バグ⑦小田と菊山
見えないのに、『いる』
今日もいる。今日もいる。
声が聞こえた気がして振り返っても、そこには何もいなかった。怖くなって、早く学校から離れたくて、帰り道はいつも早歩きだった。
信号が赤に変わって、横断歩道で止まっていたら、ふいに背中を思いっきり押された。前のめりに車道に倒れた。青信号に動き出した車を、視界の端にとらえていたので、咄嗟に2,3回転がった。
ギギーとブレーキ音が耳元で鳴った。車の油臭さと、アスファルトの熱さが異常事態であると頭に信号を送って来た。あのままあそこに倒れていたら、轢かれていた。運転手の人が気が付いてすぐ止まってくれなかったら、死んでいた。
振り向いて歩道を見た。
何もいない。見えない。でも、そこになにかが『いた』
確実に『それ』に殺されかけた。教室や学校の中だけにいるんだと、少し油断していた。まさか路上で背中を押されるとは思わなかった。これではっきりした、その見えないなにかは、自分に恨みがあるのだ。たとえ心当たりはなくともきっと自分が何か気に食わないことをしたんだ。
小田は走り出した。
駅につき、電車に乗り、家まで。生きた心地がしなかった。リビングでスマホをいじってこちらも見ずにお帰りと言った妹の後ろ頭を見たとき、心底ホッとして涙が出てきた。そのまま部屋に行ってベッドに倒れこんだ。
なんでこんな目に合うのか。どうして。それにさっきのはコガワコトリか?
自分が何をしたっていうんだ。もう放っておいてくれよ。もしや存在がコワイと言ったせいか?たったそれだけで?
その日の夜は眠れなかった。暗闇で目をつむるのができなかった。朝方明るくなってきてようやく、少しだけ眠った。
朝会ギリギリにクラスに入った。もちろんあまり教室にいたくないという心の表れだった。そして国語の授業、先生が教科書を一節ずつ、生徒に読ませていた。女子の工藤が読み終わり、その次はコガワコトリだ。しんと静まり返った時間が数分あり、一節飛ばしてその後ろの席の小林が読み始めたときに、限界が来た。
教科書がうねっとのたうち、教室がチカチカしだした。息を吸っているのか吐いているのか分からなくなり、床と天井の区別があいまいになった。耳には遠く、遠藤の声が聞こえていたように感じるが、気のせいかもしれない。
意識を取り戻したのは保健室だった。
保健室の先生に朝ご飯どころか昨日の夜を食べていないと言えば怒られ、眠れなかったと言えば寝ろ、と言われた。不摂生を一通り注意されて先生から親に連絡が入ってしまった。ご飯を食べればよくなるだろうと言われ、持ってきていた弁当を早弁させられ、少し寝ていろと言われた。食欲はなかったし、眠るのは怖かった。
しかし無理やり胃にご飯を詰め込んだ。ここにはいないと思えば、少しはご飯を受け付けた。逆に考えれば、コガワコトリは今授業を受けている。そう。ここにはいないのだ。
眠って気が付けば昼休みになり、その頃に教室に戻された。眠ったせいか平静を装えた。そうやって誤魔化してクラスに戻った。昼休み中のクラスの注目を珍しくも集めてしまった小田は、質問攻めにあってしまった。購買に行くために立ち上がった時、みんなが一点を注目して、静かになった。ざわめきもなにもかもしんとなった。それは先生が注目と言った時のような。
ああ、ここには『いる』んだ。
どうしよう、なんと言ったら乗り切れる?咄嗟に遠藤の顔を見た。
「え、何?ごめん…?話がよく…。」
調度、遠藤が答えてくれた。
「心配だったって話だよ。もう大丈夫なんだよな?」
「おう。帰ったら病院行くことになった。」
そういうと、クラスメイトの注目が、だれもいない席に注がれているのに気が付いた。背中にまた鳥肌がぞわっと出来た。おかしいおかしい。でもこれを言ったら自分がおかしいのかもしれない。手をぎゅっと握って廊下に出た。
「このクラスには幽霊がいる。」
そんなアホみたいなことを遠藤に言ってみた。しかし笑われて終わった。そんな話に入って来たのは、猫派の菊山だった。
「なんかこのクラス変なのよね。小田くんも分かってくれるなんて、うれしい。うちの猫を連れてこれたら、どこにいるかわかるんだけどね。」
「猫ならわかるのかよ?」
このクラスは変だ。そう言ってくれる人がいるのは、自分にとっては救いだった。その日からその幽霊について、菊山と少しづつ話すようになった。主に猫の話を絡ませつつする話は、このクラスにいる間の心休まる時だった。
「猫はなんでも分かるのよ。」
なぜかどや顔の菊山を見ていると、心が落ち着いた。小田がつくつくと笑えば、馬鹿にすんなと猫のすごいところをなおさら語るのだ。久しぶりに学校で笑った。
「むきー!今度、にこちゃんを連れてきてあげる!本当にすっごいんだから!」
「いや、にこちゃんは疑ってない。安心しろ。でも学校に猫を連れてくるのは現実問題難しいだろ。まさか猫さんにご足労願うのか?」
「それは無理よね、あなたわかってるわね、流石。」
なぜが握手を求めてきたので、手を握っておいた。何も解決していなかったが、楽しかった。そんな菊山がおかしいと思った点というのが雨漏りの音だそうだ。
「雨漏りの音がするのよ。ぴっちゃんぴっちゃんって。後ろのほうから。それも毎日。移動教室で理科室とかに行ってもするの。私は席が一番前だから、教室のどこかからするんだけど、雨は降ってないし、雨漏りの形跡もないから意味わかんない。音だけなの。なんなの。」
そんな時、菊山がケガをした。階段から落ち、足を捻って全治2週間。さすがに少しいつもの元気がない本人曰く、『登っている時に後ろに引っ張られた。』それに心当たりがあった。あの時自分は車道に後ろから押されたのだから。
「菊山も、か。」
「小田くんも?」
放課後の廊下の掃除中、肩を寄せて声を潜めていた。どこで誰がいや、『アレ』が聞いているかもわからない。そのうち菊山が袖をまくり上げた。
「誰も信じてくれないんだけど、これを見てよ。」
彼女の腕にははっきりと、誰かに掴まれた跡があった。小田が手を当ててみるとそれはずいぶん小さい。しかし子供ではない。
「小柄だな。女子か?」
「でも、それならその子の上に落ちるはずでしょ?それに、私は踊り場に一人で、登ってくる人も降りていく人もいなかったの。しかも、踊り場から三段目の階段が濡れてて、滑ったの。」
踊り場で一人、階段から落とされた。これは誰も信じてくれないだろう。こんなにはっきり残っているあざも、落ちた拍子についたものだと言われたそうだ。先生は危ないからと濡れた階段を拭きとっていた。菊山と小田は、廊下の片隅で大きくため息をついた。
「濡れてたのは偶然かもしれないけど、この腕は何なのよってこと。」
「もしかして、その水音の幽霊か?」
口を引き結んで、険しい顔をした菊山に小田は自分が立てた仮説を言う勇気はなかった。
菊山がいつも水音がするという後ろの席というのは大体教室の真ん中のことなのだ。つまりはコガワコトリの席だ。もしかしたら、菊山の腕を階段を登っている最中に、濡れている三段目まで来てから腕を引いたのは、コガワコトリではないか?理由は定かではないが、小田と菊山がコガワコトリを嗅ぎまわっているのに気が付いて腕を引いたのでは?遠藤や山口の話ではずいぶん小柄な女子らしい。小さい手形にも納得がいく。後ろを振り向いてもコガワコトリなら、姿は見えない。もしそこに『いた』なら?
夏の入り口のはずなのに、小田はふくらはぎの裏から背中がぞわわと怖気だった。
小田を押した時だってそうだ。あの時は確実に自分に『何か』がぶつかったのだ。小田を車道に押し出すべく、すごい力で倒された。あの力で菊山を引っ張ったのなら。捻挫で済んでよかったと思うべきだろう。いまだ収まらない鳥肌を、撫でて落ち着かせようとした。
ここまで考えても、やはり、このことを彼女に言うのは抵抗があった。
菊山なら信じてくれそうな半面、学校でこの話をして誰かほかの人に聞かれたら、特に『アレ』に聞かれたら、今度は何をするか分からない。だったら放課後か休みの日に時間を作るしかない。しかし女子を休みの日に誘うなんてことは自分にはハードルが高い。どうしたものか。
「今週末譲渡会があるのに捻挫なんて。うちでお世話していた子猫ちゃんたちが出るのに。」
先ほどから悔しそうな顔をしていたのはそのためか。いや、待てよ。
「ああ、荷物とかあるのか?手伝おうか?猫に会いたいし。」
「小田くんも猫ちゃん飼いたいの?」
「妹と父さんが犬派だからもめてる。俺は猫がいいな。」
「じゃあ週末に手伝ってよ!あ、連絡先も教えて!」
「おう。」