夫が「真実の愛を見つけた」と愛人を連れてきたので、全力で応援することにしました
「コーデリア。僕が初めて見つけた『真実の愛』――チェルシーだ」
わたくしがサロンに足を踏み入れるなり、夫のジュリアンが胸を張った。
その腕には、一人の若い娘が寄り添っている。彼が自分のものであることを示すかのように、両腕で彼に絡みついて。
鮮やかなピンクブロンドを揺らす、見知らぬ娘だった。
思えば――家同士の政略結婚により侯爵家に嫁いでから、三年になる。
ヴァルモン侯爵家が傾きかけていたことなど、すでに昔の話だ。
わたくしは実家の公爵家に、ヴァルモン侯爵家の莫大な負債を肩代わりしてもらい、領地改革に奔走してきた。
そうして、ようやく財政を黒字へと立て直したばかりである。
その矢先の、愛人同伴での帰宅だった。
「……」
ティーカップをソーサーへ静かに戻す。カチャリと、陶器の重なる音が響いた。
わたくしは微笑み、小さく首を傾げた。
「まあ、真実の愛、でございますか」
「ああ。君のような、数字ばかり見ている色気のない女とは違う」
ジュリアンはうっとりとチェルシーの肩を抱き寄せた。
「彼女はね、純粋で無垢な魂の持ち主なんだ」
するとチェルシーが、フリルのドレスを揺らして一歩前に出た。
胸の前で両手を組み、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「奥様、ごめんなさいね? でも怒らないでほしいの!」
小鳥のように甲高い声が、つらつらと小さな口からあふれ出てくる。
「わたしたち、地位や名誉やお金なんてどうでもいいの!」
チェルシーは陶酔したように中空に視線を向け、頬を紅に染めた。
「ただ愛さえあれば、硬いパンの端をかじってでも幸せになれるんです!」
「チェルシー……! なんて健気で美しい心なんだ!」
「ジュリアン様……!」
二人はサロンの真ん中で、ひしと抱き合った。
脇に控える使用人たちが、気まずそうに視線を逸らす。
やがてジュリアンは、どうしてか勝ち誇ったように顎を上げた。
「そういうわけだ、コーデリア。僕は彼女に真実の愛を見たのだ!」
「なるほど……では、わたくしたちは離縁する、ということになるのですかね?」
「いや、世間体があるから離縁はしないでおく!」
まるで恩赦でも与えるような口ぶりだった。
「だが――今後はチェルシーを事実上の屋敷の女主人として扱わせる。いいね?」
拒絶など待たない口ぶりに、わたくしは二度ほど目を瞬かせた。
それから――パッと顔を輝かせた。
「――素晴らしいですわ!」
ぱちぱちと拍手を送った。
目の前で抱き合い、二人だけの世界に入り込んでいた彼らが、ぎょっとしたように動きを止める。
「えっ?」
「わたくしのことはお気になさらないでくださいませ!」
わたくしは立ち上がり、感激に胸を押さえた。
「地位もお金もいらない、パンの端だけで満たされる『真実の愛』……!」
思わず感嘆のため息が漏れる。
莫大な特権と政略に満ちた貴族の中で、『真実の愛』とやらを求める姿は、美しく見えた。
「なんて尊く、崇高な響きなのでしょう!」
「いや、その、コーデリア?」
「わたくし、深く感銘を受けましたわ」
呆気にとられる二人を前に、深々と淑女の礼をとった。
「お二人のその曇りなき純愛、このコーデリアが全力で応援いたします!」
ジュリアンとチェルシーが、呆れたように顔を見合わせた。
けれどすぐに、その口元に「ちょろい女だ」とでも言いたげな嘲笑が浮かぶ。
もっとも、わたくしの『全力応援』がどういう意味なのか。
この時の二人は、まだ知る由もなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌朝、サロンにはチェルシーの悲鳴が響き渡った。
「ちょっと、どういうことですか奥様!」
チェルシーが顔を真っ赤にして、執務机へ詰め寄ってくる。
足音も荒く、昨日の楚々とした態度はどこにもない。
「昨日注文したドレスと宝石が、ぜんぶ門前で返品されたんですけど!」
「ええ。わたくしがすべてキャンセルいたしましたわ」
書類から顔を上げ、わたくしはにっこりと微笑んだ。
羽根ペンを置き、指先を揃える。
「な、なんですって!? ジュリアン様が買っていいって仰ったのよ!」
「まあ、チェルシー様ったら」
わたくしは心底不思議そうに眉を下げた。
「昨日、『お金なんてどうでもいい』と仰ったではありませんか」
チェルシーの言葉が、ぴたりと詰まる。
「ダイヤや絹のドレスなんて、お二人の清らかな愛を汚す不純物ですわ!」
「っそ、それは言葉のアヤというか……!」
「またまたご謙遜を! パンの耳で幸せになれるお二人ですもの」
わたくしは慈愛に満ちた笑みを向けた。
「あんな俗物的な装飾品で、真実の愛に傷がついては大変ですわ」
そこへ、寝間着姿のジュリアンが血相を変えて飛び込んできた。
髪の毛は跳ね、見るからに慌てふためいている。
「おい、コーデリア! 僕のギルドカードが凍結されているぞ!」
机を叩き、ジュリアンが唾を飛ばす。
「一ゴールドも引き出せない! ワインの支払いもできないじゃないか!」
「ええ、今朝一番で止めておきましたわ」
わたくしは涼しい顔で頷いた。
「当家には、わたくしの実家の公爵家が肩代わりした莫大な借金がございますの」
帳簿を閉じ、静かに言葉を継ぐ。
「政略結婚の妻の実家に借金を背負ったまま遊興費を使うなんて、お二人の純愛への侮辱になりますでしょう?」
「そっ、それでも領地での収益があるはずではないか!? その金を――」
ジュリアンが必死に食い下がる。
わたくしは帳簿のページをぱらりとめくった。
「領地の収益は、わたくしの実家への借金返済に充てるよう手筈しておきましたわ。以前までは収益の一割から返済に充てておりましたが――」
本来であれば、何代もかけて少しずつ返済していくはずの負債である。
「本日より、必要経費を除く収益の全額を返済に回すよう変更いたしましたの!」
「ど、どうしてそんなことを!」
ジュリアンが悲鳴のような声を上げる。
「だって、一日も早く借金を完済して、すっきり無一文になられた方が清々しいではありませんか!」
わたくしは満面の笑みで胸を張った。
「なっ……! だが僕はヴァルモン侯爵だぞ! 他から借りれば――」
「あら、それは通りませんわ」
わたくしは机の上から、一枚の羊皮紙をひらりと掲げた。
昨夜、チェルシーにせがまれたジュリアンが、一時の熱に浮かれて書いた誓約書である。
そこには『真実の愛のためなら爵位も財産もいらない』と、本人の筆跡で記されていた。
まさか公になるものとは夢にも思わず、甘い気分で署名してサロンに置き忘れていたものだ。
しかも、羊皮紙の末尾には、わざわざヴァルモン侯爵家の当主印まで捺されている。
チェルシーに格好をつけるためだったのだろう。まったく、律儀な方である。
「その……それがどうしたというんだ! ただの恋人同士のお遊びじゃないか!」
「まあ、お遊びだなんてご謙遜を! この美しい愛の誓いを、今朝、社交クラブと親族会議に公式発表いたしましたの!」
二人の顔から、スッと血の気が引いていく。
「な……なにをしたって……?」
「今ごろ王都中の貴族に話が伝わり――きっと、お二人の無欲な愛に涙しておりますわ」
わたくしは両手を合わせて歓喜した。
「『侯爵様は無一文で愛に生きる覚悟だ』『金を貸すのは純愛への冒涜だ』と、大絶賛のはずですわ!」
これで王都のどこへ行っても、一銅貨の借金すらできない。
商会のツケも、すべて完全に封鎖された。
「そ、そんな無茶苦茶な……!」
わなわなと震える二人へ、わたくしはさらなる朗報を告げた。
「そして本日、お二人に最高のプレゼントをご用意いたしましたわ!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
馬車でガタゴトと揺られること二時間。
到着したのは、侯爵領の北端にある古びた木造コテージだった。
周囲には森が広がり、人影はまったくない。
「……なんだ、この掘っ立て小屋は」
ジュリアンが引きつった声で呟く。
「わたくしが手配いたしました、お二人だけの『愛の巣』でございます!」
わたくしは美しいカーテシーを披露した。
「使用人の目や贅沢な家具があっては、真実の愛に集中できませんでしょう?」
小鳥のさえずりだけが、静かな森に響く。
「ですから、ここには使用人も馬車も一切置いておりません」
「はあ!? じゃあ、食事や掃除や洗濯はどうするのよ!?」
チェルシーが裏返った声で叫ぶ。
「あら、裏に井戸と薪割り場がございますし、台所には黒パンがございますわ」
わたくしは微笑んで、錆びた手斧を指さした。
「愛し合うお二人なら、薪割りもお湯沸かしも楽しい共同作業になりますわよ!」
「ふ、ふざけるなコーデリア! なぜ侯爵の僕がこんな暮らしを……!」
「パンの耳でも幸せだと仰ったのは、他ならぬお二人ですわ」
わたくしはドレスの裾を翻し、馬車へと乗り込んだ。
「邪魔者は消えますので、どうぞ心ゆくまで愛し合ってくださいませ!」
御者が鞭を鳴らし、馬車が走り出す。
馬車の小窓の向こうで、呆然と立ち尽くす二人の姿が遠ざかっていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それから三日後の朝のことである。
わたくしは親族会議の重鎮たちと共に、再び『愛の巣』を訪れた。
隣には、王宮法務局長のエリアス様も同行してくださっている。
わたくしの手には、差し入れのバスケットがあった。二人のことを想って、いっぱいの気持ちと共に用意したものだ。
コテージに近づくと、中から激しい怒鳴り声が聞こえてきた。
ガシャン、と皿の割れる音が続く。
「――もう限界よ! なんでわたしが冷たい井戸水で洗濯しなきゃいけないのよ!」
扉を蹴り開けて、チェルシーが飛び出してきた。
自慢のピンクブロンドはボサボサに乱れ、ドレスは泥と煤にまみれている。
「ま、待ってくれチェルシー! 僕だって薪割りで指の皮がむけて痛いんだ……!」
後から這い出てきたジュリアンも、無精髭を生やしてやつれ果てていた。
わずか三日で、見る影もない姿である。
チェルシーは血走った目でジュリアンを睨みつけた。
そのまま、手にしていた木桶の水をジュリアンの顔面にぶちまける。
「ぷはっ!? な、なにをするんだチェルシー!」
「うるさいわね! なにが『真実の愛』よ!」
チェルシーは地面を踏み鳴らし、剥き出しの感情で怒鳴り散らした。
「お金もドレスも買えない甲斐性なしのクズ男に、価値なんてないわ!」
「なっ……! 君は、僕の魂を愛してくれたんじゃなかったのか!?」
「バカじゃないの!? 太い財布持ちの侯爵様だから愛してあげてたに決まってるでしょ!」
ペッと地面に唾を吐き捨てる。
「こんな貧乏暮らし、一日だってごめんよ! あんたなんか大っ嫌い!」
チェルシーは足元の木桶を力任せに蹴飛ばした。
そして泥だらけの裾を乱暴にたくし上げると、街道のある方角へと自力で一目散に走り去ってしまった。
「チェ、チェルシー……僕の、真実の愛が……」
泥水の中で、ジュリアンが呆然と膝をつく。
「あらまあ……」
その目の前に、わたくしたちは静かに歩み出た。
わたくしの姿に気づいた瞬間、ジュリアンの顔がぱっと明るくなる。
「コ、コーデリア……! 僕が間違っていた、あいつは金目当ての悪女だったんだ!」
泥だらけの手が、わたくしのドレスの裾を掴もうと伸びてくる。
わたくしはすっと半歩下がり、冷ややかにそれをかわした。
「もうあんな女とは縁を切る! さあ、馬車を出してくれ、本邸へ帰ろう!」
「まあ、本邸へ?」
わたくしは扇を広げ、口元を隠して首を傾げた。
「お忘れですか、ジュリアン様。あなたが署名なさった『爵位も財産も放棄する』という誓約書――」
すっと目を細め、静かに告げる。
「今朝、こちらの王宮法務局と親族会議で、正式に受理されましたのよ?」
「……え?」
ジュリアンの動きが、ぴたりと凍りついた。
わたくしの隣から、王宮法務局長のエリアス様が歩み出る。
冷ややかな眼鏡の奥の瞳を細め、国王の印が押された書類を示した。
「ヴァルモン前侯爵。貴殿の隠居および財産放棄は、国王陛下の御璽をもって確定しました」
低く澄んだ声が、静かな森に響き渡る。
「本日より、当主代行および全財産の管理権は、コーデリア夫人に帰属します」
「な、なんだと……!? あれはただの愛の誓いで、本気で捨てるつもりなんて――」
「またまた、ご冗談を!」
わたくしはコロコロと鈴を転がすように笑った。
「社交界にまで宣言した『真実の愛』を、三日で引っ込めるなんてあり得ませんものね?」
「だが……! チェルシーは出て行ってしまったではないか! 無効、そんな誓いは無効だ!!」
ジュリアンが泥水を跳ね上げ、必死に叫ぶ。
「あら、チェルシー様が出ていったからといって、先の誓いが無効になるわけではありませんわよ」
わたくしは小首を傾げて微笑んだ。
「だって『真実の愛のためなら爵位も財産もいらない』というご立派な決意そのものに、偽りはないのでしょう?」
言葉に詰まり、ジュリアンが奥歯を噛み鳴らす。
「っ、こ、こんなこと……エリアス局長、僕は当主だぞ!? 当主がこんな紙切れ一枚で追放されるはずがないだろう!」
ジュリアンが矛先を変え、エリアス様へと食い下がった。
エリアス様は眼鏡のブリッジを押し上げ、氷のような視線でそれを受け止める。
微塵の同情もない、冷徹な法務官の目が、ジュリアンを睨み返す。
「ただの紙切れではありません。直筆の署名と『当主の印章』が揃っている以上、王国法において正式な意思表示文書として扱われます」
エリアス様が羊皮紙の赤い封蝋印を冷ややかに指さした。
「愛人の前で威厳を示すために当主印を捺したのは、貴殿ご自身でしょう」
「う、うぐっ……!」
「それに、この三年間、事実上の当主としての業務はすべてコーデリア夫人が行われていたことも確認済みです」
「なっ……!?」
ジュリアンが息を呑む。
「公爵家の支援と夫人の手腕がなければ、当家はとっくに破綻していました」
エリアス様は書類の束を閉じ、淡々と言い放った。
「実務もせず負債と醜聞ばかりを作る名ばかりの当主など、王家にとっても親族会議にとっても不要なのですよ」
親族の重鎮たちも、深く頷きながら冷めきった視線で元・当主を見下ろしていた。
誰一人として、彼をかばう者はいない。
ジュリアンが顔面蒼白になり、ガタガタと唇を震わせる。
「で、では、僕はこれからどうなるんだ……!?」
「ご安心くださいませ。わたくし、ジュリアン様の純愛を最後まで応援いたしますわ」
わたくしはしゃがみ込み、震える元・夫の足元にバスケットをそっと置いた。
中には、香ばしく焼き上がった『パンの耳』がぎっしりと詰まっている。
「ジュリアン様には、この愛の巣の居住権と、月々の『パンの耳代』を生涯支給いたします!」
「ぱ、パンの耳……!?」
「チェルシー様は残念でしたけれど――」
わたくしは春の陽だまりのような微笑みを浮かべ、高らかに告げた。
「次の『真実の愛』が見つかるまで、わたくし、ずっと応援しておりますわね!」
そのまま踵を返し、待機していた馬車へと向かう。
ステップの前では、エリアス様が恭しくエスコートの手を差し伸べてくださった。
昔からわたくしの実務を支えてくださっていた、頼もしい幼馴染でもある。
「お見事な『応援』でしたね、コーデリア様。……これでようやく、わたくしからも正式な求婚の書類を提出できそうです」
「まあ、エリアス様。わたくし、今は領地経営が一番の楽しみなんですのよ?」
「ええ。何年でも、隣で帳簿を揃えながらお待ちしますよ」
優しい微笑みに手を引かれ、わたくしは馬車へと乗り込んだ。
澄み渡る青空の下、車輪が軽やかに回り出す。
背後から元・夫の泣き叫ぶ声が聞こえた気がしたけれど、わたくしは一度も振り返らなかった。
――きっと、真実の愛を叫ぶ情熱的な歌声に違いないわ。
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