不束者
妻と向かい合って、もう一時間は経った頃だろう。その間僕らは静寂の中に身を落としていた。心許ない黄色光に照らされた木製の厚いテーブルは、新婚の頃に二人で散々悩んで、ああでもないこうでもないと喧嘩寸前にまで追い込まれて、とうとう僕が折れて決めたものだった。それを挟んで今、向こう側に座る妻の視線は怒りとも悲しみとも言い知れぬ様相だった。その顔を見て、ようやく愛すべき妻に皺が幾つも増えていることに気が付いた。
じっと眺めていると、その端々があの頃の妻とは違うように思えてくる。鼻の大きさ、唇の厚さ、髪のハリツヤに至るまで、何から何まで別人の様である。段々と目の前のその女が愛すべきあの妻であるかどうかすら分からなくなってきた。誰かと聞かれたら今度は僕が一番苦手な人を思い起こす。蛇を丸呑みにしてしまう様なあの顔を思い出すと、それだけで嫌な気持ちになる。僕がその人を苦手であるということは妻も承知の上で、尚且つ昔は冗談の中にすら度々登場するような人であった。最近になるとこの夫婦仲も軽く息を吹き掛けるだけで倒れてしまうようなものになってしまったので、僕は此処にすらそれを明記したいと思えない。
通常結婚のご挨拶というのは義父を警戒して行くものである。しかし義実家の玄関を開いた時僕らを迎えたのは義父だった。それ以上のことを書き記す気は無い。それだけで十分伝わる筈だし、そこで僕は妻を形作る本性に気が付くべきだったのだ。
とにかく、妻は父似であるということを常々自慢の様に語っていた。性格も顔も確かに義父によく似ている。しかし、纏うオーラなのか魂なのか、とにかくやはりどこかあの人に似ているのだ。義父の暖かい身体にあの人の髪を貼り付けて産まれてきたみたいだ。僕らの間にいつか子を設けたならその髪は剃ってもらいたい。いや、言い過ぎた。設けたらなら、なんてそんな話は夢だ。もし本当にそれが叶うならば髪なんかいくら生やしてもらったって構わない。
数年前までに三度機会があった。一度目は出来たと思ったらいつの間にか流れていた。人の命ひとつがこうも簡単に失われてしまうのだという驚きで僕は涙一粒零せなかった。妻もその様な感じで呆気にとられてしまった。二人目は名前まで決めていた。そろそろお腹も大きくなる頃だろうと期待した矢先、その子はその先まで進めなかった。三人目には名前までつけていた。エコー写真を見る度に二人で泣いて喜んで、病院の帰りには行き付けのイタリアンを作るほどだった。しかし、先天性の重度の疾患が見受けられ、散々悩んだ挙句見送った。妻はそれから口数が減った。妻の方が苦しいなんて痛いほどわかるが、僕も我が子を自分の判断で殺してしまった苦しみからどうにも慰める気持ちにまで至れなかった。
妻はそれでも大人しく、二人で選んだ机を前にマグカップを抱えて僕をじっと見る。その不気味な目の奥から、お前のことなんか見透かしているぞ、なんて脅してきているようにも感じた。見透かしているのだろうけれど、僕には決してやましいところがない。やましくないのだからどうぞお好きに見透かして欲しいものだ。先の件も然り、それ以外のことだって僕が全くもって思うところの無い話など決してないのだ。是非ともじっくり見透かして正体をこの前に晒してもらいたい。百聞は一見にしかずだ、とにかく見破れるものならそれで見破って頂きたい。しかし、この決して短くない結婚生活の共としてのうのうと仕事一本で生きてきた僕にだってこの女の正体が良くわかる。さて、如何にして誤解を解くべきかと悩むにも僕の身体は疲れ過ぎている。
明日は早朝から会社に出向いてオンラインで行われる会議にわざわざ会社のパソコンから参加しなければならない。僕の不平も不満も大きな濁流の前には如雨露の水と等しく、無力なものだ。そんな事ばかりで本当に嫌気が差す。次に僕の頭を過ぎるべき言葉は決して結婚生活で口にしてはいけない言葉だった。瞬く間に取り消さなければならない。学生時代付き合ったり別れたり、別れたと思ったらまた付き合ったりする様な奴らが居たのをよく覚えている。ああいうのはダメだ。
この感覚はカトリックだのプロテスタントだのそういう僕の範疇にない価値観の中で生まれた常識ではない。増してや世間だの文化だの仏教だのそんなのは僕にとってどうでもいいのだ。そうと決めたものを簡単に一々変えるのはその「そう」そのものを弱くする。そんなことをしていると自分では何も決められない人間になってしまうのだ。だから簡単にくっつくだの別れるだのしてはいけない。
二本の針が時計を割くように重なり、ついにこの椅子に座り始めたのが昨日ということになった。妻はちょっと来てと言ってからとうとう一言も発することなく日を跨いだ。座っているのもそろそろ退屈になってくる。スマートフォンをソファの方に置いてしてしまったことをつくづく後悔した。不思議な事に妻も携帯を触ってはいない。むしろ今座り出したような平気な顔でこちらをただじっと見ている。それはそうであるべきだと言われれば確かにそうなのだが、しかしもう何時間も随分長くここに座っていればその忍耐力に恐怖さえ覚える。全く不気味にこちらだけを只々見ているのだ。
妻の手の中にあるココアがもう湯気すら立てていない。妻がもし手の内にある所謂僕の弱みなどという決してこの世に存在しない何かを持っているのならば、さっさとここに晒して欲しい。それを紐解いてこの場を開くべきなのだ。しかし、話すべき事が多過ぎて手も足も出せない様な気持ちで居るのかもしれない。とにかく勢いよくここに吐き散らす事さえも出来ないほどに気力が削がれて、よっぽど妻自身を苦しめて居るのだ。あるいは妻は僕にそれを白状させて始めようとしている。そんなもの無いのだから白状の仕様がない。早いこといつもの溜息を吐いて、何かと頓珍漢なことを話し出して貰わなければ話は進まらない。今回こそは、と向こうも意気込んでやはりこちらに白状させなければ、自供を取らなければ実刑には至らないのだと確信しているのだろう。長い夜にはどこを詰めたって僕の睡眠時間を挟み込むことはできない。男は口下手だの話し下手だの、女は察してだの分かってだの、とにかく世の中は皆言葉足らずなのだ。
この言葉足らずの世の中の中心に皮肉にもこのテーブルがある。テーブルの縁をなぞれば、経年と共に丸くなった角が愛おしく感じる。換気扇が回っている。キッチンか風呂場かはしらないけれど、こうも静かだと何処からでも聞こえてきそうなものだ。ノイズが混じるように震える雑音は次第に僕らの関係を濁して、そのままの空気をどこかに排泄する。音が微かに空気を振動させるのさえ肌を通じて明瞭に感じる。それは単に僕が神経質になっていたという話だけではない。それだけ静かで徐々に衰退していく興味の表れでもあったのだ。
しかし、妻の呼吸音だけは全く聞こえてこない。彼女から響く物音はスクリーン越しに聞こえる環境音の様に現実味、というのやら温かみというのやらそういうものを感じられなかった。もしかしたらいつも通りの妻かもしれない。しかし今の僕にはもういつもの妻を思い返すこともできないのだ。目を擦ったら目の前に妻など居らず、ただ僕が疲れて座っているだけという妄想さえ、不意に浮かんでくる。両手を机に軽く広げて、机の大きさを感じる様に一本一本の指先で順番に机を鳴らした。鳴らしたら響いて、乱雑な音の中にリズムが生まれる。奇妙な事を言うようだが、しかしそれが僕を現実に引き戻して居る気もした。しかしこれが良くなかったのだと直ぐに後悔する。これでは、まるで僕がこの時間で反省するどころか退屈で指遊びを始めたように見えるだろう。
突然妻は立ち上がって、長い髪があの顔を隠す。呆気にとられていると、声を掛ける暇なく妻は部屋から出て行ってしまった。テーブルに一人残されて、ようやくはっきりとした後悔が襲ってくる。いつの間にか立ち上がって、それでいつの間にか崩れる様に座り込んでいた。現実に戻ろうと、所謂手遊びをして、その結果やはり現実に戻ってきたのだから本来僕は喜ぶべきだ。誤解を恐れずに言うのならば、あの張り詰めた沈黙の裁判が閉廷し、僕は無罪放免になってようやく解放されたわけなのだ。しかし、一応こう書き加えておくならば、わざわざ特筆すべきでは無いと重々承知で言うと、勿論良い気分では無い。心の中には妻と向かい合っていた頃よりよっぽど重い罪悪感が取り残されている。妻を追い出せた喜びが無意識の中で僕の中で育つのを感じ、それが僕の妻を知らぬ間に苦しめている気がしてならない。自分の浅ましさもやましさもここに来てようやく知覚できる距離に発見した。
その苦しみが軈て僕を裁き始め、また新たな裁判を予感する。結局僕はまだ容疑者の気持ちのままだ。しかもさっきより余程明らかな心当たりがある所為で今度ははっきりと落ち着かない。席を立って台所に寄りコップ一杯の水を汲んだ。舌を撫でる水は軈て喉に滑り込む。在るべき住処を見つけたみたいにすんなり浸透し、赤の他人だった水道水が身体の一部になる。その感触が心地好くて、もう二杯も飲むと今度は毒みたいに不味くなった。
そもそも僕は何のためにこんな深夜まであの席に座らされて只ジロジロと見られなくてはいけなかったのだろう。あの様な尋問を受ければ解放されたがるのは当たり前の感情だ。それを引き合いに出して僕は罪だ罰だと騒ぎ立てるのは筋違いである。椅子に戻って今度は腕を組む。腕を組んでみたもののどうにも落ち着ける位置を見つけられない。汗がシャツと肌とを隔てて居心地を悪くさせる。肘を着いて顎を乗せてみてもなんか違う。靴下を脱いでみるのもいいかもしれない。ネクタイを緩めてもワイシャツのボタンをいくつか外してみてもどうにも心が落ち着かない。
なんだかんだ心を乱して焦るのは不甲斐ない。しかしそうまで至ってようやく僕のくだらない自尊心を発見した。一々言うまでもないが、それが要因で簡単な話がこうも複雑になっているのだ。正直に包み隠さず晒すにしてはどうにも言葉が見つからない。また居てもたっても居られなくて今度は冷蔵庫に向かう。こいつは困ったら直ぐに何か口に物を運びたがる男だ。しかし、深夜のこの限られた世界観の中でこのむらむら湧く言い知れぬやり切れなさに似た気持ちを収めるにはそれしかないと思われたからだ。
一缶たりとも冷蔵庫には酒がない。僕はまた、無意味にこの椅子と台所を行き来した訳で、だからといって変化はない。薄暗い所為で虚しさがやけに際立つ。妻が二度目に妊娠をした時から酒やタバコの一切を棄てた。それ以来一切断つ等と意気込んだ訳では無いが、何となくまた始めるのも億劫になってとうとう今まで結果的に一切を絶っていた。酒を飲みたいなどと思うのも久しぶりのことだった。無いのだと思うと欲しくなる。今度はそれの事ばかりが頭を過ぎる。別に僕まで禁酒する必要は無かったはずだ。けれど、まぁ、日に日に優しくなる妻を見て、その反対側にある酒がつまらなく見えたのだ。言い訳をするのならば、今だって酒の喉越しやら芳ばしい味を求めている訳ではない。ただ無いという幻の、その良い気分にさせてくれる飲み物が欲しいのだ。
無いものが欲しいのだから、あってはいけない。その理論が勝手に紐付いて、近くのコンビニに行くのは億劫になる。さて、何の話だったか。兎も角、明日には会議もある。早く寝なくてはいけない。会議なんかもう知ったことではないという気さえしてくる。幸福というものは時間の中に閉じ込められていて、僕らは働けば働くほどそれを何処かに零している様な気がする。会社で時計を見る度に、時間が金で買われているという実感が湧いてきて妙な焦りと虚しさがキーボードを叩く指先を鈍らせる。
幸せになりたいのならば、時給千五百円くらいの深夜バイトをしながら妻との時間を最優先にできた方がいい。もう子供も望めないのなら、せめて妻との関係だけは守り抜いて置かねばなるまい。そんな事ばかりは分かっている。しかし、それが分かっていない自分もやはり居るのだ。振り切れている風に心の中すら騙して、決してその場から動こうとしない自分がずっとこの椅子に座っている。妻のことを考えているはずなのに、妻以外の事ばっかりだ。
惨めな話だ。何を望んだって僕は変われない。きっとそういう所だ。妻が僕をこの椅子に呼び出し、座らせ、そのまま何も話さなかったのは言われたこと以上の何も決められない男への失望だったのだ。その真意に気付くことすら出来ず、惨めにも言い訳ばかりを並べ立てる心さえ見透かされて、その所為でとうとう言葉を発する気力さえ喪わさせるほど呆れかえって眠ってしまったのだ。
身体の心を突き刺すような衝撃が僕の頭に流れ込む。真に意識が覚醒するというのはこういうことだろう。起きている間では決して感じられない衝撃を夢の続きという名目で脳に直接響かせたのだ。そうやって目を開けてようやく自分があのテーブルの上で眠っていたことを知った。台所の方で妻が朝食を作っている。焦って時計に目を移すと、もう朝の長い会議が終わる頃だろう。血が全身を駆け巡って駆け巡って、何だかはっきりとしてきた。会議はもう、取り敢えずどうしようもないのだからどうでもいい。クビにしたければするがいいと言う吹っ切れた気持ちだった。ベーコンがフライパンの上で良い音を奏でる。それに乗せて、誰かの鼻歌が宙を舞う。僕はそれが何だか一周回って愉快に思えてきた。起こして欲しかったとか、呑気にしてるなとかそういう理不尽なことを思わなかったわけではないけれど、それ以上に楽しそうな声で目覚めた喜びを一旦感じておこうと思ったのだ。昨日とは打って変わった妻の様子が新婚の頃を想起させる。あの頃の失敗の数々に比べたらこんなもの別にどうということはない。
「楽しそうだね。何かいい事あった?」
嫌味にならないようにと細心の注意を払って話しかけた。わざわざ上機嫌の妻の気分を害する程愚かでは無い。すると妻は料理の手を止めて、僕の方を見る。それから人差し指を顎の下に当てて少し考えてからこう言った。
「昨日は珍しい鳥が罠にかかってて、久しぶりに長い事見てたのだけどそれでいい夢見られたのよ」




