てきとー先生
僕の通っていた中学校には、ひとり、妙に印象に残る先生がいた。
森田達也。今年で34歳。国語の教員。
課題は適当、授業も適当、さらには返答も適当。
生徒からは陰で「てきとー先生」と呼ばれていた。それなのに、黒板に書かれる文字だけは、不思議なほど整っていた。
僕は、その先生がどうしても好きになれなかった。なぜなら僕は、「適当」ができない人間だったからだ。物事は、ちゃんと向き合わなければならない。そう思って生きてきた僕にとって、森田先生は理解できない存在だった。
僕、中村慎太郎には、夢があった。
それは、天体の研究をすること。幼いころから星が好きで、夜空を見上げる時間だけは、世界がやさしくなる気がしていた。休み時間になると、僕はいつも天体の本を開いていた。
星の名前、距離、分類それらはまるで意味を持たない記号の羅列のようなのに、ページの奥からは、言葉にできない広がりが伝わってくる。
教室のざわめきは遠く、今ここにいる自分と、本の中に広がる宇宙のあいだには、薄い膜が張られているようだった。ページをめくるたび、時間だけが、ゆっくりと溶けていく。
「おい!」
突然の声に、身体が跳ねた。
顔を上げると、クラスでいつも騒いでいる男子の集団が立っていた。
名前は知らない。覚える必要もなかった。
「何その本www?」
一人が、面白そうに僕の手元を指さす。
「て……天体の本だよ……」
喉の奥から、かすれた声が出た。
「えw天体やってwwwおもろwwwなにw?研究員にでもなりたいんwww」
笑い声が重なって、教室に広がる。僕は、何も言えなかった。
キーンコーンカーンコーン。
救いのようにチャイムが鳴る。
「やべ、じゃあ頑張ってwww天体くんwww」
「ぎゃははwww」
彼らはそう言い残し、席へ戻っていった。
胸の奥に、黒い何かが沈んでいく。
次の時間は国語だった。てきとー先生が教室に入ってきたはずなのに、何を話していたのか、まったく覚えていない。涙で視界が滲み、黒板の文字はぼやけて読めなかった。
気づけば、またチャイムが鳴っていた。
昼休みだ。
僕は本を抱えたまま、教室を飛び出した。
背中に突き刺さる、いくつもの視線を感じながら。廊下を走っていると、誰かとぶつかりそうになった。
「うわ!危ないじゃないか!」
顔を上げると、数学教師の鷲見政人が立っていた。
「す……すみません」
彼は僕の腕にある本をちらりと見て、鼻で笑う。
「そんな本を読んでないで、勉強をしろ」
僕は、成績が悪かった。理由は、明白である天体の事にのめり込んでいたからだ。
「なんだ?天体の研究員とかになりたいのか?」
鷲見は、値踏みするように僕の目を覗き込む。
「……はい」
かすかな声で答えると、彼は小さく笑った。
「無理無理。お前の頭じゃな。それに研究員なんて金もかかる。どうせ無理だろ」
言葉が、胸に突き刺さる。
「勉強しないと“いい大人”になれないぞ。“いい人生”も送れないぞ!」
それだけ言って、鷲見は去っていった。
廊下を歩く生徒たちの視線と、ひそひそ笑う声が、耐えられなかった。
僕は、走った。
学校の裏手。
誰も来ない場所で、僕は立ち止まった。
視界が滲み、息を殺して泣いた。
(いい大人って何なんだよ。テストでいい点取るのが良い大人なのかよ)
鼻をすする音だけが、静かに響く。
僕は怒りに任せて、本を投げようとした。けれど、ふと表紙が目に入る。
星空の写真。
静かで、遠くて、変わらずそこにある光。投げられなかった。
その場にうずくまり、僕はただ泣いた。
教師にも、同級生にも、夢を笑われて。
どうすればいいのか、分からなかった。
「うぉっ」
不意に声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、「てきとー先生」だった。
少し驚いた顔で僕を見下ろしていた。
「なんだよ、人がいたのかよ」
眉をひそめ、いかにも面倒そうな顔をしている。
先生は僕のそばまで歩いてくると、低い声で言った。
「お前さ、俺がここでタバコ休憩してんの、他の誰かに言うなよ?」
そう言って、ポケットからタバコの箱とライターを取り出す。
火をつけると、先生は何も言わず、空を見上げた。白い副流煙が、ふわりと立ちのぼり、空へと吸い込まれていく。
「……なんで、泣いてるのか聞かないんですか?」
思わず、そう口にしていた。
先生は、口元だけで笑った。
「聞いても、めんどいw」
やっぱり、適当だ。そう思った。
タバコの苦い匂いが、鼻の奥に残る。
「……“いい大人”って、“いい人生”って、何ですか?」
自分でも驚くほど、真剣な声だった。
「……あ?」
突然の問いに、先生は目を丸くする。
少し間を置いてから、頭をかきながら言った。
「あー……よく分からね」
「え……?」
予想もしなかった答えに、僕は言葉を失った。
「俺だって、いい大人じゃねぇしさ。人生で一度も、“いい大人”なんてやつに会ったこともねぇよ」
先生はタバコを指に挟んだまま、空を見た。
「優しい人がいい大人なのかって言われりゃ、そうでもねぇし。そんなもん、難しく考えなくていいんじゃね?」
僕は、黙って聞いていた。
「いい人生も同じだ。勉強して、金もらって、それで“いい人生”って言えるのかよ」
先生は、肩をすくめる。
「自分がやりたいことやって、人生を楽しめたら、それでいいんじゃねぇかな。数学が得意だろうが、国語が得意だろうが、その知識が人生で役に立つとは限んねぇしな」
煙が、ゆっくりと流れる。
「最低限の常識だけ押さえてさ、あとは好きなこと学べばいいんだよ。難しく考えんな。人生なんて、適当でいいんだ」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
自分のやりたいことをやる。
たったそれだけの言葉が、胸の奥で何度も反響する。
先生は、ちらりと僕の抱えている本に目をやった。
「それ、なんの本?」
「……天体です」
「へぇ~。なんか、難しそうだな」
「……そうですか」
先生は「ふーっ」と煙を吐いた。白い煙は、ゆらゆらと揺れながら、雲に溶けていく。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムの音が、空気を切り裂いた。
「やべ、時間だ。お前も授業、間に合うように走れよ!」
それだけ言い残して、先生は校舎の方へ歩いていった。僕は、その背中を見送ってから、手元の本に目を落とす。太陽の光を受けて、表紙の星が、ほんの少しだけ輝いて見えた。
なぜか、その光は、さっきよりも近く感じられた。




