プロローグ
誰にでもコイツには絶対に負けたくない、そういう気持ちを抱く矛先、仇敵、かっこつけて言えばライバルっていう感じの人が誰にだって多かれ少なかれいるはずだ。口に出しては言わないけれど、いけ好かない、癪に障って仕方がない、時代が木の実の採取とイノシシ、ヘラジカ、マンモスの狩猟で彩られていたら、真っ先に夜な夜な打ち砕いて鋭く磨き上げた石器の餌食にするのにやぶさかでない、要するにボッコボコにしてやりたい、そういうヤツがいるはずだ。
その感情に説明を求めるのは野暮、冴えない冗談にしか聞えない。以前街で見かけたサラリーマンのテクノカットの方がよっぽど切れ味がよくて、気持ちがいい。確かに合理主義を振りかざし、そのぐつぐつと煮えたぎる非合理精神を断罪するのは非常に簡単で単純で人道的で道徳的で公務員的な安定性を求める日本人にふさわしいけれど……、しかし、だ。
さて、ここはいったいどこでしょう?
この国は一体どこなんだでしょうねぇ?
そう、この国は十七年前、日本の臨海地域に突如として創り出された新しい国だ。この国で産まれたアンダーセブンティーンは無条件に日本を知らない。人間の進化を妨げる阿呆の考えと考え方を一切知らない。
《私立聖ピアンネ女学園》
幼稚舎、初等部、中等部、高等部、大学まで、一度入ってしまえばエスカレーター式に一貫教育が受けられ、一見、品行方正を象ったお嬢様が純粋培養され、出荷されると思われるこの学園ですら、新しい風の影響を免れることなど出来なかった。いや、むしろこの場所には新しい風が吹き荒れている。
ピアンネ娘のスカート丈は膝上十三センチとよだれがしたたるほどに短い。それは校則で決められていた。その短すぎるスカートは、その新しい風に煽られながらもピアンネ娘の強烈な個性のパンツを死ぬ物狂いで死守していた。彼女たちのパンツを拝みたくて仕方のない私には少なくともそう見えた。まあ、柔らかそうな太ももだけで勘弁してやろう。……と、少し話が脱線したようだ。
兎にも角にも、この国の風土は成長する。つまり、この国で産まれた少女たちも成長する。両者は同時進行で成長してきた。少女たちの中には自負がある。この国を作り出してきたという自負がある。それは少女たちの深層心理に根付いている。指先、つま先まで浸透している。だから、与えられるのをじっと待ち続けている、なんていう緩やかな少女たちは、存在しない……なんてこともないが、まあ、とどのつまり、この国の、私立聖ピアンネ女学園の少女たちは、いつだって渇望している……というのはいいすぎかしら、でも、彼女たちのハングリー精神には目を見張るものがある。
例えば、ピアンネの東京ドーム並みの広さの体育館の一階に備え付けられている第三トレーニングルーム(日本の私立高校並みの設備を想像してもらっては困る。想像のヒントは東京ドームだ)、そこを覗いてみると、
――案の定、やっぱりいた。
今年の始め、ダイエットに悩むピアンネの少女たちのために追加投入された最新型エアロバイク二台(日本製)、そのサドルに二人の少女は跨っていた。
一方は金髪、もう一方は銀髪の生粋のピアンネ娘。
ゴールド&シルバー。
二人の気丈な頑固さは、ピアンネでの常識である。
少女二人の毛穴から染み出た、思わずペロペロと失敬したくなるような汗は、フローリング張りの床に塩分と毒素を含んだ小さな水溜りを作っていた。汗を吸収しすぎてタオル地のヘッドバンドは鎖骨までずり落ち、薄紫色の体操着は床に脱ぎ捨てられ、Tシャツは上半身にペタッと纏わりついて、めいめい、美しく派手な見たくれに反して地味な下着をつけていた。購買で売っているスポーツブラだ。なぜか哀愁を感じるのは、小さく膨らんだまま一向に成長の兆しを見せないなだらかな胸部の凹凸のせいだろうか。
そして、そのエアロバイク二台の回転を真剣に見つめる少女たちが十二人ほど、トレーニングルームの戸口で群れていた。彼女たちは一様に中等部の制服姿であり、つまり中等部の生徒である。彼女たちはトレーニングなんてしにきたんじゃなくて、見て分かるように金髪と銀色の髪の少女二人のエアロバイク姿をまさに視姦するように凝視しに来たのであり、レズじゃないくせに二人のうっとりするほどの苦しむ姿を目を皿のようにして見ている理由は、ギャンブルだからだ。
パタパタパタという足音がして、その群れに新たに一人加わった。その少女は目蓋が半開きでタバコがすこぶる似合いそうな背の高い少女に向かって言った。
「今日はゴールド」ラメ入り、そして緑色のスーパーボールみたいに弾んだ声だ。「ゴールドに三百」
「悪いな、一分前に締め切ったんだ」
「そんなぁ、いいじゃん、一分くらい、ケチ、外道、唐変木」
「あんだって?」長身の少女は物言いたてる少女のお凸をぐいぐいとボールペンでつつきあしらうように低い声で言う。「一分は一分だ。日付が変るのもその一分の間だ。一分あればカップ麺はメーカーの意向に従わずに食べごろに仕上がってくれる。その一分をないがしろにするヤツは賭けに参加する資格もなければ、私にケチ、外道、唐変木、トーテムポールと罵ることは出来ないんだっ!」
「トーテムポールなんて言ってないっ、……ていうかカップ麺は二分でしょ、常識でしょ、ちなみに近頃の私のトレンドはカレーよりもシーフードだね」
「いらん情報ばかり私に教えるのは、いい加減よしてくれ、消化に困る、最近の便秘はお前のせいだっ」
「あぅあぅ……、っていちいちお凸を突っつくなよぉ!」
二人のかしましい会話からも分かるように、トレーニングルームに群がる少女たちは金と銀の少女を使った賭け事を催している。もちろん、このことは風紀委員に知られては独居房に直送の蛮行であり、ささやかなギャンブルがこの場所で行われていることはふとどきものたちのヒメゴトだ。また、この賭け事は金と銀の本人たちに許可も取っていなければ、《あんたたちをまるでメスのサラブレッドを見るように見つめていますよ》ということも知らしてはいない。知らしてしまっては賭けが成り立たなくなる可能性がある、逆ギレされて金銭をせびられる可能性もある、……というか、そうなるに決まっている、と、この賭けを取り仕切るトーテムポールのピアンネ娘は思っていた。
「せっかく見つけた催しをみすみすおじゃんにしてたまるものかっ」
ともあれ、三十人分の熱視線を浴びせられれば、エアロバイクの少女の二人の内のどちらかが気付きそうなものだが、これが意外と気付かれないでいた。
なぜなら二人の少女は死に物狂いで戦っているから。
賭け事の始まりは一ヶ月前に遡る。丁度、夏休み明けの実力テストが終わったくらいのとある日のこと、偶然にも金と銀の髪色を持つ少女はエアロバイクで隣同士になった。もちろん、二人は初めから競争目的でやってきたわけではないし、互いに意識などしていなかった。ゴールドは運動すればホルモン的な何かで胸が大きくなるという出鱈目を小耳に挟んで、シルバーは親しい友人にお腹のポッコリ具合を指摘され、めいめいそれまで滅多に訪れることはなかったトレーニングルームに足を運んだのである。
だが、しかし、偶然にもトレーニングルームで二人きり、十四台ものエアロバイクがあるにもかかわらず隣同士でウィンウィンと無言で漕いでいるという状況が、どういうわけだか、運動部でごった返す放課後という時間帯にもかかわらず、生じてしまったのだった。偶然とはいえ、これはもうどうしようもなかった。二人の少女はどうしようもなくなってしまったのだった。
萎んだままの胸よりも、脂肪が余分に付いたお腹よりもそっちのけで、
『先に降りたら負けだ!』
と思ってしまったのだった。そんなことを一瞬でも思ってしまったならば、決して引くことは出来ない。退くことなんてこの頑固者のピアンネ娘の二人には出来やしない。
初戦の結果はドローに終わった。消灯時間の午後九時まで二人は漕ぎ続け、結局、見回りに来た体育教師に決着を妨げられた。二人は終始無言を貫いた。しゃべれば気が緩み、相手に付け入られる隙を与えることになる。しかし、心は通っていた。ゆえに、メールでやり取りをしたかのように、二人は同日同時刻に第三トレーニングルームに現れ、再戦を果たしたのだった。今度は負荷をマックスにして、ケリが早くつくように設定した。再戦は銀の方に軍配が上がった。しかし、二人の決着はそれで終わらなかった。リベンジ、リベンジ、リベンジ、リベンジの応酬がひたすら続いたのだ。
二人の少女を駆り立てるものは、原動力は果たして何なのか?
ピアンネの中等部二年の娘たちは、こう教育されている。
『圧倒的大差をつけ、勝利すべし。敵の十倍上を行け』と。
圧倒的な勝利を望む二人の成績は現在十八勝十八敗一分け、つまり、ドローである。
まだ二人の間に圧倒的な差は存在しない。日本の教育のように平等で面白みがなく個性がない。それは埋没することだ。自分自身が隣にいるいけ好かない娘に同一視されてしまうことだ。そんなこと、死んでもご免だっ!
二人がペダルを漕ぎ始め、はやくも一時間が経過しようとしている。
回転し続ける秒針が十二の数字を通り抜けたところで、金色の髪の少女の顔が歪み始めた。正面から見て右側、腰まで伸びるさらさらの金色で染めた黒髪、サファイヤを町工場でカットしてもらったようなカラーコンタクトレンズ、道端に捨てられた子犬にしか喧嘩を売らないこと請け合いの高慢ちきに吊りあがった円らな眼、顔立ちは目付きによって十一歳から十九歳まで演じ分けできそうだが、決して欧米人のように堀は深くなくてベビーフェイスというよりは幼顔という表現がぴったりくる、うなじから滲んで香るのはちんちくりんなちょっぴりわがままな不良娘の雰囲気だった。名前は天志。自他共に認める貧乳であり、アディダスのポーツブラが学年一似合うと評判の美少女である。
その評判の小さな胸が苦しそうに上下している。
呼吸が荒く、色っぽい。二十代前半のレズな女を誘惑するようなフェロモンを出しているなんて、本人はきっと露ほども知らないだろう。
銀色の髪の少女はソレに気付いた。ソレというのは私を悩ませる濃厚なフェロモンのことではなくて、ドSには堪らない志の歪んだ表情のことである。正面から見て左側、肩甲骨まで伸びる銀色に輝く髪、エメラルドを溶いて流し込んだような透き通った瞳、垂れ目でも吊り目でもなく感情のふり幅の読めない目付き、日光浴を嫌う白粉をまぶしたような白い肌、顔立ちは中等部の二年にしては幼く見える彼女は、ハンガリーからこの国に移住してきた男女の間に生まれたエセハンガリー娘である。名前はエルヴィーン・クイード・コンベルハイアー、少々長いので彼女のことをエルと呼ぼう。友人からも彼女はエルと呼ばれている。
先にも触れたが貧乳であり、美少女であり、なかなか油断できない、一筋縄ではいかない女子である。
エルは志が苦しそうな呼吸を繰返していても油断なんてしない。逆に自らのからだの建て直しに入る。エルは天秤を安定させるように、慎重に呼吸を整えていく。「スーハー、スーハー……」
しかし、肺の過剰な利用で心拍数が鳴り止まないのはエルも一緒だった。
一段階レベルアップした苦しさは急にくる。
足の力が抜けた、エルは「ああっ」と二酸化炭素を吐き出す。まるでエジプトの砂漠の中でペダルを漕いでいるようだった。タイヤが砂に埋まる。回転が地面を捉えない。チェーンが細かい砂を噛む。腰まで細かい砂の海にさらわれたようだった。
空回りのむなしさが嘔吐感となってエルの五臓六腑を駆け巡る。
エルは堪えた。呼吸を十六秒間止め、喉を絞めるイメージを繰返した。
肺で捕らえた空気、その中の酸素を掻きまわすように探す。窒素がこれほどやかましく思ったことはない、細胞が口々にエルに訴える。もう限界だって信じろっ!
静かにしろ!
お前らは黙って脚の筋肉を回していればいいんだっ!
エルは自分の中のハンガリー的な弱さを締め出した。
神経を落ち着かせるため、エルは目蓋を閉じ、光を遮断した。冷静さが眉間に表われる。大丈夫、まだ、私の脚は回転を続けることが出来る。出来るんだ。
動け、動け、動け、動け、動け……、もっと、もっと、もっと動き続けろっ。
エルは薄目を開けた。チラリと志を見やる。まだ死んでない。俯いてはいるが、ヤツはあそこから長い。長くてしつこくて粘っこい。きっと納豆が好物な気持ち悪い味覚をしているんだろうな、きっと、なんて思ってエルはまた吐きたくなった。
集中だ。
限界ならとうの昔に超えている。今となってはとうの昔だ、昨日の夜より限界を超えた二十分前がすごく遠くに思える。超えてしまえばどうってことない、どうってことない、どうってことない……。
ふっと急にエルの朦朧とした意識の中にイメージが滑り込んできた。延々と続く坂道、周りは緑が比較的多い住宅街、黄昏時、隣にはママチャリを漕ぐ志、エルも志に併走している、目の前にはすっーと伸びたオレンジ色のコンクリートを滑る真っ黒な影、影の先端にはいつまで経っても追いつけない、それは漕げ、漕げ、漕げ、漕げとエルを鼓舞する、エルのママチャリは傾斜四十五度の重力に逆らい志との距離を、差をつけていく。この風景は決着がつく直前にエルの意識に挿入される勝利のイメージだった。
来たっ! 勝利を告げるファンファーレは近い。
エルは自らの太ももを叱責し、恫喝するように叩き、文句ばかり言う細胞に針を刺し、無理矢理そばだたせた。首を振り、汗を払う。力の伝わり方が分からないから、とにかく全身に力を込めた。前傾姿勢、空気を裂くように身を倒す。一応断っておくけれど、エルはエアロバイクに乗っていて、舞台はトレーニングルームである。目、鼻、口、肌は感覚を脳みそに伝えることを止めた。ただ、耳は感じていた。エルの躍動と志の鼓動を耳は捕らえていた。
イメージの中の志は重力に引きずられるように速度を緩めていった。二つの車輪のバランスをかろうじて保っているという感じだった。フロントのタイヤは前方を向いていない左に右に、右往左往を繰り返しては安定しない。不安定だ。ふらふらふら、志の全身は震えていた。そしてついに不安定な車体は坂道をくだろうとした。重力に従い始めた。
ドシャリ……。
はっとエルは耳が捉えたその『ドシャリ』という音で、瞳を薄く見開いた。視界の隅には落車し、床に倒れこんでいる志の姿が映った。エルはゆっくりと回転数を下げた。本当にゆっくりとだ。ぴたっとペダルを漕ぐ脚の力を抜いたのは三十秒後。全身の力を抜いたのは四十秒後だ。その表情には未だ厳しさが残っている。満足などしないとその顔は言っている。
エルはおぼつかない足取りでエアロバイクから降り、脱ぎ捨てたジャージの上着を拾い、戸口へと歩く。
そこには賭けに勝ったやつと負けたやつがいた。エルはエネルギーの不足した声でそいつらに言った。
「あいつを保健室に連れていってくれ」
トーテムポールの少女がびくびくと頷くのを確認すると、エルはその場からふらりと消えた。
――場面は銘電地区の《広瀬空手道場》に強制的にフェイドイン。
そこではピアンネの初等部に在籍する、二人の少女の組み手が行われていた。周囲には固唾を呑んで、その組み手を見守る老若男女と審判を務める団十郎。
赤いグローブ、意図せずして茶色髪の少女は広瀬道場の師範の広瀬団十郎の一人娘にして師範代、広瀬比呂巳、十歳である。小さい姿態からは想像も出来ないほど、その拳の速度は速い。その小さな体型を存分に利用して、軽快な脚裁きで相手を翻弄する。先天的に装備されたしなやかなバネは、比呂巳の速さを保証している。
空手の組み手は板張りの床の上に十五ミリのマットを敷いて、その上で行われる。脚に掛かる衝撃を吸収し、選手らの足裏、膝、尾てい骨の負担を和らげるためである。
ダンッ、という炸裂音が道場にこだました。
同時に「キャア」と奇声に近い気合が比呂巳の口から飛び出した。
比呂巳の踏み込みの衝撃はマットを貫通し、板張りの床までをも揺らしたのだ。
団十郎の旗が上がる。赤い旗。比呂巳の中段突きは完璧に決まった。
ポイントはコレで二対〇。比呂巳の中段突きは二連続で相手の下腹を正確に捕らえた。ここでのルールは三ポイント先取である。無論、比呂巳は次も中段で決める気である。比呂巳の右手の拳の中段は父、団十郎を凌ぐほどだった。ソレは天賦の才に違いない。比呂巳は最強だった。最強ゆえ、比呂巳は悩むことなどなく、シンプルな中段突きの快楽を知っていた。速度が集約され、体の芯が躍動し、全身が弾丸になり、相手を貫く瞬間の快楽の味を比呂巳は若干十歳で知り尽くしていた。
特に相手が親友の彼女ゆえ、言わば《最高》だった。その彼女は比呂巳の幼馴染であり、同学年で、現在も同クラス、家が隣同士のために生まれたころから一緒にお風呂に入り、枕をともにしてきた関係であるところの、高野弥恵、十歳である。比呂巳は弥恵と競い合い、じゃれあい、痴話げんかをすることを何よりも楽しんだ。
比呂巳は弥恵にニコリと笑いかけ、年季の入った黒帯をきゅっと締めなおす。比呂巳の笑いは弥恵にとって堪らない。狂おしい。……だからといって、屈辱的なわけではなかった。弥恵はわざとむすっという顔を作って見せた。心がほにゃほにゃしてどうしようもないのを悟られないためだ。少し吊り目の黒い瞳で比呂巳を睨みつける。この様を弾くように睨みつけた。比呂巳はソレに反応して、からかうようにジト目をしてみせる。悪くない、比呂巳にそうやって扱われるのは悪くない。
しかし、……最近、膨らみ始めた弥恵の将来有望な小さな胸はもどかしく、悶々として、苦しかった。
今日こそは、今日こそは、今日こそは、必ず勝つもんっ!
比呂巳に勝つことで、理解不能な比呂巳への気持ちに解釈、つまり決着をつけることが出来るのではないか、と、この日、弥恵は期待していたのだった。
コレは、この気持ちは、比呂巳への胸キュンラブハートは、比呂巳にあんなことやこんなことしたいって意味の、いわゆるそういうことなのかな?
つまり、高野弥恵はレズである。それは自分で確かだ、と判断できることだった。昔から可愛い女の子やお姉さんにキスをせがむませた子供だった。ロリコンだと気付いたのは最近のことだけれど、でも、しかし「そういうことなのかな?」なんていじらしく考えてめそめそしちゃうのはレズのせいだけど、ほとんど全部がレズのせいじゃなくて、相手が比呂巳だっていうのに問題があるからだ。比呂巳に抱く気持ちが他のレズと違うのが問題なのだ。
「赤、中段突き、有効」団十郎が怖い目で二人に目配せをする。「よーい、始めっ!」
比呂巳は先手必勝とばかりに中段突きを繰り出してきた。弥恵は右手の甲を腹部に差し込んでソレをガードする。すかさず左のジャブを比呂巳の顎に向けて放つが、比呂巳は体勢を低く斜めにスライドさせ、なんなくかわした。弥恵は勢いを殺さず、右足からの中段蹴りを叩き込む。畳まれた足が比呂巳の腹部へと滑り込む。が、比呂巳は避けようせずに弥恵の懐に飛び込んできた。コレでは力が伝わらない。弥恵は即座に足を引いた。比呂巳も下がった。小刻みにステップを踏みながら間合いをとる。
弥恵の狙いは《上段回し蹴り》である。ソレは一気に三ポイントの大技で、弥恵の得意技の一つである。比呂巳を倒すため、毎日兄貴をサンドバックにして、いや兄貴なんていないんだけれど、とにかく練習して身に付けたのだ。
その成果を見せてやるんだからっ!
比呂巳はバカの一つ覚えじゃないけど、得意の中段を狙ってくるはず、それを察したら下がって、比呂巳のめちゃくちゃ可愛い顔に向って回し蹴りをお見舞いする。弥恵は比呂巳のワンツーをかわしながらイメージした。昨晩比呂巳のことを思って眠れない夜に何回も繰返したイメージを
たん、たん、たーん、だ。このリズム、このリズムでいける。
比呂巳の突きは弥恵を追い詰める。寸でのところで弥恵は捌き、かわす、チャンスを待つ。比呂巳がニヤニヤと笑っている。
あー、可愛いなもう、……じゃなくて、それはチャンスだ。敵は隙を見せている。もう少しだ。こい、こい、こい。
来たっ。
弥恵はイメージ通りに比呂巳の中段突きから逃れ、上段回し蹴りの体勢に移行した。足を畳み、横腹筋で太ももを腰の位置まで持上げる。軸を回転させる。体重を空中にある右足に込める。比呂巳の可愛い顔がそこにある。
決まった。
と、思った。が、弥恵の足の甲が叩いたのは残像だった。もしくは弥恵の勘違いだった。じゃあ、比呂巳の可愛い過ぎる顔はどこにいったの?
弥恵の胸元にいた。驚く余裕もなかった。
比呂巳は弥恵に急接近して何をするのか。無論、中段突きではない。このゼロ距離の間合いで打っても互いに痛みが残るだけでポイントにはならない。なんてことを無意識的に思っているうちに弥恵の体はふわりと宙に放り出された。
軸足を刈られたのだ。
比呂巳は倒れた弥恵の側頭部に綺麗な突きを決め、奇声をあげた。
相手を倒し、有効打突を決めると二ポイント。四対〇で、この組み手、比呂巳の勝利が確定してしまった。
弥恵は呆然実質の瞳孔のまま、自分を見下ろす比呂巳を見る。なかなか弥恵が起き上がろうとしないので、比呂巳は優しく手を差し伸べてくれた。その優しさに、弥恵は奥歯を噛んだ。
また、まただった。もやもやが込み上げてきた。込み上げてくる。こんな気持ち、今までは全然っなかったのに。今まで散々負けてきたけれど、こんな気持ちになることなんてなかったのに、胸が膨らみ始めてからだろうか、比呂巳を圧倒したいと思うようになったのは、比呂巳を滅茶苦茶にしてやりたい、そう思うようになったのは、それはレズ的なこと? ああっ、もう訳分かんないよっ!
「いつまで寝てるんだよ」
比呂巳は無理矢理弥恵の手を取り起き上がらせた。立ち上がった勢いで比呂巳に急接近。「大丈夫か? 顔がピンク色だぞ?」
「別になんでもないよ」
「最近どうしたんだ? 妙にヤル気出しちゃってさ」
「別になんでもないよ」屈託のない比呂巳の瞳が見れなくて、弥恵は目を団十郎の方に逸らした。ぶーっと唇を尖らせる。「なんでもないわよっ」
弥恵は壁際まで歩いていって、壁を背にして座り込んだ。弥恵のもどかしい気持ちなんかに気付く様子もなく、比呂巳は横にちょこんと座った。『あっちへいってよ、気持ちを整理しようと思ったんだから』とも言えず、弥恵は塞ぎこむように俯いた。
「本当にどうしたんだよ? 熱でもあるのか、顔がピンク色だし」
比呂巳は弥恵の顔を覗き込む直視する。カァーッと弥恵の頬が染まる。「うっ……」気持ちを堪え切れなくて、涙がちょちょ出てきた。「ピンク色じゃないもんっ!」
「ピンク色じゃん。あっ、少し濃くなった」
「もうっ、比呂巳なんて知らない! 比呂巳には関係ないもの!」
ツンと目を逸らす。
「いやいや、私とやったあとに泣かれたんじゃ、ほっとけないって」
「……そうよ、比呂巳のせいだから」
「えっ、やっぱり?」比呂巳は身振り手振り、口元をあわあわさせる。「その、悪かったな、もっと手加減した方がいい?」
「そういうことじゃないの!」弥恵は癇癪を起こしたように捲くし立てた。「そういうことじゃないの! 別に比呂巳に手加減して欲しいわけじゃないの! 比呂巳は比呂巳のままでいて! コレは私の問題だから! 私が変らなきゃ、意味ないんだから!」
比呂巳は「?」マークを頭上に浮かべポカンとしている。
「つまり、どういうこと?」
「そ、それは、」
弥恵の気持ちは抽象的で、比呂巳に伝わるはずはなかった。自分自身にも判別不能の気持ちをどうやって寸分の狂いなく、伝えることが出来ようかっ。
比呂巳のことが好き、でも、よく分からない。他のクラスメイトにチュウしたいって思う気持ちと比べ物にならないくらいぐちゃぐちゃに絡んでいる。私は比呂巳に勝ちたいと思っている、それは好きという気持ちと関係がないと思えるしあるように思えるし、私はただ比呂巳にムカついているだけで好きなのではないのかもしれないとも思える、比呂巳は女の子で、私の大好物な女の子、でも最近までほっぺにチュウしたいなんて思ったことは無かったんだ、確かに比呂巳は可愛いけど、でも、本当にあんなことやこんなことしたいって思ったことはなかったんだ、今は? ……よく分かんない、比呂巳に何をしたいのか分からない、でも《好き》だっていう言葉が今の気持ちにすんなり当てはまると感じる、けれど、それを比呂巳に告白して愛し愛される関係になりたいという気持ちはあまりない。
小さな胸の膨らみが弥恵に訴えかけるのは、
「『欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れよ』」
初等部四年の教えである。「……かな」
《欲しい》確かに、私は比呂巳が欲しいのかもしれない。
「ああ、」比呂巳は合点が言ったように声を上げた。「弥恵は正々堂々私に勝ちたいって、そういうこと?」
「う、うん」弥恵は斜めに傾きながらも一応頷いた。確かにそれは弥恵の願望であり、果たさなければならないことに思える事実だったし、比呂巳に勝つことで、抑え切れない所有欲が満たされる気がしないでもない。比呂巳を手に入れれば、めちゃくちゃな気持ちに整理がつくかもしれないとも思った。
でも、比呂巳を手に入れるってことってどういうこと?
弥恵の脳みそは軽くループに突入していた。
「よしよし、大丈夫、弥恵ならすぐ私より強くなれるよ」
そういいながら撫で撫でしてくれる比呂巳はこんなに近いのに、気持ちはなんだかすれ違っているよう。胸の膨らみ以前のじゃれあいよりも、今、こうやって、私の汗で濡れた黒髪を撫で付けられている時間は、私の心を掻き混ぜる。切なさが込み上げてきて、ポエムが浮かんでくる。詩のことは良く分からないけれど、詩が良く分からない理由がなんとなく分かってきた。
弥恵は家に帰ると真っ先に自分の部屋に飛び込んで机に向った。勝手に部屋に入り込んでいた、いないはずの兄貴はものの十五秒でズタボロになった。机に向った弥恵はカバンから手帳を取り出し、ソコに溢れ出て来る気持ち殴り書きした。別に書いて気持ちが休まるわけじゃない。必要だと思うからだ。毎日の断片的な想いがいつか、きっとパズルのように組み合わさって答えになってくれるかもしれない。だから弥恵は一つだけでは何か分からないジグソーパズルのピーズような、不思議な文句を書き連ねている。
――さて、長い長い前置きは女の子に嫌われるのでコレくらいにして、じゃあそろそろ本題の方に移りましょうか。
《媚薬の研究》
それを取り巻くピアンネ娘たちの明朗快活な群像劇をとくとご覧あれ。




