世界五分前仮説を信じている私は誰も恨まない
この世界は五分前に作られた。だから私は誰も恨まない。
私はこの二十年、散々な人生を送ってきた。虐待、いじめ、彼氏からのDV……。
苦しくて、悲しくて、辛くて……壊れそうだった私はある時「世界五分前仮説」という理論に出会った。
簡単に言うと、この世界も記憶も五分前に作られたものという理論だ。
私は悟った。ああ、この苦しみも悲しみも、五分前に作られたものなのなら、苦しまなくていい。悲しまなくていい。誰も、恨まなくていい。
そう思って私は生きてきた。
「芹香(せりか)ぁ! なんで飯ができてねぇんだよ!! 俺が帰ってくるまでに用意しとけって毎日言ってるよなぁ!?」
彼氏はいつものように大声で怒鳴り散らす。
「パートが長引いて……」
「言い訳すんな!」
ゴッ。
私はいつものように顔を殴られた。彼氏の気が治まるまで殴り続けられた。
大丈夫。これは五分前に作られた世界だから。何も怖がらなくていい。
次の日。
「芹香……昨日はごめん……。俺もやり過ぎた。だから別れないでくれ……」
彼氏はそう言って私を抱き締める。大丈夫、五分前に作られた世界だから何も恨んでなんかないよ。
私はいつも寄るコンビニに向かった。彼氏にスイーツでも買ったら喜んでくれるかな。そう思って商品を選んでレジに持っていった。
レジにはいつもお馴染みの店員さんがいた。店員さんは私を見ると顔をしかめた。
「あの……」
「はい?」
「ずっと思ってたんですけど、大丈夫ですか?」
「?」
一瞬なんのことだろうと思ったが、そういえば昨日彼氏に顔をしこたま殴られていた。日常と化していたのですっかり忘れていた。
「大丈夫ですよ」
私がそう言うと店員さんは一瞬ためらった後に言った。
「もうすぐシフト終わるんで、ちょっと話せませんか?」
彼氏は今日は帰ってくるのが遅い。まあちょっとくらいなら……。
「いいですよ」
「すみません、待ってもらって」
「いえ」
店員さんは私服に着替えて私の待つコンビニの前にやって来た。
「それで……本題なんですけど……その、誰かに暴力受けてるんじゃないですか? 行政とか警察とかに言った方が……。俺も手伝いますよ」
「いいんです」
「いや、だって……」
「『世界五分前仮説』って知ってますか?」
店員さんはぽかんとしたあと言った。
「この世界も記憶も五分前にできたってやつですか?」
「そうです」
「それが……?」
「だから、いいんです。五分前に作られた世界に憎しみも悲しみも辛い気持ちもありません。私は誰も恨みません」
そう告げた後、店員さんは少し黙ってから真剣な顔で私を見つめた。
「この世界が五分前に作られたかどうかは証明できません。でも、あなたには辛いと思う権利も、悲しむ権利も、苦しむ権利も、誰かを恨む権利もあります。それと……」
店員さんは私の手を取った。
「幸せになる権利も」
「……」
私が黙っていると店員さんはポケットからハンカチを出した。
「使ってください」
「え……」
私は自分の頬に手を添えると涙が流れていた。
そっか……やっと気づいた。私は誰かに自分の気持ちを認めてもらいたかったんだ。
私は子供のように泣きじゃくった。店員さんは私が落ち着くまで背中をさすってくれた。
「海戸(かいと)、お待たせ」
「待ってないでーす」
あれから私は彼氏と別れ、店員さん……海戸と付き合うことになった。一悶着あったが、海戸がなんとかしてくれた。
「芹香、今日も可愛いな。髪型も服も似合ってる」
「ふふ、ありがとう」
「今日はどこ行く? クレープ……タピオカ……パンケーキ……」
「甘いのばっかりじゃん」
この世界は五分前に作られたかもしれない。
けど、私のこの気持ちは本物だって信じてる。
私は今、幸せだ。




