バグ⑨小田と先生
「よかった、天…。」
疲れ切った父と、ひどい顔の母が、最初に目に入って来た。ピッピッと鳴り響く機械音に、カーテンの閉まった病室だった。
「ああなんだ俺、生きてるんだ。」
生き残ってしまった。まだ生きていた。死ねなかった。あきらめの声色を感じ取って、事故ではないと察してしまった両親は押し黙った。もう半分の勘違いであってほしいという気持ちから、口を開いた。
「そうよ、あんた手を骨折して、足は捻挫だって。」
「とにかくよかった。」
しかし二の句が継げなかった父は、とにかく休みなさいと続けた。母を促し、一度病室を後にした。
今はいったい何時だろう。外が暗いのがなんとなくわかるので、夜だろう。いったい自分はこの先どうやって生きていけばいいんだろう。おかしくなった頭でどうやって。
一人になってしまえば聞こえるのは、機械音と遠くでナースコールに応答する声。湿った空気が肌にまとわりついていた。そういえば雨に打たれた気がする。今はすっかり乾いているが、どうせなら風呂に入りたかった。がんじがらめに固定されている右手に、頭に巻かれた包帯。左手には点滴と身動きが取れなかった。足も痛いしそのせいで脂汗が出てきた。その夜は高熱にうなされてまた眠ることはできなかった。
明るくなってきてからようやく、目をつむれるようになってきた。
点滴が左手から右手に差しなおされ、何とかなれない左手でお茶を飲んでいると、椅子に座っていた母が、重たい口を開いた。
「何があったの?」
ペットボトルを握りしめ、捻挫した小田の足を眺めていた。小田は口を開きかけ、そして閉めてから、あー、と意味のない言葉を吐いた。
「クラスに、ずっと休んでいた女子がいたんだ。そいつが、毎日学校に来ていたらしい。」
「どういうこと?」
「あー、俺には見えなかった。3カ月間一度も。」
母と目が合って、しばらくじっと顔を見られた。こんな荒唐無稽な話、信じてくれなくてもしょうがない。
「それで、どうしたの?」
一応最後まで聞いてくれるらしい。
「コワイだろ。見えない人がいるの。同じ教室に幽霊がいるんだ。だから耐えられなくなって、逃げてきて、そして逃げたら、落ちた…。そういう感じ。」
「その子は、幽霊なの?」
「俺には。でもクラスメイトは普通に話している。俺には聞こえないのに話してる。それをもう入学当初からずっと。最初はからかわれているのかと思ったけど、みんな真面目なやつだし、そんなことしないし、だから、俺の頭がおかしんだと思う。」
そこまで言うと母は少し考えたそぶりを見せた。
「もしかしてだけど、お医者さんに行ったら、何かわかるかもしれないわね。」
それは精神科にかかるとかそういう話だろう。むしろそうしてほしかった。頭がおかしいなら、その専門家の人に聞いてみたい。
「そうしてほしい。もう、限界。」
そんな話をした後に来たのが小林だった。
なんで、自殺しようとしたの。
そう言われて初めて、そういえばそうだったと思いなおした。あの時やみくもに走って、そして小林を追い越したような気がする。そのあとに公園の階段に上っている時に、水たまりを踏んで、駆けあがっていくうちに、何か声が聞こえたのだ。木々の隙間から。
しかし言って信じてもらえるだろうか。なにせ、見えないのは、小林が『いつも一緒にいる親友』なのだ。口をへの字にして、何かをこらえながら話を聞いている彼女に、どうしてもコガワコトリが見えなかった、そういえなかった。
結果だけ言えば、意外なことに小林はこのことを飲み込んでくれたようだった。小田の体調が悪くなると気が付いてからは、心構えをさせるべく、コピーしたノートに付箋を貼って、『今日は遠藤、小林、コガワで来た。』と書いてくれたので、体調は悪くなったが、気持ち的には楽だった。
7月に入ったある日。
菊山からメールが来た。明後日金曜日の放課後に、小林と一緒にお見舞いに行ってもいいかというものだった。最近は病状も安定してきていたのでいいと返事を出した。そういえば週末に譲渡会の手伝いに行くと言っていたのに、すっかり約束を破ってしまっていた。
「天、先生がいらしたわよ。」
母がまだ年若い先生を連れてやってきた。今日は精神科の先生の診察の日だった。手に持っていたサッカーボールを膝の上に置いた。捻挫はだいぶ良くなったが、足を曲げられるほどではないので、体だけそちらに向いた。
「どうも、佐々木です。」
優しそうな男の先生だった。
「こんにちわ。」
自分の頭がおかしいのは半ばあきらめている。今後同じ『症状』が出ないように治療できれば、それが一番いいし、見えるようになったらいい。でもそれができないなら、自分はいったいどうしたらいいんだろう。元来のんきな小田が、事これに関してはそう、不安に思っていた。一通り自分が見たことを話した。先生はふんふんとしっかり聞いてくれた。
「病名は簡単に分かるものでもないし、いろいろ検査もしなくちゃならないけど、天君が不安ならパッと思いついたものだけ言おうか。解離性障害あたりかなとみてるけど、一人だけ見えないってのがちょっと症例と違うかなって思ってる。でも検査をしてみてかな。」
「はい、検査ですね。」
「そこで、お母さんにも聞いてほしいんだけど、ちょっと提案があります。」
その提案は、小田にとっては思いもよらないものだった。