バグ⑥小田天
サッカーボールを持ちながら、父と、妹と一緒に坂道を登った。秋なら、ここは紅葉が美しい名所らしい。興味はない。先に行く二人の後について、歩いていた。この上にボールを蹴れる場所があればいいが、なかったらリフティングでもしよう。
春から通う高校を見に、ドライブがてらやって来た。駅前から高校までの道のりを、父が車で案内してくれた。前から入りたかった高校だ。受かった時はうれしかったし、今でも楽しみで仕方ない。制服も届いたのでいよいよだ。それでなぜ山を登っているのかと言えば、その高校がある地域の上流にダムがあるらしい。ここまで来たなら足を延ばそう。下の駐車場からではダムの大きな巨体しか見えず、水は見えない。計画放水の時間は終わってしまっていた。
「見たかったのに。時間を調べてから来ればよかった。」
妹は期待していたみたいだ。そこそこ急な坂道を登りダム湖を目指した。まばらだが、人が歩いていた。上に着くと山からの雪解け水が流れ込んで、色の濃い深いダム湖が広がっていた。その道はダムの上まで伸びていた。
「おお、結構広いな。それに高い。」
父が手すりから下をのぞく。それに習って自分も妹も覗いてみた。上から見るとダムの大きさがよくわかる。ダム湖のほうは青空が写っていたが、冬の終わりも相まって肌寒い気がした。一方、ダムの絶壁は身がすくむ高さだった。壁の途中に穴がある。ここから水が出てくるとは、想像できなかった。隣から服をぎゅうと握られ振り向くと、妹だった。怖かったらしい。しかしそれを言うと、あっという間に機嫌を損ねるので、黙っておくことにした。
しばらくして父が、帰るか、と言い出した。妹の様子に気が付いたのかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。ただ、父から目くばせが来たので、前者の確率が高そうだ。
上に登り切ってからすっかり静かになってしまった妹をつれ、来た道を下っていく。駐車場の車に乗った。エンジンがかかった時、やっと妹が口を開いた。
「ねえ、兄ちゃん見た?ダム湖の真ん中に、人が立ってた。」
「人?立ってたって、水面に?」
「うん、人って水面に立てるものなの?私は無理だと思う。」
「俺も無理だと思う。」
「じゃああれ何?」
「うーん、沈む前にたてられた案山子とか?何件かダムの下に沈んでいるって書いてあっただろ。」
「そっか、案山子か。良かった。そうだよね。」
妹も自分も、案山子なわけない、と思っていた。おかしなものを見てしまったら、さっさと忘れるのが一番だ。
「そうだこの近くに、道の駅があるから寄って帰ろう。お母さんに何かお土産を買って行こうじゃないか。」
父が明るく言った。妹も顔をあげて務めて明るく、行くと言った。
入学して初めのうちは楽しく学校に通っていた。新しい友人も、サッカーをする仲間も、いい奴ばかりで本当に楽しかった。遠藤と昼休みにバスケにするか、サッカーをするかで些細ないさかいを起こし、山口にサッカー話に付き合ってもらいながらの学校生活は、本当に楽しかった。その二人から、同じ人の名前を聞いた。
コガワコトリだ。
最初は気にも留めていなかった。同じクラスだとしても女子だと席も離れているし、話す機会もない。そう思っていた。最初の違和感は、遠藤の発言だった。名簿にコガワと載ってはいたが、いつも開いている席があった。入学してから一度も学校に来ていない女子だ。その女子を遠藤が可愛いと言っていたから、小田は自分が知らない間に来ていたのか。その程度に思っていた。その次は小林だった。いつもニコニコ笑っているが、明らかに一人でしゃべって、一人で笑っていた。おかしいと思ったが、だれも何も言わないので触れないことにした。自分意外にそれについて何か思うやつはいないようだった。考えないようにしていた。違和感を違和感のまま、気にしないように。
しかしそれにも限界が来た。
遠藤からはコガワコトリの話を振られるようになった。
「かわいいよなコガワさん。何部に入っているんだろう。」
「あー、知らないな。」
それに小林は知れば知るほどただの真面目な女子生徒で、クラスメイトからの信頼も厚い。ふざけているようには見えなかった。一度、試しに小林にコガワコトリの話題を振ってみることにした。
「小林、コガワ、さんって、何部なの?」
「え、手芸部よ。」
そのうち違うクラスの山口でさえ、コガワコトリの話を出す始末だ。
「何か知っていることない?」
とうとう小田は認めることにした。姿の見えない、声の聞こえない、そんな存在が『いる』ということを。
それはつまり、自分の頭がおかしくなったのを認めることに等しかった。
遠藤から話を振られれば、コガワコトリがいるように話し、山口に聞かれれば、女子は詳しくないとかわす。そうやって何とか取り繕う日々だった。そんなある日だった。
「小田って、コガワさんのこと、避けてる?」
とうとう遠藤にバレてしまった。なんて言い訳をしよう。そのまま、声も聞こえないし、姿も見えない、なんて正直に言えるわけはなかった。そんな事を言ったら確実に頭がおかしい奴だ。
「いや、どうも。コガワ…さん、て、苦手で。」
苦しい言い訳だった。『ソイツ』が本当に存在するのか。小田はここ数日ずっと検証をしていたのだ。例えば担任の名簿で、出席の確認を盗み見た。欠席のマークはついていなかった。例えば授業後の配布物、回収したプリントの名前を確認した。しっかりと提出されていた。あの時は背筋がぞくっとした。なんでいかにも女子が書きそうな字で名前が書かれているんだよ。
「話してみたらいいじゃん、案外大丈夫かもしれないし。」
見えないのに、『いる』
そのことに気が付くたびに、背中に鳥肌がぶわりと立つのだ。この教室に、何かがいる。いや、何かではない。
コガワコトリがいるのだ。
「いや、話す…ことないし、その、コワイ。」
本当に勘弁してほしい。話せないし、どうしたらいいのも分からないのに。そう思って遠藤を見ると、けげんな顔をしていた。それはそうだ。遠藤はその、コガワコトリのことを憎からず想っているのだ。そこで自分が彼女を否定するようなことを言ったら面白くないのはそうだろう。失言だった。今度は違う意味で焦りを感じ、言い訳を並べた。
「あ、別に俺の認識であって、可愛いと言ったお前のことを否定しているとか、そういうのじゃないからな、俺が勝手にコワがっているんだ。どうもその…。」
「いやいいって、わかってるよ。その、どの辺が『コワイ』のかな?とか思ってたり…彼女はクラスで一番小さいし。」
なんていい奴なんだ遠藤。
「あ……、存在。」
そんな遠藤にまた、変な顔をさせてしまった。