巳は高い場所から、こちらを振り向き、視線を合わせてきた。『ここまで来て』

 京子と比呂巳は岩場の影に肩を並べ隠れた。

「作戦を言うよ。とりあえず、あっちを見て、」京子は言われたとおり、岩から少しだけ顔を出し、比呂巳の視線の方向を見やる。「二人いる、分かる?」分からなかった。木の幹や葉が視線を遮っていた。「倍率を上げてみて」バイザーの倍率を上げる。微かだが、動きを捉えることが出来た。ピロ2は、あれを肉眼で捕らえていたのか?

「眼じゃないんだよ。なんていうか、空気が教えてくれるって言うか」いやいや、そっちの方が充分凄い。つまり第六感ってやつじゃないか。「私の家が、この近くだから、小さい頃からこの森で遊んでたりしたから、分かるんだと思うよ」

「なるほど、ここはピロ2のホームグラウンドってわけですか。序盤の奇襲も納得できました」

「で、作戦なんだけど、」比呂巳は堪えきれない、という風に笑みを零した。頼もしくもあり怖くもある。「突撃してもいい、レオパルド?」

 京子も釣られてクスッと笑った。「仰せのままに」

「決まりね。じゃあ、援護を頼むよ、レオパルド」

「はい、ピロ2」

 そうかしずいたところでポケットのケータイが震えた。見ると、志からだった。

「志様? どうしたの、…………はあ? 何よ、いきなり、まあ、豚しゃぶかなぁ、…………っていうか、今忙しいから、また後で!」


【18】


 エルと三国はぜぇぜぇと肩で息をしながら、先ほどの奇襲に思いを巡らしていた。

 エルは三国の首に下がるストップウォッチを見た。

「開始五分も立っていないじゃないか!」

 いつもの前哨戦とは全く違った。互いに銃を突き合せてはいるが、中身はペイント弾だし、これはそもそもゲームなのである。意地の張り合いの前に、楽しむ、という暗黙の掟がある。起承転結を旨とし、最初は厳かに、最後はどわっと盛り上がる、そういう楽しみ方がサバゲーの醍醐味だ。

 けれど、さっきのヤロウはそのお決まりの緩いセオリーをぶち壊しやがった。

 アレは一気にカタをつける気での奇襲だった。エルは奥歯を噛んだ。

 そっちがその気なら、コッチだって。

「あの動きはルシファーでもペンギュインでもレオパルトでもなかったわね。向こうも新戦力を投入したのかな」

「新戦力か、同じ単語でもこっちの八重歯ちゃんのとはえらい違いだな」

 ふふっと小さく笑って、「なあ?」と皮肉を込めて隣の弥恵に声を投げるが、返事がない。横を見ても、ぐるっと視線を旋回させても、弥恵の姿はなかった。はぐれてしまったのだ。それとも、もうやられちまったのかっ!?

「弥恵のやつ、どこ行きやがった!」

「弥恵ちゃん、弥恵ちゃん」三国がイヤホンに指を当て、マイクに向って語りかけている。が、中々返事が返ってこないようだ。「駄目、返事ない。外れちゃったのかな? エル、どうしよう? 探しにいかないと、」

「まったくもう、」エルは銀色の髪を掻き毟り、天を仰ぎ、一言。「ほっとけ」

「そんなぁ、弥恵ちゃんはココに来るの初めてなんだよ。遭難しちゃうかもしれないよ。もう少しで暗くなるし、無線も通じないんだから、」

「ケータイは?」エルが周囲に気を配りながら聞いた。今、狙い撃ちされたら終わりである。「ここはバリ三のはずだぞ」

「あっ、そっか…………って、まだ私たち番号聞いてない」

「じゃあ、それまでってことだな」

「エルったら酷いよ。弥恵ちゃんはまだ十歳だよ」

「十歳でも知恵があって、知識もある。弥恵はただの十歳じゃないよ。私はそう思ってる。思わなきゃ、あいつをバルチャーにしたりなんかしないって、」エルは鷹揚に三国を励ますように言った。「大丈夫だって先輩、あいつはこんなところで遭難して、レスキュー隊のお世話になるようなタマじゃないよ」

「で、でもぉ」

「もう、先輩は心配性だなぁ」言いながらも、三国の悲しげな顔は一刻も早く退散させたいエルである。それに、散々な言葉を積み上げながらもエルも弥恵のことが心配だった。「しょうがないな」

 探しにいくか、そうやって隙を見せ、走ってきた方向に踵を返したときだった。

 ヒュンッという音が耳に入る。斜め前方の樹木の太い幹に毒々しいライトグリーンを確認した。

 そして続けざま、けたたましい発射音とともに嵐のような弾幕が襲ってきた。

『レオパルド!』

彼女のガトリングガンの弾幕だ。咄嗟にエルと三国は互いに別々の細い幹に隠れる。十秒間の弾幕だった。幹に納まらずさらしてしまっていた手足はライトグリーンに染まっていた。

 ガトリングガンは、連射は出来るが、玉の充填に時間がかかる。その隙をついて、エルと三国は太い幹に転がり込み、半身と銃を突き出し、敵を探る。

「三佐、こっちにはいないよ!」

「こっちもよ!」二人で三百六十度、全方位を見回した。

が、敵の姿はない。ガトリングガンは威嚇だったか? 援護射撃なら、どうして敵が姿を見せない。

どこだ、どこだ、どこにいる。

「上っ!」三国が先に気づいた。信じられなかったが、銃剣を構えたイーグルスの新戦力が、ズダダダと発砲しながら降りてくるではないか。エルと三国は左右に転がってやっとのことで頭部と胴体に発砲されずに済んだ。これが実戦なら手足が何本持っていかれたか分からない。

 エルのサブマシンガン、三国の二丁拳銃が低い位置から火を吹いて、イーグルスの新戦力を襲う。しかし当たらない。体にかすりもしない。

二方向からの狙い撃ちだぞ、どうして当たらない!

エルと三国、同時に弾が切れた。

こりゃあ、ヤバイ。

新戦力が余裕の態度でエルの凍りついた顔を睥睨しているように見える。首をもたげ、「もう終わり?」そんな感じに。銃剣をこちらに構えてもいない。

「ち、畜生!」エルは叫び、立ち上がる。慣れた手つきで、マガジンを装填。と、その間に距離が詰められた。目の前に顔がある。バイザー越しに視線が絡んだ。早すぎて、一連の動作をエルは見ていない。ペテンにあったような気分だった。情けなくなり、腹が立ち、怖くなる。

「こっちに来んなっ!」

叫びながら発砲。当たらない、当たらない、見事に当たらない。当たらないどころか、新戦力の銃剣の先、黒く歪み、光を鈍く反射するナイフが銃弾の波を潜っては、襲ってくる。再度弾切れ。補充している暇を与えてくれない。サブマシンガンはナイフを防ぐ盾となった。

「お前、何もんだ!」

銃剣をやっとのことで交わしながら、エルは声を張り上げる。余裕があるのか、そうじゃない、余裕がないから叫ばないとやっていられないのだ。

「ピロ2よ」

「変ったコードネームだなっ!」

 鍔迫り合いのようになり、エルはそれを力任せに振り払った。「どうして銃を使わないんだっ!?」

「あなたはコレでやると決めたから」

 突きがズバッと脇の下を襲う。袖が短く切れた。おもちゃのナイフのはずだ。しかし、切れた。どういうことだ、簡単だ、ピロ2の銃剣に刺されたらヤバイってことだ。

 ニタリ。ピロ2の極上の笑みがエルの網膜に張り付いた。

 そして銃剣の切っ先がエルの胸元へ向いた。

 と、そこでガトリングガンの弾幕が襲ってきた。どちらかというと、それに助けられたというべきか。味方の弾に当たってもアウトであることは変らない。ピロ2もどこかで弾幕を避ける必要がある。ピロ2はふっと退いた。エルも慌てて地面に伏せ、三国のところへくるくると転がり、やっとのことで辿り着いた。

 そして一言。

「三佐、援護してくれたって罰は当たらないよっ!」

「してたもん!」確かにエルとピロ2の攻防の間に三国の二丁拳銃は火を噴いていた。しかし、全て交わされていたのである。「こうなったら、アレを使うわ」

「アレか?」確かにこの状況を覆せるのはアレしかない。

「エル、時間を稼いで」

「オッケー、三佐」

三国は二丁拳銃をエルに渡した。そして背負っていたかなり大き目のリュックサックを降ろし、金属片を取り出し、組み立て始めた。

ガトリングガンがピタリと止んだ。

すかさず、エルは幹から躍り出て、三国を背に、二丁拳銃を構えた。ピロ2は狙ってくれといわんばかりにゆったりとエルの前に姿を表す。

「このっ!」もう当てる気などさらさらなかった。時間稼ぎだ、三国がアレを打つまでの時間稼ぎである。

「三佐、まだか!?」

 ピロ2がゆっくりとこちらに歩いてくる。

「あと六秒!」三国は金属片をガッコンガッコンとやっている。「あと五秒!」

 カチカチ、弾が早くも切れた。マガジンの交換って、…………拳銃用の弾は三佐の腰だ。「ああ、もうっ!」

 エルは右手の拳銃を比呂巳に向って投げつけた。当然、弾ほどの速度もない。簡単に避けられてしまう。そんなことは百も承知だ。エルは考えていた。もうココは捨て身でいくしかない。アレの命中率を上げるために、エルはピロ2を組み伏せようと考えた。ピロ2は驚異的な身体能力を持っているが、身長体重は初等部の四年、十歳ってところだ。全然、行けるっ!

 エルは銃身を持ち、斧を振り上げる感じにピロ2に向かって突進した。その捨て身の攻撃にはさすがのピロ2も虚をつかれたのか、バタバタっと組み伏せることに成功した。

 思ったより華奢な体つき。おっぱいもまだ膨らんでいない。

 エルは少しばかり可哀想に思った。……が、コレもこの状況なら許されるよな!

「三佐ァアッ!」エルは唸り声を地面にがなりつけた。

「準備完了ッ!」爆弾が弾けたような返事が返ってくる。「いくわよぉおおおお!」

 三国はアレを構えていた。黒くて、硬くて、太い円筒型の危ないやつ。

 どこから見てもロケットランチャー。

 三国はロケットランチャーを肩に背負い、そして、あの目をしていた。ハンガリーのミリタリーショップで見たあの目をしていた。

 普段の優しい風貌からかけ離れたバルチャーの瞳だ。

 狡猾で、残忍、ゆえにエルが標的と被っていることなど気にも止めない。『エル退きなさい』『私のことは気にすんな! 早く打て!』『そんなの駄目よ!』みたいなこともしたかったけれど、三国の目は完全に標的しか見ていなかった。

 さあ、三佐、打ってください。

 そんな具合に、エルが重々しく達観した哲学者の顔付きになったときだった。一匹の黒ブタがエルの凹凸のない胸に飛び込んできたのである。

「? ぴ、ピエールじゃないかっ!」

 愛して止まない親友、アリーナが飼育するミニブタがどうしてこんなところに?

 おお、可愛そうに、なんだか怯えているじゃないかぁ。

 いや、ピエールを落ち着かせる前に、

「三佐ぁ待ってぇ!」

 しかし、遅かった。三国が「え?」という顔になるコンマ一秒前に、既に引き金は引かれてしまっていたからだ。ピエールを危険に晒すわけにはいかない、ペイント弾だけど、気付いたときには、エルは握り締めていた拳銃を発射されて間もない砲弾に向って投げていた。

 拳銃と砲弾は衝突した。砲弾はエルの方へはやって来なかった。だからといって衝突地点で爆発もしていない。が、奇妙な軌道を描いて、「いやああああああっ!」と悲鳴を上げる三国を血祭りに上げてしまっていた。

 全身ライトグリーンの三国はココで戦闘不能になった。

 ペイント弾とはいえ、ロケットランチャーである。その威力は相当なもので、自分の砲弾に当てられた三国は目をぐるぐるとさせている。

「あわわわっ」

そんなやっちまった感を漂わせているエルも、クサッ、ピロ2の銃剣に胸を突かれ、あっけなく戦闘不能になった。


【19】


 志は《めがね橋前》というバス停で下車し、砂利道を少し歩いて、背負っていたドラム型のリュックサックを降ろした。

 志はしばし考える。エロブタは本当に役に立つのだろうか?

 ま、考えても仕方がない。ファスナーをズーっと開く。「ブグウ」と志の凹凸の無い胸に飛び込んできた。ピエールはそれがお気に入りらしかった。

 志は細く整った眉をぴくぴくさせながら、逃げる心配の無いピエールの首輪に手綱をつけた。志は「よいしょ」とピエールを懐から抱き上げ、しゃべりかける。

 ピエールはどこか人間の言葉が分かる節がある。

「頼むよ、ピエール」このブタを頼りにせざるを得ない立場がなんだか悩ましい。「さあ、さっさかトリュフを探しちゃってちょうだい」

「ぶひっ」

 まるで親指を立てたみたいに蹄を志に向けると、ピエールは懐から軽快に飛び降り、地面の匂いをかぎ始めた。ピエールは鼻を鳴らしながら、トコトコと前進する。匂いはまだ捉えられていない感じで、志の早歩きのペースで進んでいく。いつの間にやら、道の無い樹木の繁みに入っていた。ミリタリーブーツがめり込むほどに柔らかい腐葉土の地面だ。足を取られないように慎重に、慎重に、とバランスを取っていると、急にピエールが「ぶひっ」と走り出した。

 見つけたのかっ?

「あわわ」と腕を引かれ、転びかけながらも、志は懸命に走った。ピエールはまるでロケット弾頭のように風を切り、首にかかる志の重さもなんのその、途中から志は四駆に引かれる軽自動車の気分になっていた。

「はぁ、はぁ」

 どれくらい走っただろうか、志は膝に手を当て、肩で息をしていた。もう走れませんと、かすんだ瞳が言っていた。志はオレンジ色に染まりかけた空を仰ぎ、ブルーのカラーコンタクトに目薬を差す。すでに手綱は志の手には握られていなかった。

 ピエールは忠実に志の足元で、目薬が瞳に染み入るのを待っている。

目元をキラキラとさせ、志はピエールに尋ねた。「で、どこなの?」

「ぶひっ」ピエールはここ掘れワンワンという具合に樹木の根本に鼻先を向ける。

 なんの変哲も無い木の根本である。

 半信半疑ながら、志は「……よしっ」とリュックから園芸用のシャベルを取り出し、指定された場所を慎重に掘り進めた。アリーナによれば『トリュフは地中五センチから四十センチくらいのところに埋まっているから、シャベルで突き刺さないように優しく掘るのよ』とそういうことだった。

 ふと、二十センチくらい掘り進めたところだろうか、硬い感覚がシャベルの先から志の手の平に伝わった。志は表情を変え、シャベルを穴の脇に置き、手で掘り返す。

「あった」

 黒くて、丸くて、世界三大珍味の一つが見つかったのだ。「あったよ、ピエール。あんた、すごいじゃないのっ!」

 エロブタと認定した小一時間前とはまるで違う態度である。志はピエールをぎゅうと抱きしめた。

「ぶひっ」本来のブタであれば、トリュフを見つけたら、直ぐにがっつきたくなって、ブリーダーとの争奪戦になるようなのだが、ピエールはトリュフの誘惑に負けることも無く、理性的だった、というか、人間の女子の抱擁にトリュフを超える快感を得ている様子である。「ぶひひっ」

 志は嬉しすぎて、手元の黒いダイヤをこう形容してしまった。

「まるでウ○コみたいね」

 その発言をピエールは鷹揚に諌めるように、渋い表情で鼻を鳴らした。「ぶひっ」

 可愛い女の子はウ○コとは言っちゃいけないよ、とそんな感じに。そして、ピエールは一心不乱に喜んでいる志の懐から飛び出して、次のトリュフを探し始めた。この辺りはトリュフが大量に埋まっているらしく、ピエールは怪しい場所に器用に前足で、×印を付けていく。志が掘ると、出てくるものはトリュフばかりである。

 いつの間にか、アリーナから渡された皮袋はトリュフでいっぱいになった。

「ふう、コレだけあれば充分だよね」

 志は木の根本に腰を降ろし、脇に控えるピエールを撫でた。ピエールは嬉しそうな表情を見せる。「あっ、ブタはトリュフが好物なんだよね? ピエールにご褒美をあげなくちゃね」

 志は皮袋から一つ取り出し、妖艶な匂いを嗅いで、ピエールの口元に持っていった。喜んで食べると思いきや、しかし首を振って食べようとしない。

 遠慮してるのか?

 最初は欲望に忠実なエロブタかもしれないと思っていたけど、実はハチ公並みに礼節を重んじる、凄い主人思いのブタなのかもしれない、と志はさらにピエールを見直し、トリュフを勧めた。

 しかし、ピエールは口を開かない。どちらかというと嫌いなものを無理矢理食べさせられているという感じだった。

 そんなブタの感情に気付かない志は、「もうっ、人間様の親切はしっかりと受け止めなさいよね!」と怒り出した。ピエールは『だって……』という困惑の表情で後ずさる。

「ピエール、いいから口を開けなさい」ついに高圧的に命令し始めた。「開けないと、焼きブタとチャーシューとハムとソーセージとベーコンよ!」

 志の表情は本気だった。いや、酔っ払ってしまったように頬に丸くピンク色が浮かんでいる。なるほど、トリュフに当てられてしまったようである。アリーナは言っていた。『この国のトリュフは香りが強くて、少しの麻薬作用があるから気をつけてね』。それゆえの媚薬の材料であり、この場においての志の惨状なのであった。

「そういえば、コレ、本当においしいのかな?」

 そしてとうとう志は胡乱な瞳で、まるでマカデミアナッツを二、三個口に放り込むように、トリュフをくちゃくちゃと食べてしまった。世界の三大珍味を噛み砕いているのにもかかわらず、感慨という二文字は志の表情から窺えない。まずいわね、とフランス人とイタリア人に喧嘩を売りかねない横柄な態度が志のうなじから滲み出ている。

 さて、

「ごっくん、」と志はトリュフを飲み込んだ。喉を通り、食道を通り、胃液がトリュフの成分を分解し始めると、さらに志の症状は「ひっふ」てな具合に悪化した。「さあ、ピエールっ! 口を開けなさい」

 ピエールは身震いした。このままではトリュフの思惑通りにやすやすと酔っ払った志に、焼きブタとチャーシューとハムとソーセージとベーコンだ。仕方なく、ピエールは口を開けた。

 そこへ放り込まれたのは一つ、二つ、三つ、四つのトリュフであった。

「……ぶぶぶぅ」

 ピエールは青い顔をして、必死で飲み込まないように頬袋にトリュフを放置しておく。

「ろぉ? ピエール、おいしい?」

 ついに呂律の回らなくなってしまった志は、普段のエセヤンキーの姿と打って変わり、幼女のようなお気楽顔で、口元は緩みに緩んで、ふとしたはずみに目の前のブタをまる焼きにしかねない堕天使だった。

 ピエールは発汗しながら、「ぶひひ」と精一杯の愛想笑いを浮かべるばかりである。

 ああ、アリーナの小屋に帰りたい、ピエールの横顔はそう言っていた。

 不意に、志は首を左右に振った。ピエールは何事? とビクつく。

 さらに志は大げさに、酔っ払いが自分の体を制御できずに無駄な動きを繰返すように、首を左右に振り、その場でぐるりと回転した。

 志の瞳に飛び込んできたのは、辺り一面、ある風景を横に伸ばしてパノラマ写真にしたような秋の森の風景だった。そして不安定な心を襲ったのは孤独、敏感になった背筋を凍りつかせたのは計り知れない恐怖だった。

そして、トリュフの麻薬作用で平静を失った志はおもむろに立ち上がり、ピエールを抱き上げ、歩き出した。

ここはどこ? どこなの?

 志のカラーコンタクトの奥の瞳はせわしない。せわしなく、震えている。

 ピエールは木の根本に置かれたままの、皮袋を眺めていた。「ぶひっ」と気付かせようとするが、志は見向きもしない。ピエールはやってきた方向に蹄を向けるが、志は逆方向へと歩を進める。ピエール、万事休す。このまま夜を迎えたら、軽い遭難である。そして腹をすかせた志はピエールを食べてしまうはずだ…………、ピエールはそこまで考えると、「ぶひひひひ」と暴れたが、志から逃れられることは出来なかった。

「ピエール、出口はどこ?」こっちこっち、とピエールは蹄を立てる。

「そうね、分かる訳ないよね」いや、だからこっちこっち。

「ピエール、」神妙な顔の志がピエールの額を擦りながら言った。「……食べちゃっても恨まないでね」

「ぶひひひひひひひぃ!」

ピエールが悲鳴を上げたところで、志はケータイを取り出した。よし、それで救助を、と思ったが、違っていた。119番は志の頭にはなく、親友その一にダイヤルしていた。

「もしもし、京子?」

『志様、どうしたの?』

「豚料理っていえば何かなぁ?」

『はあ? 何よ、いきなり、まあ、豚しゃぶかなぁ』

「いいねぇ、豚しゃぶ、豚しゃぶ」

 ピエールは生きた心地がしない。

『っていうか、今忙しいから、また後でね! ツー、ツー、ツー……』

「ひ、酷いよ、京子ぉ、えっぐ、えっぐ……」泣きじゃくりながら、次に志は親友その二にダイヤルした。


【20】


 コードネーム、ペンギュンこと片吟綾はスナイパーである。フィールドの高台にライフルを構えて陣取り、高感度のスコープを覗き、獲物が姿を現すのを待っていた。南極圏のペンギンが流氷漂う水面近くに現れる餌を待ち伏せるように、じっくりと。

………………きたっ!

スコープの隅に迷彩柄の服を着た、女の子の上半身が映りこんだ。

エルヴィーン・クイード・コンベルハイアーか?

しかし、どうも彼女の挙動にしてはおろおろという動きで素早さが感じられない。

オレンジ色の太陽の光が気になり、綾はスコープから目を離し、バイザーを上げ肉眼で確かめる。八十メートルは離れているだろうか、それゆえに判別が難しいが、夕日を煌かせている髪の毛はエルのものに違いないと踏んだ。

綾は立ち上がり、背後を気にしながら、場所を移動するべく立ち上がった。エルが敵前にふらふらと現れるなど、囮以外の何者でもないと思われたからだ。

綾は高台をゆっくりと下り、左斜め後方、エルが歩く場所よりも二メートルほどの高低差のある位置に、回り込んだ。そして周囲を軽快しながら、ライフルを構えるためにしゃがみかけた、そのときだった。

『♪らぁー、ららららぁー、にゅーうぇい♪』

 綾のケータイの着うたが鳴り響いた。志のバンド、第七軽音部の新曲『ジョイス』が森閑としたフィールドに響き渡る。この曲が流れたということは志からの着信である。

一体、何の用だろう、よりによってこんなときに掛けてこなくたっていいのに、普段、こっちから掛けても、『毎日会ってるじゃん』とか冷たく言って、おしゃべりすることに付き合ってくれないくせにぃ!

ともかく、綾はケータイに出ることなく、弾を装填し、銃を抱え、低く走った。背後にもし敵がいた場合、気付かれた可能性がある。照準を定めての射撃はリスクを伴う。三十メートルの距離を全力で駆け抜け、ゼロ距離射撃を実行する。エルをやってから、背後にいるかもしれない敵と対峙する、そういう算段を綾は瞬時に組み立てていた。

エルが上下左右を見回し、綾の位置とは逆方向に視線をやってから、背後の綾に振り向こうとしていた。

綾はズンズンと距離を詰め、速度を緩めることなく、

「ていやあああっ!」とキンキン声を上げ、エルに向って跳躍した。走り幅跳びの要領で中空で全身をそり、その反動で足を前に突き出す。

さながらドロップキックである。

そのままエルを倒し、胸元をペイント弾で汚す、そういうイメージである。

 が、しかし、綾の奇声に振り向いた人物は、エルとは似ても似つかない別種の美人さんであり、綾の大好物のお顔だった。その右耳にはケータイが当てられていて、なぜか胸元には一匹の黒ブタがいる。でも、敵の迷彩服姿だし、コレは裏切り? 志様が裏切り? でも、そんなはずはぁ、今日は遊んでいる暇ないって、えっ、そういうこと、寝返ってお前らを殲滅してやるって、そういうこと? そういえば志様、この前ケガをさせてしまったアリーナっていう可愛い子になんだかご執心だったし……、なるほど、そういうことね、そういうことだったんですねっ!

綾は空中でドロップキックの姿勢のまま、瞬時に自己完結して、志に向ってミリタリーブーツで武装された両足を突き出した。

「ふぎゃっ」

と、悲鳴を上げた志の口元に、綾はマウントポジションを取り、銃口を突きつけ、そして言い放った。「そんな、ひどい、ひどい、ひどいです、あんまりです、志様、裏切るなんてあんまりです!」

志の潤んだ瞳。綾は許してしまいそうな心境をぐっと胸元で押しとどめる。

「涙ながらの裏切りですか? そんな手には乗りませんからね。志様は私を、京ちゃんを、そしてピロ2をも裏切ったんです! 許してたまるものですかぁ!」

 綾は勢いに任せて引き金を引いた。ぱしゃっという軽い音がして、ピエールと志の凹凸のない胸に毒々しい黄緑色の蛍光塗料が付着する。「ぶひぃいい」とピエールは怯えきった様子でその場からトコトコと逃げていった。

「志様、いえ、志! 何か言ったらどうなのっ!」

引き金を引いたところで綾のスナイパーライフルに込められた弾は実弾ではない。志は当然生きているし、つまり綾の気は済んではいなかった。綾のライフルに実弾が装填されていなくて、本当によかった。綾は狂ったようになって、志の肩をゆっさゆさと揺らす。「謝罪しろ! 謝罪しろ! 謝罪しろ!」

 しかし、志の口から飛び出したのは、綾には意味の分からない「ありがとう」だった。

「あーや、ありがとう、あーや」

「へ?」何の脈絡もない涙ながらの『ありがとう』に綾はそこで志の様子がおかしいことに気が付いた。「ど、どうしちゃったんですか?」

 そして、次の瞬間、

「あーや!」ぐわしっ、と百合でもレズでも変態でもない志が綾の腰に纏わり付いてきたのだ。物凄い力で。

「ゆ、志様? どうなさって?」

「あーや、助けに来てくれたんだね。寂しかったよぉ、怖かったよぉ、あーやぁ」

 聞いたこともない志の緩い声と泣き声を聞いて、思わず「よしよし」と頭を撫でる。

 綾は何がなんだか分からない。が、ともかく愛しの志様に纏わりつかれて嫌なはずはない。ともかく、マウントポジションを解いて、熱い熱い抱擁をやり直そう。

 そう「うへへ」と思ったときだった。背中にぱしゃっという衝撃と音がした。すっかり警戒心の失われた綾はやられてしまったわけである。

 しかし、志とのヒメゴトに励むべく体位を移行していた綾にはやられたことなど気にもとめなかった。


【21】


 さて、綾を撃ち取ったのは誰かというと、バルチャーの生き残り、ワルサーの引き金を引いた弥恵だった。

「た、倒したんだよね?」

 状況はよく分かんないけど、まずは一人、撃退。弥恵はその場から離れながら、マイクに向ってその旨を告げた。しかし、返事がない。これも厳しくいく、のうちだろうか。それにしては先ほど、奇襲を浴びて散会してから、何の連絡もないのが気になるけど。

 弥恵の腰には、金色の部分を露になったプラグがゆらゆらと揺れていた。無線機から外れてしまっている。これではいくら性能がよくても耳にまで届かないし、声を送ることはできない。

 弥恵はそれに気付かず、エルの厳しい仕打ちだと思い、イヤホンの不具合であるとは露ほども考えなかった。それに弥恵は三国の心配を他所にこの森で遭難するなどとはコレっぽちも思ってなどいない。

 なぜなら、ここは幼い頃、毎日毎日比呂巳と駆け回っていた遊び場だったから。

 弥恵は次の標的を求めて、敵が好みそうな場所を考えて歩く。

 バラック小屋が北の方にあったはず。

 廃バスが西の方にあったはず。

 社が南の方にあったはず。

 そして東には……。

 そう思いを巡らしたところで、まるでロケットランチャーが炸裂したようなけたたましい炸裂音がした。

 弥恵は音がしたほう、東の方角へ向って走った。するとこちらに背を向けた黒を基調にした迷彩服を着た女性の姿が木と木の隙間から見えた。つまり、敵だ。どうやら弥恵には気付いていない様子だ。

 弥恵は射程距離までゆったりと歩を進める。

 幼い頃、比呂巳との鬼ごっこを思い出しながら。

 比呂巳との競争に比べれば、目の前の敵を仕留めるくらいなんてことなかった。

 約五メートルの距離から、弥恵は引き金を引いた。軽い音がして、女性の背中に黄緑色の塗料が弾ける。

打たれたことでやっと弥恵に気付き、振り返った女性は目を見開き、心底驚いている様子だった。

「いつの間に、全然分からなかった」やれやれと首を振り、大きく溜息をついた。「一体どんなペテンを使ったの?」

 弥恵は銃口を向けたまま応えないでいると、

「コードネームは?」と聞いてきた。「コードネームくらいいいでしょ」

「ニューファング」弥恵は短く言った。

「ニューファング、いいね。アリーナに代わるバルチャーの新鋭、ニューファング、悪くないね、凄くいい。でも、」レオパルドは一度背後を見てから、女性は死んだフリをするために崩れ落ちた。「うちの新しい牙に勝てるかしら」

 女性の影になって、弥恵には見えずにいた向こう側には、銃剣を構えた少女が立っていた。背丈が弥恵と変らない小柄な少女が立っていた。バイザーと帽子で顔が分からない。けど、咄嗟に比呂巳? と思った。まさか、そんなはずはない。そんなはずは……。

 そんなことを考える暇はなかった。

 少女の銃弾がズダダダダダと、鋭く襲ってきたからだ。

弥恵ははっとして両腕で胴体への攻撃を防ぎながら、近くの幹へ転がり込んで、立ち上がる勢いでそのまま駆け出した。向う先は東。東にある、弥恵と比呂巳と兄貴の、いや、兄貴なんていないけど、二人の秘密基地だった。

 秘密基地は、確か二人が五歳になったくらいのとき、弥恵のパパと比呂巳のパパが与えてくれた軽井沢のペンションみたいな小さな二階建ての白塗りの建物だった。二人はいつの頃からか、普通の雨風を防ぐ建物に飽き足らなくなり、主に比呂巳が忍者屋敷のように改造を始め、いたるところに罠を作った。比呂巳の発想力に幼い頃の弥恵はどれほど瞳を輝かせ、何度罠に嵌められたことだろうか。その罠、嵌められた罠だけに、その存在は弥恵の記憶に鮮明に残っている。その罠に敵を嵌めてやるっ! 比呂巳の罠に掛からないわけがない。

二年生になって、三年生になって、四年生になって、弥恵はあまり秘密基地に訪れなくなってしまったが、その罠は健在なはずだ。

 そこへ誘き出せれば勝利は確定したも同然だ。

 弥恵は比呂巳、比呂巳、比呂巳と走る。

 秘密基地が見えた。

紅葉の中、不自然に建つ人工物が見えてきた。記憶よりも白い外壁に古さが垣間見えるが、秘密基地は廃墟にならず、健在であった。懐かしい。比呂巳との二人っきりの時間が思い出される。が、現在目下戦闘中、懐かしさを噛み殺すように脳みその片隅に追いやって、背後の気配に気を配る。ココに入るところを見られなきゃ始まらない。よしよし、いい距離に近づいてきている。

 弥恵は真っ先に玄関に向わなかった。正面入り口には鍵がかかっているだろうし、なによりも昔の行動慣習が、弥恵を常に鍵を掛けていなかった小窓へと誘った。鍵は弥恵の兄貴、まあ、兄貴なんていないんだけど、年上の兄貴が持たされていた。鍵を兄貴に借りに行くと、必ずついて来るし、秘密基地で比呂巳と二人っきりになれないから、弥恵はそっとリビングの小窓の鍵を外しておいたのである。

 カラカラ、案の定、小窓は開いた。体が一回りも二回りも成長し、中に入るのはちょっぴり辛かったけれど、なんとか潜り込む事に成功した。中は光が届かず暗かった。けれど、この場所で何度かくれんぼをし、何度罠に嵌められたかは分からない。弥恵は敵が侵入できるように玄関のドアを開けに足早に歩く。

 そして、リビングを出ようとしたときだった。玄関が開かれる音がした。

 咄嗟に身を隠すために二階の階段を物音立てずに駆け上がった。

 なんで、どうして? 鍵は兄貴しかもっていないはずなのに……。

 針金か? 特殊工具でピッキングか?

相手はイーグルスの新しい牙、それくらいやってのけるのだろう。

ともかく、弥恵は玄関の気配を窺いながら、階段の壁際に手の指を這わせ、とあるスイッチを探した。確か、この辺りだった。敵は律儀に靴を脱いでいる。まあ、弥恵も律儀に靴を脱いであるが、今がチャンスである。あった、壁に一センチ画のプラスチックの感触。

罠、その一。来訪者の脳天を叩き割る、金ダライ。

ふふっ、実際にやる側となると、こんなにも笑いが堪えられないものなのだろうか、弥恵は十歳とは思えない魔女の顔で、スイッチを押した。敵はタライにやられ、きゅーとなって、私のワルサーの餌食だ。そして、先輩方に誉めて、いや……罵ってもらおう。弥恵はお風呂場でそのお肌を見る前から、三国の罵りにならないヘタレ攻めを虎視眈々と狙っていたし、隙を見て、お姉さま呼ばわりしようとしていた。

さあ、さあ、さあ、タライよ、やっちゃって!

が、弥恵の思い通りにはいかなかった。玄関の天井がかぽっと開き、タライが落ちてくることはなかった。逆に、

がぁんっ!

と、タライ独特の音がしたのは弥恵の脳天からだった。

「…………イタイぃ」脳天を押さえて弥恵はその場に「うううぅ」とうずくまった。目尻にはうっすらと涙の粒。

……なんでよぉ。って、ハムスターみたくうずくまっている場合じゃない!

タライの音を聞きつけ、敵の気配はゆっくりと、こっちに向ってきていた。

マズイっ!

そして、さらにまずいことに、弥恵の手からワルサーが零れてしまっていた。ペイント弾が装填された武器がなければ元も子もない。罠に嵌めても意味がない。足元を探った。暗闇の中、なかなかワルサーは手にかからない。その間にも、敵はゆっくりと近づいてくる。

落ち着くのよ、弥恵。冷静になるのよ、弥恵。宇宙の物理現象が根底から覆らない限り、絶対にワルサーは消えていないんだからっ! ほうら、あった!

と、弥恵がワルサーを手にした瞬間だった。

猫目になっていた弥恵の瞳に強烈なLEDライトの感覚。

眩しいっ、弥恵は思わず目を瞑る。

初め、弥恵は目を瞑ったから、なんだか体がふわっと浮き上がったような感覚になったのだと思った。重力をするすると感じているのはそのせいだと思った。滑り台を滑っているような気持ちのよいお尻の感覚は瞳がそっと閉じられたときに起こってもおかしくない現象に思われた。

そして、弥恵がそんなお気楽なものではないと気付いたのは、階段が自らの段差を捨てて、なだらかな傾斜を作り上げているという驚愕の事実に気付き、この罠の存在を鮮烈に思い出し、少女――ピロ2に睥睨されているときだった。

滑り台と化した階段から私は廊下にすんなりと落ちてきている。

私は罠に嵌められた。

弥恵は空手で鍛えた動体視力を活かんなく発揮して、咄嗟にリビングに転がり込み、振り向きざまにワルサーを発砲。一発、二発。しかし、ピロ2は機敏な動きで扉を盾に銃弾を防いだ。

そして、そのまま膠着状態が十秒。弥恵は唾を飲み込む。喉が渇く。

沈黙は弥恵を責め立てる。

どうする?

弥恵がワルサーを向けている限り、この部屋にはピロ2は出て来れないだろう。一見、弥恵の優勢。だが、だからといって、扉の向こうに調子に乗って、ノコノコと出てゆけば、黒く鈍く光る銃剣の餌食になることは間違いない。

感情が高ぶっているとはいえ、それくらいは弥恵にでも判断できた。

どうする? 動く? アクションを起こす? カウンターを恐れずに行く? 扉を蹴り跳ばして突入する? どうする?

どうしようもなかった。

突然、弥恵の体は空中に放り出された。リビングの床がバタンッと開き、弥恵は落下した。

悲鳴も出ないほど、それはそれは、唐突だった。

「……いてててっ、」弥恵は瞳をマイナス記号にしながら、柔らかい井草の床に打ちつけた形のいいお尻を擦る。「はううううぅ」

…………ココ、どこ?

弥恵は畳の上だった。十六畳ほどの広々とした部屋。多分、地下室だった。

しかし、弥恵の記憶に、この秘密基地には地下室なんてない。

弥恵は自分の現在の状況を把握すべく、その和風の部屋を見回した。

壁に和紙で囲われた薄ぼんやりと光るLEDライト、狩野永徳の唐獅子が模写された襖。違い棚の上には司馬遼太郎全集、その下には日本刀が飾られていた。

いわゆる書院造の部屋だ。当然、和服を着た鑑定士や和服を着た骨董屋が喜びそうな掛け軸も垂れ下がっていた。そこにはこう書かれていた。

《翠帳紅閨》

なんて読むんだろう? そしてどういう意味だろう、弥恵は掛け軸に目を近づけた。

と、またしても唐突だった。

ぱさっと掛け軸の向こう側から、ピロ2がぬっと現われたのだ。

形のいい唇だ。弥恵はその唇に見覚えがあった。

まるで忍者屋敷だ。いや、そんなことは何年も前から分かっていることだったが、思わず弥恵は仰け反って尻餅をつき、くるっと、その勢いのまま後転してしまった。

しかし、弥恵、ピロ2にいいように驚かされてばかりではなかった。起き上がりざまにワルサーをぶっ放す。撃つ、撃つ、撃つ。

しかし、その銃弾は全て畳に阻まれた。ピロ2がドンと床を足で踏み込むと、目の前の畳が黒髭危機一髪の黒髭のようにスポンと跳んで、盾となったのである。

 ライトグリーンに染まった畳が押し寄せてくる。ピロ2が迫ってくる。

「来るなっ! 来るなよっ!」

 弥恵は後ろに下がりながら撃つ。ペイント弾に貫通力はない。弥恵の連射は畳が汚れるだけの、非生産的な行為だった。しかし、撃たずにはいられなかった。その他にこの状況であがく方法があれば教えて欲しかった。

カチッ、カチッ。

もう弾がない。予備もなくなった。

背中が壁に衝突した。もう後ろには下がれない。万事休す、絶体絶命、チェックメイトだ。

畳が横に払われ、ピロ2が姿を見せた。

バイザー越しに、視線が絡み合う。

間違いないっ!

すぐさま、ピロ2の銃剣が襲ってきた。銃を撃つ気がないのなら、弥恵にもまだ勝機がある。気合を入れなおし、弥恵は全力全開で、その銃剣から避けた。間髪いれずに、第二撃。弥恵はそれも紙一重のところでかわす。その表情は闘志に溢れていながらも、どこか涙を必死に堪えているようにも見えた。

やっぱり、やっぱり、そうだっ!

弥恵はピロ2の太刀筋から確かに感じ取った。思想、哲学、イデオロギー、彼女が背負う世界観を確かに感じ取った。というか、この秘密基地を知り尽くしている人物はこの世でたった一人しかいない。

「間違いないっ! お前っ、比呂巳だなっ!」

弥恵はがなった。

すると、ピロ2の動きが止まり、口元がほころんだ。そしてバイザーがゆっくりと外された。「弥恵ったら、今頃、気付いた?」

ピロ2こと比呂巳は、もう最初から弥恵だと分かっていたらしい。

「随分前から気付いてはいたよ」ただ信じたくなかっただけ。弥恵もバイザーをぽいっと捨てる。「比呂巳がこのゲームに参加してるなんて、知らなかったよ」

「今日だけのピンチヒッターってやつだよ」

「そのわりには銃剣捌きが自衛隊の上等兵並じゃない」

弥恵はぶすっと答えながら、考えていた。

比呂巳に勝つ方法を……。「……こんな地下室があるなんて知らなかった」

「どう、ビックリした? 弥恵を驚かせようと思って、前に作ったんだ」

「別に、なんとも思わないわよ。コレっぽっちも比呂巳のセンスに脱帽なんてしてないわよっ!」

「弥恵ちゃんてば、冷たい」

比呂巳はわざとらしく銃剣をぎゅっと抱くようにして、悲しげな視線を寄越す。思わず暖めたくなるほどの愛らしさだ。でもでもでも、と首を振る。コレもきっと比呂巳の罠だ。同情を誘ってクサッと胸を突く気だ。私に向ってあんな目を向けるはずはない。

「最近、なんだか弥恵がとてもよそよそしい気がする」

「そんなことない」語気が荒い。

「……何か私に、隠し事でもしてる?」

隠し事ならある。比呂巳への気持ち。多分、それが理由。でも、言えるはずないじゃない! 好きだ! なんて比呂巳に面と向って言えるはずないじゃない! 全部、比呂巳のせいよ。冷たいのも、よそよそしいのも、隠さなきゃいけないのも、全部比呂巳のせいよ!

ヒステリーで、弥恵の頭は沸騰しきっていた。

比呂巳なんて大嫌いっ! って叫びそうだった。

「隠し事してるっていうんなら、比呂巳の方じゃないの!」

担任の藤原と仲良くしちゃってさ。不潔よ! 犯罪よ!

 何、『はあ、何それ?』みたいな顔してるんだよ、コッチは比呂巳の一挙手一投足に目をやっているんだ。さながら、バルチャーのようにね。

「弥恵ってば、何を言うの?」

「別に、とぼけなくてもいいわよ。全部分かってるんだから、」

比呂巳が憎たらしかった。私のものになってくれない比呂巳が憎い。だから、絶対勝つ! 空手じゃなくていい、テストじゃなくていい、もう、なんでもいい!

 比呂巳に勝ちたい! 何が何でも勝ってやる。

 弥恵は決めた。再度、時計を見る。残り時間はわずかだ。比呂巳から逃げ切り、バルチャーズとイーグルスを引き分けに持ち込む。それがこの状況での勝ちだ。「それより、比呂巳、今はゲーム中でしょ?」

「うん、そうだったね」

 比呂巳は銃剣をカチャッと構えた。弥恵も、弾があるようにワルサーを握る。

「私のコードネームはピロ2、弥恵は?」

「……ニューファング」

「何それ?」

 比呂巳は笑った。比呂巳は覚えていなかったのだ。

 比呂巳がつけたんだよ、ニューファングって、覚えてないの?

 あの後、私の八重歯が可愛いって言ったのもきっと、覚えていないんだろうな。

 私、すっごく嬉しかったんだよ。比呂巳のことがあんなことやこんなことをしたいほど好きって気付いたのは最近になってからだけど、でも、そのときから、私は比呂巳のことを好きだったんだ。だから、覚えてるんだ。

 でも、比呂巳は、比呂巳は、比呂巳は……。

「バカッ!」

弥恵は叫び、ワルサーを思いっきり投げつけた。

 比呂巳が驚いた顔で、銃剣で受け止める。

その隙に弥恵はその部屋から脱出を図る。経路は左側の襖に絞っていた。

そこヘ飛び込み、制限時間一杯逃げ回る。

唐獅子が弥恵を睨んでいる。開けるな! という風に睨みつける。構うものか! 弥恵は襖をバッと開いた。

「…………そんなぁ」

 愕然とした。襖を開けてみて、弥恵は言葉を失わざるを得なかった。一気に感情が萎えた。徹底的に打ちのめされた。なぜならそこに道はなく、一面灰色の壁だったからだ。この部屋に誘い込まれた時点で、弥恵の負けは決定していたのだ。

「残念でした」

 弥恵の愛してやまない、比呂巳の無邪気なロリボイスが聞え、弥恵の背中はクサッと銃剣でやられてしまった。


【22】


 午後七時のルダシュは三国とエルとピエールだけだった。この時間帯は夕食を食べているお客が多く、三国は一人で八角形の浴場を占領できた。

「ふぅ、極楽、極楽ぅ」

 極楽そうな声が浴室に反響する。勝負に負けてしまったのにもかかわらず、深い水蒸気の中の三国の表情はさっぱりとして緩い。エルとは違い因縁を明日まで引きずらないタイプなのである。

「先輩、今日は本当にごめぇん」

 エルは情けない声を投げた。エルが必要以上に沈んでいる理由は敗北を喫した以外にもあった。終わってから分かったことだが、イーグルスはどうやら志抜きで戦っていたようなのである。最後にベースボールの試合みたいに真ん中に集まって礼、とかしないから事情は詳しくは分からないけれど、ともかく志は代わりに、若干十歳を送り込んできたのだ。まあ、結果的に十歳のピロ2の方が格段に厄介だったわけだが、考えれば考えるほど胃がムカムカして、ピエールを洗うタオルに力が入るというものだ。ピエールの体は、なぜかペイント弾の塗料で汚れていたのだった。どこで浴びたのかは謎だった。が、ともかくアリーナに悲しい顔をさせないために、エルはシャワーでわしゃわしゃと一心不乱に洗っていた。

「ペイント弾なのにぃ、こいつをかばったばっかりにぃ……」

 ピエールは少し力入れすぎが丁度いいらしく、恍惚の表情を浮かべていた。麗しきピアンネ娘との混浴を心置きなく楽しんでいる様子である。ああ、なんとうらやましいご身分であろうか。「ぶひひぃ」

「エル、深呼吸するのよ。心を落ち着かせなさい。ご乱心はお肌によくないわよ。今日のことはきっぱりさっぱり消化してさ、まだこれからもイーグルスとはやり合うんだしさ、そのときにリベンジしようよ。元気出せ、エルヴィーンなんとかかんとかぁ」

「…………先輩って、マジ先輩って感じに励ますよな。先輩はずるいよ。かなわないなぁ。たまに泣きたくなるよ。自分が情けなくなってさ」

「泣くな、エルヴィーンなんとかかんとかぁ」

「うぅ……面倒臭いから、エルでいいってぇ」

「それにしても弥恵ちゃん、かなり凹んでたねぇ。大丈夫かなぁ。ココにもついてこなかったしぃ」

「負けたことが悔しかったんだろぉ」

「それにしては漂う雰囲気がディープだったように思うけどぉ」

「いい傾向じゃないか。深い敗北感はタウリンよりも、インドメタシンよりも人間を成長させる、だろ。それに弥恵のやつ、ペンギュインとレオパルドをやったっていう話じゃないか。これからビシバシ鍛えれば、きっと物凄いバルチャーになるぞぉ」

 ふと、今まですっかり忘れていたという感じで、ピエールがエルの足元になにやら吐き出し、「ぶひひ」と『プレゼント』という感じに蹄でそっと差し出した。

「ん? 何、このウ○コ見たいなやつ?」

 そのウ○コみたいな、黒くて、丸くて、固いやつが四つ、ピエールの口から出てきた。

 ピエールは「ぶひひひっ」と何か説明している風に鼻を鳴らしているが、ハンガリー語と日本語をしゃべることのできるバイリンガルのエルでも、さすがに分からない。

 エルはシャワーで洗いながら手にとって調べる。

 ………………チューリップかなんかの球根かな?

「おーい、せんぱぁい」

「なぁに?」

「花に興味あるぅ?」

「団子がいいぃ」

「だよなぁ」

 さて、この球根どうしようか。庭にでも植えようか。

 あっとエルは保健室の壁際に咲き乱れた、球根から伸びる白百合を思い出した。

 日頃の御恩に先生にプレゼントしようかな、エルはそう決めた。



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