第二幕
【4】
ピアンネの図書委員会は返却期限を守らない人間を極端に嫌う。
いつの頃からか、図書委員会には本の回収部隊が設けられ、いつのころからか回収部隊の巡回が一週間に一回の頻度で始まった。ターゲットは一週間の返却期限を守らず、あまつさえ図書委員長がしたためる督促状を無視したアウトローである。その回収部隊から逃げることなんて出来やしない。逃避を想起した時点で、図書委員は回収の手はずを整えている。その制裁に例外など無い。いたいけでジャングルジムに夢中の初等部の低学年の生徒たちも免れる事など出来ない。もちろん教師も同様に、その制裁のターゲットになりえる。いや、むしろ教師たちの方が忙しいというつまらない理由をつけて、なかなか図書の返却に図書館に足を運ばない。足を運んでも、本の返却を忘れ、逆にさらに借りていくという体たらくである。生徒のはちきれんばかりの利発さとは正反対に、ピアンネの教師陣にはデイドリームビリーバーを気取る怠け者が多かった。
ガラガラガラ。「失礼いたします」
秋風が心地よい今日という日も初等部の職員室にスーパーのカートにスーパーの買い物かごを乗せ、高等部の図書委員がやってきた。その風貌は図書委員のイメージと寸分の狂いなく厳格そうで、どことなく将来は同性愛に走りそうなきゅっとした唇をしている。新調したばかりのブルーのおしゃれメガネは、特徴があまりない、薄っぺらい端正な顔立ちにピッタリ似合っていた。
彼女は例によって、真っ先に社会担当の藤原の席に向った。藤原には数十件の前科と、期限を超過した本の借りが大量にあった。
藤原はいなかった。教頭先生の席の後ろの掲示板によれば、藤原は出張中ということだ。督促状を無視して藤原は学校を去ったということだ。腹立たしい。さらに腹立たしいことに、藤原の机の上は本の山が出来ていた。明らかに一人分の貸し出し数を超えている。図書委員の目を盗み、勝手に持ち出したのだろう。これは早いところ図書館の近代化が望まれる。大学の図書館のようにマイクロチップを貼り付けたりして。
乱雑な机の上には物書きできる空間はマウスパッドほどしかなく、そこにもマイクロソフトのグレーのマウスが陣取っていた。その雑然とした光景に図書委員は呻いた。その神経質な眼には、将来はこんなおおざっぱな男とは結婚したくないという風な厳然たる決意が読みとれる。
図書委員は藤原の本を片端から、カートの中に放り込んでいった。その中には期限の過ぎていないものもあるだろうが、委員長からのお達しは藤原の本をすべて回収し、一ヶ月間の貸し出し不可を申しつけることである。
図書委員の彼女は藤原の机に油性のサインペンで《一ヶ月間、図書館への入室を禁ずる By 図書委員長》と殴り書きして、するすると次の収集場所へと向かった。
【5】
エルは原子力発電所の向かいの温泉宿で生まれた。エルの両親は科学者としてこの国にやってきたが、エルが母の胎内に宿ってから、枯渇寸前の温泉をただ同然で買い取り、ハンガリーのルダシュのような八角形の浴場を作った。父の話では、エルが産まれてすぐに、枯れていた温泉は湧き出したのだという。
エルは水蒸気の中で育った。
エルの乳児の頃の記憶は、浴場の、脳みそが溶け出してしまいそうな、ぬくい匂いだった。その匂いは紛れもなくこの国の匂いだった。エルはその匂いが自分に染み込んでいることを自覚している。
十三歳の夏に、エルはハンガリーに出かけた。ハンガリー語もしゃべれるし、エルは小さい頃から人並みはずれた度胸の持ち主だったから、両親は隠し持っていたという大量のユーロ札をエルに渡して送り出した。十数年前より、ハンガリーの物価は十倍以上も下がっていた。
別段、ハンガリーに行って何をしようとか、何を見ようとか、そういうことは決めていなかった。恥ずかしいことを言うと自分探しだった。エルの中にはまだこの国か、ハンガリーかで迷いがあった。自分の中のハンガリーを追い出すために、エルはハンガリー平原をひたすら歩き、ドナウ川で釣りをした。ブタペストでフォアグラを食べ、ブルゲンラントのワインを飲んで、自分はハンガリー娘ではないと自覚した。
ブタペストのヒルトンホテルに泊まり十日経った雨の日、エルは無性に握り寿司が食べたくなって、街に出た。寿司屋は直ぐに見つかった。毒々しいネオンの眩い、アボガドがわさびの代りに添えられていそうなアメリカ製の寿司屋だった。まあ、酢飯と魚介類があるなら……、エルはその店に入った。しかし杞憂だった。寿司はさらに乗ってクルクルと回転していたし、カウンターに立つ覇気のないハンガリー人を除けば、エルの国の回転寿司チェーンとなんら変るところがなかったのだ。そこにはアボガドのカリフォルニアロールも、ロブスターの握りも、エスカルゴの軍艦もなかった。きっとアメリカ人は学んだんだな、とエルはウニを頬張りながら思った。
「ウニ、うめぇー」
その寿司屋から帰りだった。一目で日本民族だと分かる顔つきの少女が、アンティークショップの軒下で雨宿りをしながら、地図を片手に困惑した表情を浮かべていた。背丈はエルと同じくらいで、茶色い髪の毛は雨で濡れていた。エルは友達に会ったみたいに嬉しくなって「久しぶり」と話しかけていた。
その人が燦獄三国だった。
三国はいきなり流暢な日本語を話すハンガリー娘に対して、丸い目をパチクリとさせていたが、エルが身分を手短に話すと、安心したようにふんわりと笑った。
「こんなところで後輩に出くわすなんて」
三国はピアンネの中等部三年に在籍していた。エルは相合傘で、自分の泊まるホテルまで三国を案内した。バスタオルを三国に渡し、濡れた髪を拭くように勧め、「シャワー浴びる?」と勧め、紅茶を勧めた。
三国はシャワーだけ断り、バスタオルを首に巻き、暖かい紅茶を啜りながら、
「あなたのこと、チラリと見たことある気がする。エセハンガリー娘と評判のエルヴィーンなんとかかんとか」
と、紅茶の蒸気のような、暖かい声音で言った。
「エルでいいよ、面倒臭いから」
二人はすぐに打ち解けた。
一台のダブルベッドの上で、エルは胡坐をかき、三国は寝そべって、ピアンネのことを話し、ブルマの履き方についてそれぞれの持論を発表しあい、国で流行りの同人作家チョコレートムースについての意見を交換した。
夢の中から現実に引き戻されたような感じだった。やっぱり私はエセハンガリー娘なんだ、とエルは自覚した。
「ところで、先輩はどこに行こうとしてたんだ?」
「おおうっ、そうだった、そうだった、のんべんたらりと雑談している暇なんてないんだった」
と言いながらも三国は慌てた素振りを見せず、おもむろに水を吸った地図をポケットから取り出し、広げ、目的地を指差した。「ココなんだけど」
エルは「うーん?」と目を落とす。
「ミリタリーショップ?」エルは三国の顔をまじまじと見た。この人の優しげな顔にミリタリーはあまりにもかけ離れていた言葉だったから。
「コノ事は機密事項よ」
燦獄三国先輩は自らを《バルチャー》と名乗り、「ばーんっ」と銃を撃つ真似をした。
「ば、ばるちゃー?」
エルと三国はその店に向った。雨はすっかり上がり、透明度の高いブルーに空は溢れていた。その店は三国が雨宿りしていたアンティークショップの裏通り、メインストリートから少し外れた、比較的住宅街と呼べる入り組んだ所にあり、つまり立地条件は最悪だった。崩れたレンガ道と地図の道は違っていて、
「コレじゃ私の索敵能力をもってしても分からないわよね」という按配だった。
店はトミーガンのBGMで、陳列棚はハンガリー軍だった。三国はエルを入り口のハンガリー国旗の下に置いたまま、瞳を爛々と輝かせ、迷彩服をあれやこれや着込み、モデルガンを手に取り、鏡に向って構えた。
構えたときだった。三国の目の色が変った。
鏡越しにエルは胸を打たれた。三国の弾丸が届き、炸裂した。
エルはその目に打たれたのだった。そして、やっとハンガリーに来た意味が分かった。
ひげのもふもふとした店の亭主が興味深そうに三国を見ながら、エルに話しかけてきた。もちろんハンガリー語で。
「中国人かい、それとも日本人かい?」
「違うよ。中国人でも日本人でもない。名前のない国の生まれだよ」
「あの国のことかい?」
「そうだよ。珍しい?」
「あの国のお嬢ちゃんたちは皆あんな目をするのかい?」
「先輩だけだよ、なんたってバルチャーだからね」
三国は手に取ったミリタリーグッズを片端からお買い上げになり、親日の亭主を喜ばせた。が、少々ユーロが足りなかったようだ。三国は残念そうに商品の選別を開始した。帰りの飛行機の時間まであまり無いようで、「うー」と泣きそうな顔をしていた。
「コレ、使ってよ」
エルはあまりにあまっているユーロ札を三国に渡した。
「いいの?」
エルは満面の笑みで頷いた。「夏休みが終わったら、絶対に返してくださいね」
夏休みが明けて、エルは三国と再会し、約束は果たされて、《バルチャー》となった。
そして、年月は瞬く間に一年を終え、エルは今、中等部校舎の屋上で寝そべっていた。秋風が心地よかった。風が頬をかすめる。制服は緩み、短いスカートは風ではためいて、純白のパンツは人工衛星の高精度カメラに向って煌いている。
コンクリートの温度が気持ちいい。
「…………眠いぃ」
うとうとまどろみ、このまま次の授業をサボることをエルは半ば決めていた。放課後までの昼寝を決行しようとした。銀色の髪が強風で煽られた。
――その時だった。
エルの瞳に何やら尋常でない事態が飛び込んできたのだ。
最初、あまりにいきなりのことで、目の錯覚かもしれないと疑った。けれど、向かいの初等部校舎の屋上のフェンスをよじ登る娘の姿を、エルのエメラルド色の瞳は確か捉えたのだ。
「なっ、あいつっ、何してんだよっ!」
エルは珍しく慌てた顔つきになって叫んでいた。フェンスの金網を掴み、頬を擦りつけ、叫ぶ。が、エルの声が向かいの金網をよじ登る娘に届くためには結構な距離があった。
あいつ、まさか……。
初等部の娘が屋上のフェンスをよじ登ってまでやることは一つだ。というか、屋上でやることといえばソーラーカーの実験と写生大会と教師の目を盗んでの昼寝と飛び降り自殺しかないじゃないかっ。
オタオタオタオタオタ、エルはくるくると回転しながら焦った。「どうすんだ、どうすんだ、どうすんだ」
こんなときの対処法なんて道徳の教科書にも、校長の話にも出ていなかったぞ。
焦っている間にも、娘はゆっくりと死へ近づいていっている。
ともかくっ! 彼女の自殺に気付いたのは自分しかいない。彼女の自殺を止められるのは自分しかいない。いないじゃないか! エルは走った。向かいの屋上まで三分ってところか? 時間切れになるなよ、「死ぬなよ、ばかっ!」エルは階段を二段抜かして駆け下りる。初等部校舎まで行くには三階から伸びている渡り廊下を走らねばならない。そこを通過する。その渡り廊下から屋上を見上げると、初等部の娘はすでにフェンスの外側にいて、思い詰めた表情で足元を見ている。エルは加速した。《バルチャー》として鍛えた健脚をフル回転させる。速度をそのままに階段を駆け上がる。「授業中に何してるの!? あっ、コラ、待ちなさい!」途中で教師に問質されたが、躊躇うことなく振り切った。教師に彼女の命が守れるはずない。壊すように屋上に出るための扉を開いた。
空の明るさが眼に飛び込んでくる。空気に揺さぶられながら、エルの一歩がコンクリートを踏みしめた。
左を向いて、右を見る。その視線の先に自殺志願者の娘がいた。彼女は十字架をきって、今にもふわりと飛び降りてしまいそうだった。ショートカットの黒髪はすでに飛び降りてしまったかのようにはためいている。
けれど、エルがこの場所へ来る間に彼女は飛び降りてしまわなかった。それはつまり説得の余地があるということだ。彼女はまだ迷っている。迷うくらいなら、屋上に来るなっ、ばかっ!
エルは彼女に向って走った。
『一度死んだ気になれば、何でも出来る』。いつだか三国が言ったその言葉の意味を、エルの肉体にはまだ分からないその言葉を彼女にぶん投げようと考えながら、
「待てコラッ!」と喉を引き絞って叫んだ。
娘は全身をビクッと震わせてから、そーっとエルに涙目を向けた。その水晶玉のように輝く黒い瞳の持ち主は弥恵だった。初等部四年の高野弥恵だった。エルと弥恵は、この時刻、この場所で遭遇したのだった。
エルはフェンスに飛び付いて、ヤモリのようにするすると登る。そしてまるで生と死の狭間、一メートルもないフェンスの外側のコンクリートに着地した。エルの一連の動作は安定感タップリだった。軸にブレがない。
「自殺なんてバカな真似はよせっ!」
スタッという効果音の後、間髪いれずに、エルは弥恵に体当たりするように密着した。フェンスの網に指を絡ませる。弥恵は一瞬いやいやと逃げるような素振りをしたが、思いもよらぬエルの腕っ節に簡単に捕らえられた。
「いや、いや、離してっ! 離してください!」
「はなしてたまるかっ!」
弥恵は狂ったように首を振り、やんややんやと奇声を上げ、目をマイナス記号にして、エルのいろんな場所をポカポカと殴った。エルもアドレナリンを注射されたように、弥恵をきつく締め上げる。しかし、その作業は容易ではなかった。弥恵は空手の有段者である。思いもよらぬ娘の拳の力強さと鋭さに、エルは舌を巻いた。簡単に説得できそうにないと思った。しかし、説得して、回心させなきゃ、この娘はこの学園を事件現場に変えてしまう。その威勢をエルは弥恵から感じていた。
「私はエルヴィーン・クイード・コンベルハイアー、中等部二年C組、温泉宿の娘だ、お前はっ?」
エルの唇が弥恵の唇の前でけたたましく動いた。弥恵はソコで、自分の自殺願望をすんでのところで踏み倒そうとする綺麗な外人が、エセハンガリー娘と評判のエルさんであると気付いた。
気付いてしまったから決意が鈍った。エルさんにきつく愛撫されているのに死んでしまうのは惜しいことこの上ない……、まあ、最初から本気で死ぬつもりなんてなかったんだけど。
弥恵は、
「あ、あの、」私は中流階級の父と母の間に生まれた至って中流の一人娘です。兄なんていません、
と、言いかけて、しかし、弥恵は口をキッと告ぐんだ。
どうして?
やはり、本気なのか?
いや、そうではなかった。弥恵のリビドーはむくむくと膨らんで自殺願望なんて毛先ほどに小さく柔らかくなっていた。弥恵の発作的に生じた自殺願望はハタリと消えていた。
……もう少し、もう少し、ジタバタすれば、もっとギュッとしてくれるかもしれない。
「お、おおおおお教えてたまるものですかっ、コレから死ぬんですもの、エルさんに私の名前を知っていてほしくないんです!」
エルは思った。これから死ぬ人間のクセに、元気すぎるだろっ。
「死ぬ前だから、聞いてやるって言ってんだよっ! せっかくだ、一度しかない飛び降り自殺なんだ、最後に私につき合わせてくれよ、悩みを言えよ、笑ってやるよ、その悩みの小ささを笑ってやる、例えば、そうだ、宇宙と比べてやるから、話せよ、死ぬのはそうしてからだって遅くない、そうだろ、だから、」
「宇宙と私の悩みを比べないで!」
エルは予想外の剣幕に押し黙った。……コイツ、と少しムカッとした。
一方、弥恵は内心ほくそ笑んだ。笑みがコロコロと零れて仕方がなかった。ああ、また一人、私ってばお姉さまを手中に、私ってばなんて罪深い、なんて思いながら、弥恵の口から次々に出てくるのは悲哀(?)に満ちた言葉の数々。
「宇宙の荘厳さを思えば十歳の乙女が自分のちっぽけさに気付き、『よおうし、明日から頑張るぞいっと』、なんて回心するとお思いですか? 言わせて下さい、エルさん、回心の覚悟は宇宙に比べて貧弱ですか? 確かに小生の体に広がる悩みは宇宙空間を浮かぶ銀河に比べて、ずっと小さくて、小さすぎて、秤などいりません。細菌です。ウィルスです。けれど、貧弱ですか? 細菌は貧弱ですか? ウィルスは貧弱ですか? エルさん、私の悩みは小さいかもしれません。でも貧弱じゃないんです。悩みは私を確かに苦しめるんです、飛び降りてしまいたいと思うほどに苦しいんです。エルさんは一体、私の何を知っているんですか!? ああ、死にたい、エルさんがこの腕の力を抜いてくれたら、」そういえば、エルはもう腕に力なんぞを込めてなどいなかった。「直ぐに楽になれるのに、ああ、死にたい、ああ、今すぐに死んでしまいたい」
一筋の涙が弥恵のふにゃっとして柔らかい頬を伝った。その涙はエルの胸元に落ちた。演説の終了と同時に落ちた。絶妙のタイミングだ。弥恵は確信した。エルさんの同情を勝ち取った、エルさんの心に染み入ったはずだと。
しかし、エルの心中は冷ややかだった。所詮初等部四年の演技である。バルチャーとして修羅場を幾たびも掻い潜ってきたエルである。コイツ、さっきから心にもないこと言いやがって、と胃のムカつきがピークに来ていて、なんだか苛めたくなってきた。「……さっきから気になってたんだけど、どうして私の名前を知ってるんだ?」
「中等部の綺麗なお姉さまたちのことはフルネームからスリーサイズ、住所まで熟知しています、それが健全なピアンネ娘の嗜みですもの!」
ちょっぴり自慢げに弥恵は言い放った。なんだか開き直ったような風な物言いに、エルは不信感を募らせる。コイツ、実は超絶に面倒臭いヤツなんじゃないかっていう不信感を募らせる。「そうか、……上級生のフルネームやスリーサイズや住所を突き止めるのが、初等部では流行っているのか?」
「え? あっ、いや、その…………」
弥恵はちょっぴり調子に乗ってしまった五秒前の自分を叱咤した。お姉さまのフルネームやスリーサイズや住所を突き止めたいと思うなんて、この学園では、百合で、ストーカーで、将来有望な変態さんの初等部四年の小娘以外に有り得ないからだ。
弥恵は、
「……べ、別に」とあわあわと口を尖らせながら、「どちらかと言えば、中等部のお姉さまたちを盗撮するのが流行っていて、……はっ、ええっと、……ってそんなことはないんですけどね」と言い繕った。
危なかった、百合で、ストーカーで、将来有望な変態さんだと思われてしまうところだった。弥恵は額に浮かび上がった汗を「ふうっ」と拭った。
そんな弥恵の思いとは裏腹に、エルは疑い始めていた。
この娘が犯人ではないのか? と。
最近、ストーキング行為を風紀委員に訴える生徒が増加しているという噂を耳にしていた。エルも何回か、不穏で、おぞましい気配を感じたことが、気のせいを含めて五十七回もあった。主に女子トイレ、更衣室の前や、階段の中腹や、スク水が溢れるプールの授業などで。
この小娘はその犯人ではないのか?
でも、何の目的があって、盗撮なんぞ?
弥恵にとっての幸運はエルが同性愛という概念にあまり親しくはない、ということだった。が、エルは弥恵がピアンネの美少女たちの写真で小遣い稼ぎをしているのではないだろうか、という金の絡んだ犯罪の下手人ではと疑い始めた。その疑いは、弥恵が饒舌に飛び降り自殺の理由を話し始めたことで増していった。弥恵は同情と愛情を、この機会にガッチリと頂こうとして、涙の数を増やして語り始めたのである。「ねぇ、エルさん、エルさん、どうして私が自殺をしようと思ったか聞いてくださいよ」
「はあ?」まあ、いいか、この小娘、死ぬ気なさそうだし。「えっと、どうして?」
「……それ、聞くんですか?」
必殺の上目遣い。多少少女を愛でる趣味のある女子には即行で利くのだが、確かに女の子に興味のないエルでも可愛いと思うほどの魅力を持っているのだけれど、しかし、エルはこめかみに十字を浮かび上がらせるほどに腹が立った。しかし、我慢、我慢、ココで気が変わって飛び降りられたら元も子もない。「……お願い、話してくれよ、どうしても聞きたいんだ」
「そんなに私に興味関心がおありなんですね?」
「ソウナンダヨ」日本語覚えたてのハンガリー人のような発音だ。それに引っかかることなく、すでに自分の都合のよい世界の住人は、
「仕方ありません特別ですよ、エルさんにしかしゃべりませんからね」と朗々と語り始めた。
「私が鼓笛隊に入っていることはご存知ですか?」
シラネ。
「エルさんの視線は前々から感じていましたよ。赤地にチェック柄の鼓笛隊のユニフォームが一番似合うのは弥恵ちゃんね、という視線を感じていました」
ミタコトネーヨ。
「鼓笛隊で私、ある先輩に苛められているんです」
ソリャ、ソノセーカクナラナ。
「コルネットのリーダーの六年生なんですけど、その先輩が練習の度に私を怒鳴りつけるんです。高いドの音が不安定よ、ソの音が不安定よ、低いドが不安定よって」
キョウイクネッシンナ、イイセンパイジャナイカ。
「それだけならまだいいんです! 先輩、練習が終わるたびに個人練習とか言って、私を呼び出して準備室で、二人っきりで、練習させるんです! しかも、先輩は自分のコルネットを使えばいいのに、その個人レッスンのときだけ、私のコルネットを二人で吹き合って使うように強いるんです。例えば、先輩がお手本を見せてくれて、その後に私が吹く。駄目だと即座に霧吹きを目元に噴射してきて、こうよってコルネットを取り上げて、その繰り返しなんです! 何回、あの先輩と間接キッスしたか!」
「ツンデレじゃね」
「そんなことくらい分かってますよ! 私、学園一、可愛いから、先輩が好きになっちゃうのも完全に頷けます」
分かってんのかよ、もう万事自己解決してんじゃんかっ!
「……と、ココまでは前フリなんですけど、」
思わずエルは弥恵を叩き落しそうになった。叩き落さずに済んだのは、弥恵が盗撮の犯人であることを証明する供述を始めたからだった。
「実は、私、手帳をどこかに落としてしまったんです」
「手帳?」
「はい、手帳です」弥恵の声音は前フリのときと違って、なんだかしおらしかった。エルは、コイツは本当のことを言っていると思った。弥恵は手帳をなくしてしまって自殺をしようとしたのである。無論、本気で死ぬ気はなかったのだが、足を屋上のフェンスの外に運ばせるほど、弥恵にとっては切羽詰ったことだったのだ。「その手帳を見られたら、私、この学園で生きていけません」
弥恵は顔を両手で覆った。
あの手帳には比呂巳への想いが綴ってある。それを見られてしまっては、恥ずかしすぎて生きていけない。弥恵の頬は朱に染まった。茹でダコ並みに一気に茹で上がった。エルとの密着でソノ恥ずかしさは干潟にさらわれてしまっていたけど、一瞬我に返り、考え出すと、込み上げてくる衝動は弥恵を死へと向かわせた。元来、極度に恥ずかしがり屋の娘なのである。その女癖の悪さからは窺えないナイーブな面も普通の女子同様に持っている。
「や、やっぱり死ぬっ!」
恥ずかしさを思い出し、カァッといたたまれなくなって、エルから見れば突然、弥恵は自殺願望を読みがえらせ、叫び、エルの腕を押しやって飛び降りようとしたのだった。
もちろん、極度に思い詰めた弥恵だが、死ぬ気などさらさらなかった。その場の勢いである。本気ではない。本気ではない証拠に、弥恵はエルの熱い熱い抱擁を期待して、少し悦に入っていた。
が、しかし、ふと、感じれば、弥恵の体はふわっと宙に放り出されていたのだった。
なんで?
どうして?
地面がない、踏み場がない、続きがない、ココは終わる場所に違いない。
刹那的に、濁流のように、死の恐怖が弥恵の全身を駆け巡った。
声も上げられなかった。重力を感じて、体の重さを知る。ブラックホールに取り込まれてしまったように全身が引き伸ばされた。まだいたい、ココにいたい、この世界の女の人に優しくされたくて、弥恵は重力に抗っていた。いやだっ、死にたくない。
まだ、弥恵は生きていた。
「……お前だったんだな」
弥恵が屋上から落下せずに、ぶらぶらと揺れて、生きながらえているのはエルが弥恵の細い手首をきつく握ってくれているおかげだった。弥恵は死んだ目をして、エルを見上げている。
「お前が盗撮の犯人だったんだな、そうだろ、きっと手帳にはソノ証拠が残っていたんだろ、そうだろ? 自殺騒ぎを起こせば、周りの同情を引けるとでも思ったんだろ、そうだろ?」
弥恵は小さく首を振った。まだ、死に片足を突っ込んでいない思考回路が、弥恵の首を横に振らせたのだった。
「嘘付け」
エルは手首を握り締めた右手の小指を立てた。瞳孔が見開かれ、頬が痙攣し始めた。
「冗談ですよね」
そう言うからに、エルは薬指も立てた。すると、弥恵は本気の涙を流し始めた。
「離さないで、お願い、エルさん、私です、盗撮の犯人は私です、認めます、だから、離さないで、助けて、私を助けてください」
「どうして、お前を助ける必要がある、お前は死ぬ気だったんだろ? 死ぬきで屋上まで来たんだろ? 授業をサボって悪い子だな、そんな悪い子は天国にはいけないよ、もちろん、盗撮なんていう悪さをしたり、神様に授かった命を無下にするようなやつは天国にはいけないが、でも、私が殺せば、行けるかもしれないなぁ、神様が同情してくれるかもしれないなぁ、天国行きの切符をくださるかもしれないだろ?」
どういうわけか、この時のエルの精神状態は普通じゃなかった。殻が剥がれて、本性が露になったというものでもない。興奮していた。この小娘を泣かせることによって、エルは枯渇していった。小さい頃から浴場で体内に入り込んだエネルギーが枯渇していくのを感じた。精神が震えている。
その感覚は脱力感ではない。徒労感でもない。絶頂、という表現が正しいと思えた。
今まで味わったことがない感覚だった。
ソレが下腹部から骨髄を駆け上がって脳天を突く。
人の命を握っているからだろうか? 生意気な彼女だからだろうか?
もちろん、エルは弥恵を本気で殺そうとしていたわけではなかった。腕の力を抜いて、弥恵を宙に浮かせたところまで、エルの神経は正常だった。少しの恐怖を植え付けてやろう、それだけだった。しかし、今は、絶頂を登り詰めるために、エルは弥恵を本気で殺そうとしている。
「さっき、お前は、自分を学園一、可愛いと言ったよな、でも、お前より可愛い子はピアンネに何百人もいる、私はエセハンガリー可愛いし、先輩はパックス・ミックニカ(三国的平和)可愛い、ソレと比較して、貴様の可愛さはなんだ? フロリダの田舎娘ももっと突き抜けた個性を持っているっていうのに、貴様の可愛さはなんだ? 中流だ、中流階級の可愛さだ、つまり、貴様は可愛くないんだよっ、ピアンネで貴様は通用しないんだ」
エルは自分で何を言っているのか分からなかった。分からなかったが、終始、弥恵のブラックホールの中心のごとく、黒い墨がかかったようにくすんだ瞳をとてつもなく愛おしく思ったことは確かだった。
「じゃあな」
エルが手の力を抜いた。弥恵はすでに気絶していた。
しかし、弥恵はそれ以下の高度に落下することはなかった。
屋上の二人に気付いた教師たちが慌ただしく駆けつけたのだ。エルが階段ですれ違った教師を筆頭に群れをなしていた。そこでエルは正気というか、精神の振るえを止めることが出来た。
危なかった。初めて教師たちにエルは感謝した。教師たちはエルが初等部の子を救ったと、賞賛するばかりだったが。
それから職員室で小一時間ほど事情を聞かれた。殺そうと思ったなどと話せるはずはなく、当たり障りなく、弥恵の盗撮の件も話さずに、エルは職員室を後にした。教師たちの賞賛はほとほと疲れた。一人になって考えたかった。あの興奮はなんだったのだろうか? 冷静になって考えれば、彼女、エルは彼女の名前を聞いた、高野弥恵、弥恵は厄介だが、非常に面白い存在だった。
誰もいない廊下をゆっくり歩きながら、エルは思い出していた。
『エルは少し破滅的なところがあるよね、きっとエネルギーが充満して、いつも破裂寸前なんだ、バルチャーはそれにもってこいだけど、それでもエルのエネルギーは抜けきらないね、きっともっと強い敵が必要なんだと思うんだ、私? 私は駄目だよ、闘争心がないからエルのエネルギーを吸い出しては上げられないよ、ライバルの存在が必要よね』
そのライバルは二ヵ月後の春にバルチャーの敵として現れた。それが志だった。
『もしくは、初等部の伸びしろのありそうな子を鍛え上げるとか、源氏物語の若紫やね』
弥恵は屋上での出来事を教師たちに話してしまうかもしれない。殺されかけたのだと訴えるかもしれない。それはそれで面白いことになりそうだ、若紫がヒステリーを起こして噛み付いてくるのも面白い。虐げればいい。爪を立て、牙を剥き出しにしてきたら、そのときこそ、屋上から叩き落してやればいい。そう考えると、ゾクゾクする。このとき、エルは弥恵をバルチャーにすることを決めた。
【6】
月に一度の映像学部の新作の上映会、その催しは陵の起伏のない人生においての楽しみの一つだった。彼女たちが作る映画は矛盾が多くて、毒気も多くて、画像処理も大ざっぱで、目標のロンドンにはほど遠い。しかしロンドンも越えられないほどのみずみずしさと勢いと思想をもっていた。どんなクライマックスでも陵の瞳からは涙が伝い、無茶苦茶なハッピーエンディングに陵は堪えきれずに噴出すこともある。
今日もポップコーンとメロンソーダを両手に持って、陵は上機嫌に映画が上映される講堂に赴いた。席は半分ほど埋まっていた。ぽっかりと空いた一番後ろのスペースに陵は席を決め、ゆったりと腰を下ろし、ポップコーンを口に放り込んで受付でもらったチラシを見やる。
《先天的後継者の祈り》。題名からは全くストーリーの想像がつかなかった。
やがて、幕が上がり映画が始まった。こったオープニングはいつものことで、サウンドはピアンネの吹奏楽部のオリジナルトラックである。今回はゆったりとしたジャズテイストで、雰囲気は甘酸っぱいラブロマンスだった。
陵はその映画に感情移入を始めていた。
と、そこへ誰かが陵の感情移入を邪魔するように隣の席へとどかっと腰を下ろした。席は他にもあるのにと思ったが、咎めるのも狭量だと思い、陵は保健医だし、気にせず映画に没頭しようとした。
が、そこで予想外の事態が起こった。その人物は、いきなり陵のポップコーンを頬張り始めたのだ。
わ、私のポップコーン!
なにやつ、とキッと睨むように見れば、ポップコーンを頬張っているのは志だった。映画なんて興味なさげに口をはむはむと動かしている。陵が唖然としていると、志は喉が渇いたのか、メロンソーダにまで口をつけた。
あっ、………………間接キッス。
陵がちょっぴり照れちゃっていることなど知らず、志はズズズー、と勢いよくメロンソーダを吸い上げている。吸い上げながら、志は陵に目配せした。
今、ちょっといいですか? とそんな感じの目配せだった。
上映中はもちろん会話なんて出来ないから陵は志に腕を引かれ、講堂から出た。
「どうしたの、急患?」志の背中に問う。
「そういうんじゃないんすけど」なんだか考えあぐねている、という感じに志は歩みの速度を落とさずにスタスタと生徒の通りが少ない講堂裏まで陵を誘った。
「私の至福の時間に干渉したのだから、それなりの用事でしょうね?」
「うん、私にとってはね。その、……せんせーにみてもらいたいものがあって、」志は瞳をうろうろさせながら、「コレなんだけど」といって、豪奢なデザインの手帳をもそもそと懐から取り出し渡した。まるで近世ヨーロッパの哲学書のようだ。「?」と陵は受け取った。そしてページをめくる。日記帳かなと思ったけれど、そういうものでもないらしい。ずっと白紙が続いて、最後の二三ページになにやら書いてあった。
――「媚薬の研究?」
「うん」志は周囲の気配を伺い誰もいないことを確認してから、「せんせー、ソレ作れる?」と弱々しい瞳で訊ねた。「保健医だったら、さ」
「……志ちゃん」思わず食べちゃいたくなるような表情の志の風貌を見ながら、陵は考えた。軽く熟考した。そして、コレは先生として忠告しておくべきだろう、という結論に至った。「いくら好きな男の子が出来たからって、媚薬に頼ってはいけないわよ」
一指し指を立てて、びしっと戒める。が、
「で、相手は誰なの?」と二十六歳になっても陵の心はホンワカ乙女。映像学部には悪いけれど、志ちゃんの色恋沙汰の方が、陵の興味を惹いた。「ドコの男なの!?」
「違いますって!」
志は色めき立っている陵に少々困り意味、食い入って見つめる瞳を面倒臭そうに振り払って、そして、言いづらそうに続けた。「男に使うんじゃないんです」
「え?」
「玉姉に、その、使おうと思って……」
志はもじもじと、恥ずかしそうに告げた。その仕草は友達に恋のキューピットを頼む少女の仕草だった。
………………まさか、まさか、まさか、志ちゃん、そうだったの?
頬を必要以上に赤らめるもんだから、陵は勘違いをしてしまったらしい。
志ちゃんといえども、やっぱりお姉さまとあんな事やこんな事したいのねっ!
「むはー」レズな陵は一人悦に入っていた。志と玉の姉妹百合を妄想していたのである。コレが現実になるのなら、保健医として、保健室に住まう教職者と言えども、志の願いをかなえてあげないわけにはいかないだろう。
ムハる陵を横目に、「?」と志は慄くように不審がっている。陵の感情が全く読めなかった。詳細な説明が必要だろうと志は思った。「あ、あのですね、実は、」
しかし陵は手の平で志の説明を遮りながら、どうしてか鼻を摘みながら、発情期のメスライオンのような血走った瞳で、「皆まで言わなくてもいいわよ、志ちゃん、そういうことだったのね、そうよね、考えてみれば、こんなに分かりやすい姉妹百合もないわよね」と捲くし立てた。
「シマイユリ?」と志は思わず可愛子ぶるように小首を傾げてしまった。その辺の知識には乏しかったためである。「何ですか、シマイユリって?」
「お花のことよ、」中学生は百合なんて言葉知らなくていいのよ、お姉さまを愛する心があればいいの。「ともかく! そういうことなら任せて志ちゃん、協力してあげる」
そういうことの説明をあまりしていないように思ったが、
「やっぱり、せんせー、頼りになるぅ」と志は素直に嬉しがった。思わず陵に抱きついてしまうほどに。コレで、コレで、上手くいけば、テルミンから逃れられるかもしれない。志が媚薬の作成を持ちかけたのは、そういうわけだった。玉をかどわかして、プロのテルミン奏者の道に進まないための予防線を張ったのだ。
「そういえば、このこんなもの、一体全体、どこで手に入れたの?」
「図書館にあったんです」
「へぇ、こんなものが図書館にねぇ」
【7】
出張帰りの早朝、他の先生方よりも早めに職員室にやってきた藤原は愕然とした。
油性のサインペンで《一ヶ月間、図書館への入室を禁ずる By 図書委員長》なんて書かれていれば、愕然とするしかなかった。
「いやはや」
藤原は剛毛の髪を掻き揚げ、「まいったなぁ」と呟いた。その呟きはどことなく参っていなさそうだ。まだ余裕がある。とりあえず、机を磨こうと思い、雑巾を取りに流しに向かった。雑巾を絞りながら、ふと、脳裏をよぎったのは、比呂巳から受け取った手帳のことだった。
あの手帳は、机の上に…………。
はっとなって、藤原はすぐに自分の机に舞い戻り、比呂巳の手帳を探した。机の上にはない。棚を探る。引き出しを開ける。職員室内をほふく前進して回った。が、
「ない」
案の定、なくなっていた。余裕は綺麗さっぱり消え去った。
「まいったなぁ」と藤原は呟いた。




